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油と錆、そして淀んだ海水が混じり合った不快な臭気が、船室の隅々にまで染み付いていた。
太平洋のうねりに合わせて、鉄の巨体はゆりかごのように緩慢に揺れているが、近藤にとって、この偽装タンカーは安息の場所などでは断じてない。
鉄屑でできた、動く棺桶だ。
近藤 正志。
五十六歳。
かつては中堅企業の課長として、それなりの権勢を誇っていた。
部下を顎で使い、取引先には尊大に振る舞い、自らの地位を盤石なものだと信じて疑わなかった。
だが、あっけなくその座を追われた。
そこからの転落の日々、思い返すだけで虫唾が走る。
そんな失意の底にあった彼を拾ったのが、カルト組織「終末の光」だった。
彼らは近藤が心の奥底に飼い慣らしていた「侮蔑」という感情に価値を見出し、拉致同然の形で彼を拘束した。
そして、人体実験の果てに、近藤は奇妙な能力に覚醒した。
他人を心から見下し、侮蔑の感情が頂点に達した時、一瞬先の未来が脳裏に閃くのだ。
今、近藤は粗末なパイプベッドに巨体を横たえ、汗ばんだ指先で、作業着の懐に忍ばせた小さな硬質プラスチックの感触を確かめていた。
指先ほどの大きさのUSBメモリ。
それこそが、彼の反撃の狼煙であり、未来への唯一の投資だった。
組織のPCから命懸けで盗み出した、信者の個人情報から非合法活動の証拠まで、あらゆる極秘データが詰まっている。
不意に、重く湿った空気を切り裂いて、遠くからヘリコプターのローター音が響いてきた。
おそらく、幹部の日村とその手下どもが、和歌山での「作戦」とやらから帰還したのだろう。
(日村の犬どもめ……)
近藤は心の中で毒づいた。
分厚い脂肪に覆われた腹の奥で、黒く渦巻くような笑みが自然と浮かび上がる。
(全員、和歌山で骨でも拾ってくればよかったものを。まあいい。奴ら主力が船を離れたおかげで、ここ数日の警備は驚くほど手薄になった。好都合だった)
彼はゆっくりと体を起こし、油で汚れた丸窓から外の鉛色の海を眺めた。
この船に残されたのは、思考を放棄した馬鹿な能力者と、何の技能もない末端の乗組員だけ。
彼らの顔を一人一人思い浮かべ、その無能さ、盲信ぶり、人生の敗残者である様を、一つ一つ丁寧に心の中で嬲り、貶める。
それは、近藤が己の能力を錆びつかせないために自らに課した、重要な日課だった。
侮蔑は、彼の力の源泉であり、研ぎ澄まされた刃なのだ。
(哀れな家畜ども。教祖の甘言に酔いしれ、己の頭で考えることをやめた抜け殻が。俺は違う。俺はまだ終わっていない)
このUSBメモリのデータと、研ぎ澄まされた未来視の力。
この二つを切り札にすれば、今の屈辱的な状況から抜け出せる。
まずはこの船から脱出し、データを然るべき機関に売り渡す。
組織「終末の光」はスキャンダルによって崩壊するだろう。
そして、自分を会社から追い落としたあの男――高橋翔太。
若造のくせに自分のもとから去って成り上がり、異星文明とつながり、死からもよみがえった可能性のある、あの男の情報もこのUSBには入っている。
秘密を暴露されれば、奴のキャリアも終わりだ。
組織も、高橋も、まとめて地獄に落ちる。
そして自分だけが、大金と安全を手に入れ、再び陽の当たる場所へ返り咲くのだ。
その完璧な筋書きに、近藤は満足げに息を吐いた。
鉄の棺桶の中で、彼の野心は腐臭を放ちながら、静かに、しかし確かな熱を帯びていた。
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近藤が次なる侮蔑の対象を品定めし、能力の調整に耽っていた、その時だった。
ゴオオオオオンッ!!
腹の底から突き上げるような、凄まじい衝撃。
それは、座礁や衝突といった生易しいレベルのものではなかった。
まるで巨大な神の手が、この数万トンの鉄の塊を鷲掴みにして、岩壁に叩きつけたかのようだ。
近藤の肥満した体はベッドからラグビーボールのように弾き出され、床に叩きつけられた。
間髪入れず、船体が捻じれるような、耳を聾する金属の悲鳴が轟く。
「な、なんだ!?」
床に散乱した安物のカップや雑誌を踏みつけながら、近藤は呻いた。
船全体が大きく傾ぎ、立っていることすらままならない。
壁に据え付けられた非常灯が明滅を繰り返し、薄暗い船室に狂ったディスコのような光と影を投げかける。
船内放送のスピーカーが、途切れ途切れの合成音声をがなり立てている。
しかし、それ以上に凄まじいのは、廊下から聞こえてくる乗組員たちのパニックに満ちた絶叫だった。
右往左往する足音、何かが倒れ、砕ける音、そして恐怖に引きつった泣き声が混じり合い、地獄の交響曲を奏でている。
合成音声がカウントダウンを告げていることだけは辛うじて聞き取れたが、それが何を意味するのか、正確に理解できる者はいなかっただろう。
だが、異常事態であることは明白だった。
近藤の脳裏をよぎったのは、復讐の算段でも、過去の栄光でもない。
ただ一つ、生存への本能的な渇望だった。
彼は床に転がった体を無理やり起こすと、まず真っ先に作業着のポケットに手を突っ込み、USBメモリがそこにあることを確認した。
これだけは、何があっても手放すわけにはいかない。
これが無ければ、ただのデブの中年男として、この鉄の棺桶と運命を共にするだけだ。
「どけ!邪魔だ!」
船室の歪んだドアを蹴破るようにして開けると、廊下はすでに人でごった返していた。
誰もが理性を失い、ただ闇雲に出口を目指している。
近藤は、行く手を阻む信者の背中をためらいなく突き飛ばし、よろめく別の船員の肩を掴んで壁に叩きつけた。
他人のことなど知ったことか。
罵声を浴びせ、人を掻き分け、彼は一心不乱に甲板へと続く階段を目指した。
一体、この船に何が起きたのか。
その目で確かめなければ、次の一手は打てない。
彼の頭脳は、パニックの渦中にありながらも、冷徹に状況を値踏みしようと回転を始めていた。




