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鼓膜を損傷させるのではないかと思えるほど、甲高い非常ベルが鳴り響いている。
天井のスプリンクラーから絶え間なく降り注ぐ冷たい水は、爆発の熱を冷ますどころか、人々の体温と、そして正常な思考能力を無慈悲に奪い去っていくようだった。
サキシマ重工の大会議室。
つい先ほどまで、国家の威信をかけた熾烈な交渉が繰り広げられていたその場所は、今や地獄の様相を呈していた。
砕け散った窓から吹き込む風が、黒煙と埃、そして紙の焼ける不快な臭いを掻き混ぜる。
床には、かつて高級な調度品であったものの残骸と、瓦礫と、そして生々しい血の跡が、悪趣味なモザイク模様を描いていた。
幹部たちは、その光景の中でただ呆然と立ち尽くしていた。
ある者は頭を抱えてしゃがみ込み、ある者は意味もなく瓦礫を掻き分け、またある者は、目の前で起きたことが信じられないとでも言うように、虚ろな目で宙を見つめている。
パニックとは、思考が停止し、身体が動かなくなる状態を言うのだと、翔太は身をもって理解した。
隣で彼に庇われていた涼子も、恐怖に顔を強張らせ、小さく震えている。
その、誰もが思考停止に陥った混沌の只中で、最初に我に返ったのは、やはりこの組織の長たる男だった。
「――ッぐ……!」
椅子ごと床に叩きつけられた崎島社長が、呻き声を上げて上半身を起こす。
負傷した左腕を押さえている。
額から流れた鮮血が、その精悍な顔を赤く染めていた。
常人であれば意識を失っていてもおかしくない怪我。
しかし、彼の瞳には、痛みや混乱の色以上に、燃え盛るような闘志の光が宿っていた。
彼は、額の血を無造作に手の甲で拭うと、負傷した腕の激痛に顔を歪めながらも、獅子のように咆哮した。
「うろたえるな! 全員、落ち着いて私の声を聞け!」
それは、単なる大声ではなかった。
幾多の修羅場を乗り越え、巨大組織のトップに君臨する者だけが放つことのできる、魂の重みが乗った声。
その気迫に、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、パニックに陥っていた幹部たちの視線が一斉に彼へと集中した。
場の空気が、一瞬にして引き締まる。
「フライトディレクター! 無線は生きているな!? 大至急、建物の損壊状況を確認しろ! 他の者は、私の後に続け! この階層は危険だ、下の緊急避難フロアへ移動するぞ!」
この時点では、崎島はまだ、ガス爆発か、あるいは何らかの機材トラブルによる大規模な事故の可能性を考えていた。
原因の追及は後だ。
今は、一人でも多くの部下を安全な場所へ導くこと。
それが、リーダーとしての彼の最優先事項だった。
その迅速かつ的確な指示に、幹部たちも呪縛が解けたように動き出す。
「はい!」という力強い返事が、あちこちから上がった。
彼らは互いに肩を貸し、怪我人を助け起こし、出口である扉へと向かう。
そうだ、この人についていけば大丈夫だ。
この地獄から、きっと脱出できる。
瓦礫と絶叫に満ちたこの空間に、ほんの一瞬、そんな一縷の希望が、陽炎のように立ち上った。
だが、その脆い希望は、一つの叫びによって無残にも掻き消されることになる。
「待ってください! 崎島社長!」
声の主は、翔太だった。
彼は涼子を庇ったまま、テーブルの下から叫んでいた。
「これは事故じゃありません! 奴らの……『終末の光』による、襲撃です!」
翔太の悲痛な声が、まだ警報の鳴り響く室内に木霊した。
幹部たちの動きが、ぴたりと止まる。
彼らは、何を言われたのか理解できない、という顔で翔太を見た。
「終末の光」? なぜ、あのカルト教団の名前が、今ここで出てくるのか。
そして、翔太の声に呼応するかのように、彼らの背後で、壁に埋め込まれた緊急連絡用の無線機が、激しいノイズと共に唸りを上げた。
それは、このフロアの人間たちの動きを、そして運命を、完全に停止させる音だった。
『ザザッ……こちら……管制室! き、聞こえますか!』
スピーカーから響いたのは、若い男性の声だった。
その声は、恐怖で上擦り、今にも泣き出しそうに引き攣っている。
『て、テロです! 正体不明の武装組織による……ザザッ……襲撃です! 敵は……多数! 警備チームは、既に……ぐっ……突破され……!』
その報告が、翔太の言葉が紛れもない事実であることを証明した。
避難しようとしていた人々の足が、床に縫い付けられたように止まる。
顔から急速に血の気が引いていくのが、誰の目にも分かった。
『奴らが持っているのは…スタンガンのような…非殺傷兵器で……ザザッ…我々を、殺す気は……ない……のかもしれな……うわっ!』
短い悲鳴。
そして、スピーカーから、生き物の肉が焼けるような、バチバチッという生々しい放電音が響き渡った。
一瞬の静寂の後、通信は、断末魔のようなノイズを最後に、完全に沈黙した。
その沈黙が、何よりも雄弁に事態の絶望的な深刻さを物語っていた。
管制室が、陥落した。
つまり、このサキシマ重工本社ビルは、今や完全に外部から孤立し、正体不明の敵の手に落ちたということだ。
崎島の顔色が、さっと変わる。事故ではない。
これは、明確な意図を持って我々を狙った、テロ攻撃だ。
安全な避難経路などはない。
獲物を追い込むための、巨大な罠だ。
「待て!!」
崎島は、先ほど自らが下した避難命令を、鋭く、そして鋼のような重い声で、自ら覆した。
「全員、そこを動くな。避難は中止だ……。この状況で廊下や階段に出るのは、自殺行為に等しい。敵は、我々を狩るために、今この瞬間も出口で待ち構えている可能性が高い」
一瞬前に芽生えたばかりの、か細い希望の光が、無線の沈黙によって完全に踏み潰された。
会議室には、先ほどよりもさらに濃密な、粘りつくような絶望の空気が再び立ち込める。
下から敵が迫ってくる。
ここは、袋のネズミだ。
幹部たちの瞳から、完全に光が消え失せた。
だが、彼らのリーダーは、まだ諦めてはいなかった。
絶望の淵に立たされたその瞬間にこそ、真価が問われる。
崎島は、痛む腕を庇いながら、壁際までふらつく足で歩み寄ると、燃え盛るような瞳で、部下たちを一人一人見据えた。
「計画変更だ! 我々は、ここに立て籠もる!」
その声には、先ほどまでの勢いとは違う、追い詰められた状況下でこそ発揮される、冷静で、計算され尽くした覚悟が漲っていた。
「全員、ドアにバリケードを築け! 机、椅子、動かせるものは全て使え! 敵の侵入を、一秒でも長く防ぐんだ! 今すぐだ!」
呆然としていた幹部たちが、その命令に、はっと我に返る。
そうだ、まだ終わっていない。
まだ、戦える。
この迅速かつ的確な判断の180度転換こそが、幾多の修羅場を乗り越え、サキシマ重工を世界的な企業へと押し上げた、崎島という男のリーダーとしての本質を示していた。
希望ではなく、生き残るための闘争。
追い詰められた獣のように、幹部たちは雄叫びを上げながら、重いマホガニーのテーブルや椅子へと殺到した。
この絶望的な籠城戦が、今、幕を開けた。




