9-11
日村の問いかけは、赤い闇の中で絶対的な宣告として響き渡った。
それは翔太の鼓膜を通り抜け、脳の芯を直接揺さぶる。
お前がターゲットなのだ、と。
逃げ場はないのだ、と。
その言葉は、まるで音叉のように彼の全身の神経を震わせ、思考を麻痺させた。
赤い非常灯の光が、日村の背後から射すことで、彼の輪郭は滲み、まるで人の形をした闇そのものが語りかけてくるかのように見えた。
翔太は、反射的にぐったりとしている涼子の身体を、さらに強く抱き寄せた。
彼女の体温だけが、この悪夢のような現実と自分を繋ぎとめる唯一の錨だった。
怒りと、そして腹の底からせり上がってくる純粋な恐怖で、奥歯を強く、きつく噛みしめる。
歯が砕けるのではないかと思うほどの力だった。
「何が目的なんだ……!? こんな大勢の人を巻き込んでまで……一体何がしたい!」
絞り出した声は、自分でも情けないと思うほど、震え、上擦っていた。
だが、問わずにはいられなかった。
この理不尽なまでの暴力に、何かしらの理屈を、僅かでも理解できる形の動機を求めてしまっていたのだ。
狂気には狂気の論理があるはずだ。
それを知らなければ、対抗することはおろか、ただ飲み込まれて終わるだけだと、本能が叫んでいた。
日村は、その必死の問いを、まるで大学教授が生徒の拙い質問を聞くかのように、僅かに首を傾けて受け止めた。
その表情には、憐れみも、怒りも、何もない。
あるのは、人間的な感情が一切介在しない、底知れないほど冷たい知性だけだった。
彼はこの状況を、恐怖や混乱ではなく、純粋な「事象」として観察している。
「目的は、至極単純ですよ、高橋 翔太さん。神の摂理を乱した者への、然るべき『罰』。そして、その過程であなた方が生み出してしまった、忌まわしき異星技術の『回収』です」
日村は、まるで講義でもするかのように、淡々と、しかし一言一句が脳に突き刺さるほど明瞭に言葉を紡ぐ。
その声は、この血と硝煙の臭いが充満する部屋には似つかわしくないほど、理知的で、落ち着いていた。
「我々は、あなた方が南川除染技研という隠れ蓑を使い、サキシマ重工と深く繋がり、その技術開発に全面的に協力していたという事実を突き止めました。いやはや、裏取り調査には、少々骨が折れましたがね。あなた方は実に用意周到だった」
その口調は、まるで困難な研究論文を完成させた学者のような、微かな知的プライドさえ滲ませていた。
この男は、この惨状を、自分たちの調査能力の高さを証明する成果報告会くらいにしか思っていないのだ。
その致命的に歪んだ価値観に、翔太は吐き気を覚えた。
目の前で傷つき、恐怖に怯える人々の姿が、この男の目には本当に映っているのだろうか。
「だからといって、こんな襲撃は必要ないだろう! 話し合いで……!」
「いやいや、ご冗談を」
翔太の言葉を遮り、日村は心底おかしそうに肩をすくめてみせた。
その仕草は、まるで道理を解さない子供をあやすかのようだ。
「事前報告では、あなた方には『化け物』のような機械が常に付き従っている、とありましたのでね。万全を期すのは、組織人として当然の用心というものですよ」
「それに、我々は対話をしに来たのではありません。宣告し、執行するために来たのですから」
その言葉は、翔太の心臓を氷の矢で貫いた。
奴らは知っている。
トランスポート・ユニットの存在を。
アーベルから提供された、蜘蛛のような多脚型汎用重機。
自分たちの最大の切り札。
その存在を、この男たちは正確に把握していたのだ。
だからこそ、ヘリを使い、特殊部隊を投入し、使徒と呼ばれる者まで動員する、これほど大掛かりな、軍隊のような作戦行動を取ったのだ。
全ては、自分という存在を、完全に無力化して捕獲するために。
思考が渦を巻くが、答えにはたどり着かない。
ただ、圧倒的な手札の差を、そして自分たちが最初から詰みの盤面に置かれていたという事実を、残酷に突きつけられただけだった。
日村が翔太との問答に集中し、その冷徹な瞳に、ほんの一瞬、知的遊戯を楽しむかのような光が宿った、そのコンマ数秒の隙。
それまで壁際で血を流し、虫の息だったはずの老体が、突如として躍動した。
「うおおおおおっ!!」
崎島社長が、最後の気力と生命力を振り絞り、野獣のような雄叫びを上げて日村へと飛び掛かったのだ。
それは、手負いの獅子が、己の群れと未来を守るために放つ、最後の、そして最も気高い牙。
その老将の凄まじい気迫に、この世の全てを嘲笑っていたはずのカイでさえもが、一瞬、驚愕に目を見開いた。
「社長!?」
翔太と、そしてバリケードの陰で息を殺していたサキシマ重工の幹部たちが、信じられないものを見る目で、悲鳴に近い声を上げる。
もはや、勝算などない。
それは、この場にいる誰もが理解していた。
だが、崎島は走った。
己の死を覚悟の上で、一矢報いるためではない。
部下である若者たちの前に立ち、その盾となるという、リーダーとしての最後の矜持を全うするために。
その背中は、負傷し、血に濡れていながらも、翔太の目には、これまで見たどんなものよりも大きく、気高く見えた。
しかし、その英雄的な一撃が、日村に届くことは永遠になかった。
崎島の渾身の右ストレートが、日村の顔面を捉える、まさにその寸前。
日村の背後に影のように佇んでいたヨハンナが、動いた。
いや、彼女自身は、指先一つ動かしていない。
ただ、フードの奥の瞳が、僅かに崎島に向けられただけ。
その無言の意志に呼応し、彼女の袖の内、空間そのものから染み出すように現れていた刃のないナイフの一本が、空気を切り裂く鋭い音もなく、しかし絶対的な速度をもって、崎島の腹部を正確に、そして無慈悲に打ち据える。
「ぐっ……!」
肉が断ち切れる生々しい音はない。
ただ、金属の塊が人体にめり込む、ゴツン、という鈍く、重い衝撃音だけが、赤い静寂の中に響き渡った。
崎島の巨体は、まるで鞠のように、ありえない角度でくの字に折れ曲がる。
鳩尾への完璧な一撃は、彼の肺から全ての空気を強制的に絞り出し、声にならない呼気を漏らさせた。
強靭な意志で支えられていた身体は、糸が切れたマリオネットのように全ての力を失い、背後の壁に激しく叩きつけられ、そのまま床へと崩れ落ちた。
日村は、自分の服についた埃でも払うかのように、優雅に身じろぎしただけだった。
崎島の拳が掠めたであろう空間を、まるで汚らわしいものでも見るかのように一瞥する。
「危ない、危ない。いやはや、助かりましたよ、使徒ヨハンナ」
その声には、驚きも、安堵も、感謝さえも感じられない。
全てが想定内だとでも言うように、彼は崩れ落ちた崎島を、まるで道端の石ころでも見るかのように冷ややかに見下すと、再び翔太へと視線を戻した。
翔太は、目の前で起きた一瞬の出来事が理解できず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
希望だった。
最後の、人間の意地とでも言うべき、気高い光だった。
それが、あまりにもあっけなく、虫けらのように叩き潰された。
幹部たちの中から、嗚咽が漏れる。
ある者は顔を覆い、ある者は信じられないと首を振る。
だが、もはや誰も、抵抗しようという気力さえ残ってはいなかった。
完全な、絶対的な力の差。
それを、この老将の尊い犠牲が、皮肉にも証明してしまったのだ。
日村の瞳が、こう告げていた。
無駄な抵抗は、お止めなさい、と。
あなた方の英雄は、もういない。
さあ、選択の時は終わりました、と。
赤い闇の中、床に倒れ伏す老将と、静かに佇む三人の使徒。
その絶望的な光景が、この籠城戦の、完全な終結を物語っていた。




