9-7
大会議室が絶望的なパニックに陥る中、上空では、その元凶たる漆黒のヘリコプターの一機が、悠然と機体を水平に向けた。
金髪の少年、カイは開け放たれた側面ハッチの縁に無邪気に足をかけ、身を乗り出すようにして眼下に広がる光景を見下ろしていた。
凄まじいローターの轟音が彼の鼓膜を叩き、巻き起こす強風が染め上げられた金髪と、中世の修道服を模した異様な戦闘ローブの裾を激しくなびかせている。
彼の口元には、この世の全てを嘲笑うかのような、悪辣な笑みが浮かんでいた。
眼下で豆粒のように逃げ惑う人々は、彼にとってただの蟻の群れにしか見えないようだった。
「くく……ははは! 見ろよ、あの無様な様を! ザコどもが、右往左往しやがって!」
あの船の訓練場で、能力を発現できずにいた近藤という小太りの男を嘲笑った時のことを思い出す。
その時の愉悦が、今、何百倍にもなって彼の全身を駆け巡っていた。
あれこそがザコだ。
そして、今、この眼下で逃げ惑う連中も、ザコだ。
本物の力を持つとは、こうして世界を意のままに蹂躙できる、この俺のような存在のことを言うのだ。
カイは、まるで舞台の主役が観客に応えるかのように、優雅に両手を広げた。
すると、彼の両の掌の上に、周囲の空気が陽炎のように揺らめき始めた。
何もない空間から、熱そのものが凝縮されていく。
やがて、それは二つの小さな光点となり、瞬く間に収束と膨張を繰り返しながら、バスケットボール大の球体へと姿を変えた。
表面がぐつぐつと煮えたぎる溶岩のように脈動し、触れるもの全てを焼き尽くさんばかりの純粋な破壊エネルギーを放つ、灼熱の火球。
「さあ、ショーの始まりだ! 俺の力で、お前たちのくだらない日常を、燃やし尽くしてやる!」
彼は甲高い声でそう叫ぶと、オーケストラの指揮者のように、両手を勢いよく前方に突き出した。
二つの火球は、咆哮のような轟音と共に射出される。
それは、物理法則を捻じ曲げる圧倒的な質量と熱量を伴い、一直線にサキシマ重工の敷地内にある、最も高く聳え立つ通信アンテナ塔へと吸い込まれていった。
次の瞬間、けたたましい爆発音が空気を震わせ、巨大なアンテナ塔の上部が吹飛ぶ。
無数の火花と金属片を撒き散らしながら、かつてサキシマ重工の通信を支えていた鉄の塔は、断末魔の悲鳴を上げて地上へと崩れ落ちていく。
だが、カイの狂宴は、まだ序曲に過ぎなかった。
「ははは! もっとだ! もっと寄越せ!」
彼はそれに飽き足らず、まるで無限のスタミナを持つ子供のように、次々と火球を生み出し、無差別に放っていく。
狙いはメインの建屋ではなく、駐車場、資材倉庫、研究棟の別館といった周辺施設。
彼の攻撃は、意図的に広範囲に散らばるように行われた。
サキシマ重工に目標を絞らせず、組織的な対応を不可能にすることで、最大限の混乱と恐怖を植え付ける。
それが、彼に与えられた役割だった。
地上では、爆発に次ぐ爆発で、完全な地獄絵図が繰り広げられていた。
どこから攻撃されているのかも分からないため、職員たちはただ悲鳴を上げて逃げ惑うしかない。
鳴り響く警報、スプリンクラーの放水、人々の怒号と絶叫。
サキシマ重工全体が、巨大なパニックの渦に飲み込まれていく。
カイは、自分が引き起こしたその混沌と破壊に、心の底から酔いしれていた。
甲高い笑い声が、ローターの轟音にも負けじと、災害の空に響き渡った。
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その頃、別の指揮機となっているヘリコプターの内部では、全く異なる空気が流れていた。
日村は、革張りのシートに深く腰掛けていた。
彼はカイが引き起こしている狂乱を、手元のタブレットに映し出される複数の監視カメラ映像を静かに眺めていた。
その周りでは、通信士たちが慌ただしく情報をやり取りし、計器のランプが明滅を繰り返している。
だが、日村の周りだけが、まるで嵐の目の中にいるかのように、不気味なほどの静寂を保っていた。
彼の目は、眼下の破壊には少しも心を動かされていない。
彼が見ているのは、パニックに陥った人々の動き、警備体制の崩壊の度合い、そして、サキシマ重工がこの予期せぬ多角的な攻撃にどう反応するかだった。
カイの派手な能力は、彼にとってただの「煙幕」であり、敵の能力を分析するための「観測気球」に過ぎない。
やがて、日村は、十分な混乱が生まれたと判断した。
これ以上は、無用な破壊を招き、目的の達成に支障をきたす可能性がある。
彼は、ローターの轟音が乗らないようにインカムのマイク部分を手で覆いながら、静かに口を開いた。
その声は、カイの狂騒とは対照的に、どこまでも冷たく、そして明瞭だった。
「使徒カイ、十分です。その辺で」
彼の声は、全兵士と使徒のインカムに、託宣のように響き渡る。
上空で、あれほど歓喜の声を上げていたカイの動きが、ぴたりと止まった。
その表情には、まだ遊び足りない子供のような、不満の色が浮かんでいる。
だが、日村の声には逆らえない。
日村は、そんなカイの感情など意にも介さず、続けた。
「あなたの序曲で、舞台は整いました。全隊員、これより作戦の主目的を開始してください」
その号令が、本当の悪夢の始まりだった。
今まで上空で待機していた四機の漆黒のヘリコプターが、まるで一つの生き物であるかのように、完璧な連携で一斉に降下を開始する。
それらは、敷地内の計算され尽くした複数のポイント――屋上ヘリポート、緑が広がる中庭、そしてメインエントランスの正面広場――へと、寸分の狂いもなく侵入していく。
それは、もはや単なるヘリコプターの移動ではなく、獲物に襲いかかる巨大な猛禽の編隊のようだった。
機体が地上数メートルまで降下すると、側面ハッチから次々と、蛇のように太い黒いロープが投げ下ろされる。
そして、フードのついたローブのような異様な戦闘服に身を包んだ兵士たちが、まるで闇から染み出すように、次々とそのロープを伝い始めた。
彼らの動きには、一切の躊躇も乱れもない。
音もなく、しかし驚異的な速さで、彼らはサキシマ重工という獲物の身体に、その鋭い爪を立てるべく降下を開始した。
兵士たちが降下していく中、日村の冷静な声が、彼らの耳元で続く。
「繰り返します。我々の目的は、対象の確保です。基本的に、施設職員への殺傷は禁止。支給したティザー銃で、抵抗する者は速やかに制圧してください」
一度、無線が途切れる。
そして、日村は少しだけトーンを落とし、追加命令を出した。
「但し、事前報告にあった『クモのような化け物』、もしくは未知の敵性兵器が確認された場合に限り、実弾による発砲を許可します。その際は、躊躇なく排除しなさい」
最初に地上へ降り立った兵士たちの前に、駆けつけたサキシマ重工の警備員たちが立ちはだかる。
彼らは、一般の警備員だったが職務には忠実だっだ。
しかし、彼らが対峙している相手は、常識の埒外にいた。
「止まれ! 何者だ!」
警備員の一人が、警告を発しながら、標準装備の警棒を構える。
しかし、「終末の光」の兵士たちは、その警告にも、向けられた警棒ごときには一切動じない。
彼らは感情というものをどこかに置き忘れてきたかのように、ただ機械的な動きで、構えたハンドガンサイズのティザー銃の引き金を引いた。
青白い電光が、稲妻のように迸る。
バチバチッという、神経を逆撫でする不快な音と共に、それは警備員たちの身体を貫いた。
「がっ……あ……っ!」
屈強な肉体を誇る警備員たちは、悲鳴を上げる間もなく全身を激しく痙攣させ、白目を剥いてその場に昏倒していく。
それは、戦闘というより、害虫を駆除するかのような、あまりにも一方的な制圧だった。
次々と駆け付ける警備員やスタッフたちが、同じように無力化されていく。
そして、兵士たちに少し遅れて、一人の人影が、まるで羽のようにふわりと地上に降り立った。
使徒ヨハンナ。
彼女は、他の兵士たちのように武器を構えることなく、ただ静かに、フードを深く被ったまま、惨状の中心に佇んでいる。
その姿からは、一切の感情が読み取れず、まるでこの世の理から外れた、異質の存在感を放っていた。
数の不利を悟りながらも、残っていた数名の警備員が、仲間を助けようと、決死の覚悟でヨハンナへと向かっていく。
彼らは、このフードの女が、この集団のリーダー格だと直感したのだ。
「テロリストめ……!」
一人が叫び、彼女に殴りかかろうとした。
ヨハンナは、迫りくる男を視界に入れることもなく、まるでオーケストラの指揮者が、静かに最初の音を奏でさせるかのように、すっと片手を振るった。
その優雅な動作に呼応するように、彼女のローブの袖の内側から、無数の銀色の煌めきが、音もなく空間に現出した。
十数本のナイフ。
それらは、物理法則を完全に無視して宙を舞い、まるで彼女を守護する衛星のように、静かに旋回を始めた。
そのうち一本のナイフが警備員の持つ警棒を弾いた。
警備員たちが、その超常的な光景に恐怖で足を止める。
あれは何だ?
磁力か?
それとも、何かのトリックか?
一人の警備員が、恐怖を振り払うように目を凝らした。
そして気づく。
宙を舞うナイフは、刃がついていない。
切っ先は鋭いが、刃渡りはゼロ。
それは、殺傷のためではなく、ただ相手に激しい苦痛を与えるためだけに調整された、極めて残忍な武器だった。
だが、その事実に気づいた時には、もう遅かった。
ヨハンナが、白魚のような指を一本、静かに動かす。
その瞬間、ナイフの一本が空気を切り裂き、最初に突っ込んできた警備員の腹部に、柄頭から深々と突き刺さった。
刃がないため肉は切れない。
しかし、金属の塊が鳩尾にめり込む鈍い衝撃は、内臓を揺さぶり、肺から空気を完全に絞り出す。
「ぐっ……ぁ……!」
警備員は、声にならない声を漏らし、苦悶の表情でその場に膝から崩れ落ちた。
それを皮切りにヨハンナの無言の指揮に合わせ、ナイフの群れがまるで意思を持った殺戮の鳥のように、次々と警備員たちを襲う。
肩へ、膝へ、腹部へ。
人体の急所を的確に外しながら、最大級の苦痛と衝撃を与える、冷徹で無慈悲なバレエ。
悲鳴を上げる者、衝撃で吹き飛ばされる者、痛みでのたうち回る者。
しかし、ヨハンナは、その地獄絵図の中心で、微動だにしなかった。
彼女の心には、何の感情も浮かんでいない。
同情も、憐憫も、そして憎悪さえも。
まるで与えられた役割を、プログラム通りに実行しているだけだ。
数秒後、そこには、呻き声を上げて倒れる警備員たちの山だけが残されていた。
ヨハンナは、その中心に静かに佇んだまま、宙に舞うナイフたちを、まるで手元に戻るのを待つかのように、静かに見つめていた。
そのフードの奥の瞳は、次の獲物を探して、ゆっくりとサキシマ重工の建屋へと向けられた。




