9-17
音も、光も、時間さえも溶けて混ざり合う、深く昏い意識の底から、翔太の感覚はゆっくりと浮上を始めた。
最初に届いたのは、音だった。
低く単調な機械の作動音。
それは部屋のどこからか響き、絶え間なく鼓膜を震わせる。
次に、匂い。ツン、と鼻腔を刺す、消毒薬と未知の薬品が混じり合ったような、冷たい香り。
そして、全身を包む倦怠感と、体の節々で鈍い熱を持つ痛み。
兵士たちに力ずくで押さえつけられた際の打撲痕が、忘れるなとばかりに存在を主張していた。
硬いベッドの感触。肌を撫でる、ひやりとした空気。
最後に、手首に走る、決定的な冷たさと重み。
「……っ」
翔太は、うめきと共に目を開いた。
視界いっぱいに広がるのは、純白。
ぼやけていた焦点が徐々に結ばれていくと、その白が、壁であり、天井であり、床であることが分かった。
継ぎ目一つ見当たらない、滑らかな壁面。
天井全体が均一に発光し、自らの体にさえ影がほとんど落ちない、異様な空間。
そこは、医療施設であり、実験室であり、そして、完全な牢獄だった。
意識が覚醒するにつれて、拘束された両手首の枷が、現実の重みとなってのしかかる。
最新式であろう電子ロックの赤い光が、彼の無力さを嘲笑っていた。
その瞬間、記憶の蓋が乱暴にこじ開けられた。
耳を劈く爆音。
世界を白く焼き尽くした、灼熱の閃光。
カイの放ったミニチュアの太陽が、沈黙したトランスポート・ユニットを飲み込む光景。
切り札だった鋼鉄の蜘蛛が、飴のように融解し、醜い鉄屑へと変わり果てていく、あの断末魔。
「……あ……ああ……」
喉から、乾いた声が漏れた。
それは、自分の一部が、もう一つの体が、無残に破壊されたことへの悲鳴だった。
TUは単なる機械ではなかった。
翔太の思考と直結し、その意志を体現する相棒。
その喪失感は、まるで手足をもぎ取られたかのような空虚となって胸に空洞を開けていた。
絶望が、冷たい泥のように心に流れ込んでくる。
失った。
完膚なきまでに、敗北したのだ。
(……いや)
泥濘の中で、一つの光景が瞬いた。
夜の闇へと吸い込まれるように消えていった、小さな救助ポッド。
悔しさと不安に顔を歪ませながらも、自分を信じてくれた涼子の顔。
最後まで自分を気遣ってくれた、崎島社長の顔。
(二人は……逃げられたんだ)
その事実だけが、沈みゆく意識を繋ぎとめる、唯一の錨だった。
仲間を守るという、最低限にして最大の目的は果たされたのだ。
その微かな安堵が、全身を苛む絶望を、ほんの少しだけ和らげる。
だが、その代償はあまりにも大きすぎた。
安堵を感じれば感じるほど、自らの敗北の重みが、より一層、心を圧し潰していく。
(これから、どうなる……?)
思考を巡らせようとした翔太は、はっとした。
アーベル。
彼女との繋がりはどうなった?
翔太は目を閉じ、意識を内側へと深く沈めていく。
いつもならそこにあるはずの、暖かく、膨大な情報が流れる量子通信の回線を探る。
だが、そこにあったのは、静寂と分厚い鉛の壁に阻まれているかのような、完全な断絶だった。
何度呼びかけても、意識を集中させても、返ってくるのは虚しい沈黙だけ。
常に開かれていたはずの扉は、今は固く溶接され、びくともしない。
物理的に拘束されているだけではない。
精神的にも、完全に孤立させられている。
その事実が、翔太に新たな恐怖を植え付けた。
その時だった。
「気が付きましたか、高橋翔太」
唐突に、声が響いた。
男の声。
冷静で、抑揚がなく、スピーカーを通して増幅された、あの不快な声。
日村と名乗ったあの男。
声は部屋全体に反響し、どこから聞こえるのか判然としない。
翔太は憎しみを込めて、声の主を探すように視線を巡らせた。
壁の一点がふと透明度を増し、その向こうに薄暗い観察室と、そこに立つ日村のシルエットが浮かび上がった。
マジックミラーだ。
翔太が、拘束された手首に力を込めて身じろぎする。
枷が、ガチリと硬い音を立てた。
それを見て、日村が楽しむように言葉を続けた。
「無駄な抵抗はおやめなさい。ここは我々のラボの最深部。あらゆる通信、あらゆる干渉を遮断するために設計された、特別な区画です。いかなる物理的干渉も届きません。もちろん、君のその特殊な通信能力もね」
その言葉は、翔太の希望を打ち砕く、冷徹な宣告だった。
彼らは、翔太の能力の根幹を正確に理解し、それを封じる術を完璧に用意していたのだ。
翔太は、唇を噛みしめて沈黙した。
言葉を返すことすら、相手を喜ばせるだけだと分かっていた。
今はただ、憎しみを瞳に宿し、ガラスの向こうのシルエットを睨みつけることしかできない。
日村は、その沈黙を肯定と受け取ったのか、満足げに続けた。
「さて。君がこうして手厚い看護を受けているのには、理由があります。我らが教祖が、あなたに大変興味をお持ちなのです」
教祖。
その言葉に、翔太の眉がわずかに動く。
日村の背後に、さらに上位の存在がいる。
この巨大な組織を率いる、中心人物。
「あなたと直接、お話がしたいと、わざわざ時間を割いてくださいました。一介の捕虜としては、破格の待遇でしょう。光栄に思うべきですよ」
日村の声には、あからさまな嘲りと、絶対的な強者の余裕が滲んでいた。
白き牢獄。
それは、ただの監禁場所ではなかった。
これから始まる、未知なる深淵との対話に向けた、舞台そのものだった。




