2-6
翔太の家のダイニングは静けさに包まれていた。
窓の外では、色づいた木々が風に揺れ、時折落ち葉が地面に舞い落ちる音が響く。
テーブルの上にはノートパソコンと、空になったコーヒーカップが無造作に置かれ、陽光が斜めに差し込んで淡い影を落としている。
部屋の中央、テーブルに座る黒猫姿のアーベルが、尻尾をゆらゆらと揺らしながら翔太を見つめていた。
そのエメラルドのような青緑色の瞳が、薄暗い部屋の中でひときわ輝いている。
「これで目標としてる銀河連盟への報告に一歩近づいたわけか。次は高次元通信機とやらを作ることになるって認識で合ってるか?」
翔太は椅子に凭れ、目の前でくつろぐアーベルに問いかけた。
声には達成感と、次のステップへの好奇心が混じっていた。
アーベルは尻尾を軽く振ると、電子音のような響きを持つ声で答えた。
「はい。高次元通信機自体は簡単に製作できます。しかし、通信を行うためには、ブラックホールの超重力下で生成される特殊物質――『高次元励起粒子結晶』――が必要になります。」
「……そんな物騒そうな物質、地球で作れるのか?」
翔太は眉を寄せ、半信半疑の視線をアーベルに向けた。
ブラックホールという言葉に、どこか現実離れした不安が胸をよぎる。
アーベルはピンと耳を立て、淡々と続ける。
「いいえ、地球上での生成は不可能です。」
黒猫の瞳が一瞬鋭く光り、まるで授業をする教師のような口調で説明が始まった。
「この物質は極端な環境でしか形成されません。ブラックホールの事象の地平面ほどの超重力場を人工的に再現、管理するには、大規模な施設と高度なエネルギー管理が必要です。しかし、現在の地球の技術では、それを構築することすら困難でしょう。」
「じゃあ、どうするんだ?」
翔太の問いに、アーベルは一瞬間を置いた。
黒猫の尻尾がピタリと止まり、静寂の中でその答えが重みを増す。
そして、すっと前足を上げ、しなやかな動きで床に飛び降りた。
「宇宙空間で作業を行います。」
「宇宙……だと?」
思わず聞き返した翔太に、アーベルは頷く。 その動作があまりにも自然で、翔太は一瞬、目の前の存在が本当に猫ではないことを忘れそうになった。
アーベルは床を軽く踏み鳴らし、説明を続けた。
「幸い、この太陽系には小惑星帯という資源の宝庫が存在します。その中でも、金属資源が豊富にある小惑星プシケは、工作機の拠点として最適です。」
「プシケって、あの金属だらけの小惑星か……確か、鉄やニッケルが主成分で、もしかしたらレアメタルもあるとかって話だったな。」
翔太は腕を組み、記憶を掘り起こした。
プシケは火星と木星の間にある直径約200kmの巨大な小惑星で、科学番組やニュースでその名前を耳にしたことがあった。
地球外資源開発の候補地として注目され、金属の塊とも称されるその存在は、宇宙開発の夢物語の一部だった。
アーベルは可愛らしい仕草で首を傾げながら補足する。
「はい。私の推測では、プシケにはブラックホール生成施設の建造に必要な資源が揃っている可能性が高いです。そこで、まずは資源探査と拠点建設を行うための工作機を送り込む必要があります。」
「なるほどな……」
翔太は椅子の背もたれに凭れ直し、考え込んだ。
頭の中で、小惑星プシケのイメージが浮かぶ。
暗い宇宙空間に浮かぶ金属の塊、その星をナノマシンがくり抜き内部にブラックホール生成施設を構築する光景。
SF映画のようなビジョンに胸が少し高鳴ったが、現実的な問題がすぐに頭をもたげた。
「でも、お前の工作機を送り込むにしても、俺にはそんなロケットを打ち上げる手段なんてないぞ。」
「ええ、既存の宇宙開発計画を利用するのが現実的です。」
「……NASAとかJAXAに頼むのか?」
翔太は半ば冗談めかして尋ねたが、アーベルは即座に否定した。
「いいえ。時間がかかりすぎます。」
「ならどうする?」
アーベルはすっと前足を上げ、床を軽く叩きながら答えた。その動作が妙に自信に満ちていて、翔太は思わず身を乗り出した。
「日本には、民間企業が連携して開発を進めているロケットの打ち上げ計画があります。」
「民間企業……?」
「彼らはパルスジェットエンジンとロケットエンジンを組み合わせたハイブリッド宇宙船を開発中です。比較的低コストで軌道投入を可能とする技術を確立しつつありますが、いくつかの技術的課題を抱えています。」
「なるほど……で?」
翔太の声に好奇心が滲む。アーベルは黒猫の瞳を細め、説明を続けた。
「私がその技術課題を解決するための情報を提供します。」
「お前の技術を?」
「はい。といっても確認できている地球技術を組み合わせ、こちらで再現が可能なものを使用します。
見返りとして、彼らの宇宙船に工作機を搭載させてもらいます。そして、地上から容易に観測することのできない宇宙空間まで工作機を運んでもらい、そこから先は私の技術でプシケまで向かいます。」
翔太はしばし沈黙した。
テーブルの上のコーヒーカップに目を落とし、冷めた表面に映る自分の顔を見つめる。
アーベルの提案は確かに合理的だ。
NASAやJAXAのような政府機関に頼る場合、官僚的な手続きや審査に何年もかかるかもしれない。それに比べ、今まさに新技術を求め、資金と情熱で動いている民間企業なら話が早い。
それにアーベルの素性を隠したまま、技術供与を行うことも容易なはずだ。
「……お前、最初からそれを狙ってたのか?」
翔太は目を細め、アーベルを睨むように見つめた。黒猫は尻尾を軽く振ると答えた。
「もちろんです。」
その瞳が妖しく光り、エメラルドの輝きが一瞬強まった。
まるで「計画通り」とでも言いたげな雰囲気が漂い、翔太は思わず苦笑した。
アーベルの計算高さが、猫の愛らしい姿と妙に対照的で、どこか憎めない。
「翔太さん、宇宙へ踏み出す準備はできていますか?」
アーベルの声が部屋に響き、静寂を破った。
黒猫はテーブルの上に飛び乗り、翔太の顔を真正面から見つめた。
瞳の奥には、銀河連盟への報告という壮大な目標と、それを支える確固たる意志が感じられた。
翔太は大きく息を吐き、椅子の背から体を起こした。
窓の外、遠くの山々が夕陽に染まり、赤とオレンジのグラデーションが広がっている。
「……やるしかねえな。」
未来を見据えたその言葉に、アーベルは満足げに「にゃあ」と鳴いた。
翔太は呆れたように笑いながらも、心の奥で高鳴る鼓動を感じていた。
人類未踏の地、小惑星プシケへ――その第一歩を、今ここから踏み出すのだ。