9-18
日村の気配が観察室の闇に消え、白き牢獄に再び偽りの静寂が戻る。
翔太は、空調の低い作動音だけが支配するその空間で、ゆっくりと息を吐いた。
彼の呼吸音と、ドクン、ドクンと自らの心臓の鼓動だけが嫌に大きく響く。
その静寂は、唐突に破られた。
圧縮空気が抜けたような音と共に、壁の一部が音もなくスライドして開く。
現れたのは、黒い戦闘服に身を包んだ兵士二人だった。
顔はヘルメットで完全に覆われ、その動きは個人の意志を感じさせない、機械的なものだった。
彼らは一切の言葉を発さず、その足音だけが部屋に冷たく反響する。
二人は、大型の高精細ディスプレイを運び込むと、翔太が横たわるベッドの正面に手際よく設置し、ケーブルを接続していく。
その間、翔太は息を殺して彼らの動きを見つめていた。
日村の言っていた「教祖」との対面が、刻一刻と迫っていく。
設置を終えた兵士たちは、一礼もせず、来た時と同じように無言で部屋を退出した。
重いドアが閉まる音が、翔太の心臓を締め付ける。
後に残されたのは、部屋の中央に鎮座する黒いディスプレイと、拘束された翔太だけだった。
数秒の沈黙の後、ディスプレイが音もなく点灯した。
一瞬、砂嵐のようなノイズが走り、その光が翔太の顔を青白く照らし出す。
やがてノイズは収束し、画面は純白の光で満たされた。
その光の中から、ゆっくりと一人の男の姿が浮かび上がってくる。
翔太は、息をのんだ。
壮年の男性。
白いローブのような衣装をまとっている。
だが、その顔が異様だった。
左半分が、まるで皮膚と一体化したかのように、滑らかな金属製の仮面で覆われているのだ。
覗く右半分の顔は、穏やかな彫りを持っているにもかかわらず、その瞳は全てを見透かすように鋭い。
光すら吸い込んでしまいそうな、深淵のような黒い輝きを放っていた。
彼の背景もまた、真っ白な空間だった。
まるで、この世の何物にも属さない、隔絶された場所にいるかのようだ。
無機質な部屋の雰囲気と相まって、その存在は神聖なものにも、あるいはこの上なく不気味なものにも見えた。
翔太がその異様な姿に圧倒されていると、男は静かに口を開いた。
「はじめまして、高橋翔太。私はグレゴリー・ネリューボフという。『終末の光』を導く者だ」
声は穏やかなバリトンだった。
だが、低く響くその声は、部屋のスピーカーから全方位に広がり、有無を言わせぬ威圧感となって空間全体を支配した。
翔太は、まるで自分の脳内に直接語りかけられているかのような錯覚に陥っていた。
終末の光……やはり、こいつが。
こいつが、あのサキシマ重工での惨劇を指示した張本人。
仲間を危険に晒した元凶。
恐怖と同時に、腹の底から熱い憎しみがこみ上げてくる。
男――教祖は、そんな翔太の内心を見透かしたかのように、わずかに口元を緩めた。
だが、その黒い瞳は、一切笑ってはいなかった。
「まあ、落ち着いてください。君も私も、同類なのですから」
「……同類、だと?」
思わず、声が漏れた。
翔太は、ディスプレイの中の男を睨みつけ、身を起こそうとする。
だが、ガチャン、という無慈悲な音と共に、手首の枷が彼の動きを阻んだ。
教祖は、翔太のそんな無駄な抵抗を、悲しむかのように一瞬黙って見つめた後、淡々とした口調で自らの過去を語り始めた。
「私もかつては、君と同じ、地球の人間だった。家族がいた。仕事があった。そして、宇宙に託した夢もあった。だが、80年前……深宇宙での探査任務中、私は、ある異星文明の漂流船と接触した」
その言葉と共に、翔太の脳裏にとある宇宙にまつわるオカルト話が思い浮かんだ。
消されたソ連の宇宙飛行士。
宇宙船、コラブリ・スプートニク。
ガガーリンよりも先に宇宙に行ったはずなのに名前も存在も消されてしまった男、グレゴリー・ネリューボフ。
まさか、本当に実在した人物だったのか。
「そこにいた『彼ら』は……友好的ではなかった。私は捕らえられ、実験体として、この忌まわしいナノマシンを投与された」
教祖は、自らの顔の左半分、金属の肌の部分にそっと触れた。
「このナノマシンは、私の肉体を再構築した。痛みも、老いも、そしておそらくは死さえも遠ざけた。だが、同時に私の『人間性』を少しずつ蝕んでいった。自分がまだ人間なのか、それとも、あの冷たい金属と同じ、別の何かに成り果てたのか……もはや、私自身にも分からない」
その声には、一瞬、深い絶望と悲しみの色が滲んだ。
だが、それはすぐに抑え込まれ、再び冷徹な響きを取り戻す。
「私は生きるために戦った。彼らを殺し、彼らの船を、技術を、全てを奪った。その忌まわしいナノマシンと共に、な。生き延びるためだ」
教祖の瞳が、鋭く光った。
そこには、壮絶な過去を乗り越えた者の、冷え切った決意が宿っていた。
翔太は言葉を失っていた。
目の前にいるのは、紛れもない敵の首魁だ。
憎むべき相手のはずだ。
なのに、その壮絶な告白に、不覚にも、心のどこかで共感しかけている自分がいた。
その事実に、翔太は激しい戸惑いと自己嫌悪を感じた。
教祖は、そんな翔太の葛藤など意にも介さず、本題へと入った。
その声は、先ほどまでの個人的な述懐の響きを消し去り、冷たいビジネスのような口調に変わっていた。
「その船には、我々がまだ踏み入れていない領域がある。だが、そこは強力な放射線に汚染されている。我々はその先に進むため、汚染を除去する、あるいは汚染下で活動可能な技術を求めている。そして、君たちに注目していたのだ」
「そしたら、まさかな。君たちまで異星文明の技術に接触しているときた」
「俺たちを……どうするつもりだ」
翔太の声は、自分でも分かるほど震えていた。
仲間を巻き込むことへの恐怖が、自身のそれよりも強く心を支配する。
教祖は、その問いに直接は答えなかった。
彼は、まるで興味深い標本を観察する研究者のように、その黒い瞳をわずかに細めた。
「『君たち』ではない。今は、君だ、高橋翔太。我々が知りたいのは、君そのものだ」
その言葉は、仲間への追及を一旦保留するという、微かな安堵を翔太に与えると同時に、全ての興味が自分一人のみに向けられているという、新たな恐怖を呼び起こした。
「そして、君という存在を理解するためには、まず君の体内に存在する『それ』について、深く知る必要がある」
教祖の視線が、まるで翔太の肉体を透過し、その内部を覗き込んでいるかのように感じられた。
「君を救ったという、そのナノマシンについて、だ」
ディスプレイの光が、翔太の顔に落ちる影を濃くする。
対話は、まだ終わらない。
むしろ、ここからが本当の始まりなのだと、翔太は直感した。
自らの存在の根幹を揺るがす、恐ろしい対話の始まりなのだと。
恐怖と、怒りと、そして自らの運命に対する、底知れない戦慄が、彼の全身を支配していた。
白い牢獄の微かな電子音だけが、時が止まったかのような部屋に、虚しく響き続けていた。




