8-23
まるで宇宙の静寂が管制室に降りてきているようだった。
和歌山県、サキシマ重工統合管制室。
その巨大な空間は、今、祈りにも似た沈黙に支配されていた。
正面にそびえ立つメインスクリーンには、地球の青い輪郭と宇宙の暗闇が美しいコントラストとなっている画像を背景に無数のテレメトリデータが流れ続けている。
それは、つい先ほどゲートウェイから分離された『HTV-Y改』が送ってくる、唯一の情報になっていた。
ドッキングがされて以降、HTV-Y改のライブ映像は途絶えている。
意図されたブラックアウト。
しかし、スクリーンを光の川のように流れていく数値とグラフこそが、今この瞬間の真実を物語っていた。
「……分離シーケンス、正常に完了」
「軌道離脱噴射、確認しました。第一回、第二回、共に規定通り」
オペレーターたちの冷静な声が、静寂の中に響く。誰もが固唾を飲んで、その瞬間を待っていた。
サキシマ重工の社長、崎島は、管制室の中央、一段高くなった司令エリアで腕を組み、微動だにせずスクリーンを見つめていた。
その隣には、翔太と涼子が、祈るように手を握りしめている。
やがて、テレメトリのグラフの一つが安定し、一本の直線となった。
『加速終了。目標推力に到達』
その声が響き渡った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、管制室全体から嗚咽にも似た安堵のため息が漏れた。
あちこちで控えめな拍手が起こり、互いの肩を叩き合う者、そっと目元を拭う者の姿が見える。
四人のクルーを乗せたHTV-Y改は、アーベルを月に下し、今、確かに地球への帰還の途についたのだ。
「……やったな」
翔太が、震える声で呟く。
涼子はこくこくと頷いていた。
その瞳には薄っすらと涙が浮かんでいる。
崎島もまた、固く結んでいた口元をわずかに緩め、深く、長い息を吐いた。
肩にのしかかっていた国家規模のプロジェクトの重圧が、少しだけ軽くなったように感じられた。
しかし、その安堵は、まるで嵐の前の静けさのように、長くは続かなかった。
「社長」
背後からかけられた声に、崎島はゆっくりと振り返った。
フライトディレクターが、緊張を隠せない硬い表情で立っていた。
彼の額には、管制室の空調が効いているにもかかわらず、うっすらと汗が滲んでいる。
成功に沸く周囲の喧騒から切り離されたかのように、彼の周りだけが異質な空気を纏っていた。
「どうした。何か問題でも?」
崎島の静かな問いに、フライトディレクターは一度言葉を飲み込み、そして口を開いた。
「追尾局の担当から一つ、気になる報告が上がってきていまして……」
その言葉に、崎島の表情から柔和さが消え、鋭い光が宿った。
落下したブースターで何かトラブルでも起きたのか。
ブースターの大気圏再突入の角度に、ズレが生じてどこか地上に堕ちたのか。
最悪のシナリオが、一瞬にして彼の脳裏を駆け巡る。
隣にいた翔太と涼子も、ただならぬ気配を感じ取って、ゴクリと喉を鳴らした。
フライトディレクターは無言で手元のタブレットを操作し、崎島に差し出した。
その画面を、崎島だけでなく、翔太と涼子も思わず身を乗り出して覗き込んだ。
タブレットには、太平洋の広大な海域を示す電子海図が表示されていた。
レーダーによって観測された船舶や航空機が、無数の白い光点としてちりばめられている。
そして、その地図上には、今回の打ち上げで使用された四基のSRB-3(固体ロケットブースター)、第一、第二段エンジンのそれぞれの落下予想地点が、黄色い四角い枠で示されていた。
問題は、その一つにあった。
和歌山から東側に位置するSRBの落下予想海域。
その黄色い枠のほぼ中央に、一つだけ、目立つ赤い光点が、まるで傷口のように存在を主張していた。
「この赤い点は……船舶か」
崎島の低い声が響く。
「はい。管制解除のアナウンス後、この海域に侵入し、現在までその場に留まっています。我々のデータベースで照合したところ、パナマ船籍の超大型タンカーで、船名は『Lux Terra』。ラテン語で『光の地球』を意味する名です。二日前に鹿島港に寄港した記録がありますが、補給もそこそこにすぐ出港したようで。以来、この海域で待機していたものと見られます」
フライトディレクターの説明は淡々としていたが、その内容は不穏な響きを帯びていた。
翔太が息を呑む。
「まさか……」
崎島が、その続きを口にした。
彼の眉間に、深い渓谷のような皺が刻まれる。
「つまり、その船が我々のブースターを、違法にサルベージしようとしている可能性があると?」
サキシマ重工が開発した新型SRBは、従来の素材とは一線を画す、特殊な複合材と推進剤が使用されている。
その技術は、他国、他企業が喉から手が出るほど欲しがる機密の塊だ。
それを回収しようとする輩がいても、何ら不思議はない。
「その可能性は否定できません。ですが社長、問題はそれだけではないんです。こちらをご覧ください」
フライトディレクターはそう言うと、タブレットの画面をスワイプした。
地図の表示範囲が変わり、今度は赤い光点が表示されていた海域とは別の、サキシマ重工が位置する紀伊半島沖が表示された。
そこには、四つの緑色の光点が表示されていた。
その緑の点は、まるで生命体のように、現れては消え、消えては現れるという点滅を繰り返しながら、明らかに一つの意志を持って移動していた。
「これは……?」
涼子が、不思議そう問う。
その緑の光が持つ異様さに、彼女の背筋を冷たいものが走った。
それは、通常の航空機や船舶の航跡データでは見かけない動きだった。
「断定はできません。ですが……」
フライトディレクターは言葉を切り、厳しい表情で続けた。
「この点滅パターン、そして移動速度から推測するならば……あのタンカー『Lux Terra』から発艦した、何らかの飛行物体。おそらくは、ステルス性を有するヘリコプターか、あるいはドローンのようなものである可能性が高いかと」
「何のために? ブースターの捜索か?」
崎島が問い返す。
だが、フライトディレクターは静かに首を横に振った。彼の指が、画面上の緑の点をなぞる。
その動きは、一つの方向を明確に示していた。
「いえ。それが、不可解なのです。これらの飛行物体は、ブースターの落下地点には目もくれず……一直線に、この統合管制室、つまり我々のいる場所に向かってきています」
その言葉は、まるで氷の刃のように三人の空気を切り裂いた。
成功の喜びに満ちていたはずの空間に、一瞬にして冷たい緊張が走る。
自分たちに、何かがまっすぐに向かってきている。
その事実が、じわりと肌に染み込むような恐怖を感じさせた。
翔太と涼子は、顔を見合わせ、言葉を失っていた。
崎島は、何も言わなかった。
彼は緑の光点が描く直線的な軌跡を、ただじっと見つめていた。
その瞳の奥で、無数の思考が火花を散らしているのが見て取れた。
敵なのか?
その正体は?
目的は?
サルベージが陽動で、こちらへの偵察が本命なのか?
あるいは、その両方か。
『Lux Terra』、『光の地球』。
その大仰な船名が、彼の脳裏で不気味に反響した。
長い、針が落ちる音さえ聞こえそうな沈黙の後、崎島はゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、動揺の色はなかった。
あるのは、指揮官だけが持つ、鋼のような判断力を称えた光だった。
「なるほどな」
彼は短く、しかし重く呟いた。
「フライトディレクター。直ちに、関係各機関にこの情報を共有してくれ。警察、防衛省、そして……こういう場合は海上保安庁にも連絡すべきだろう。不審船及び、正体不明の飛行物体が接近中、と」
「はっ、承知しました」
フライトディレクターは、力強く頷いた。
崎島の冷静な判断が、彼の不安をいくらか和らげたようだった。
しかし、彼はどうしても拭えない疑問を口にした。
「それにしても……一体、何が目的なんでしょう。あまりにも不可解で、なんだかモヤっとします」
その言葉は、この場にいる全員の心情を代弁していた。
技術を盗むだけなら、もっと隠密に行うはずだ。
なぜ、わざわざこちらへ向かってくるのか。
その意図の読めなさが、不気味さを増幅させていた。
崎島は、そんなフライトディレクターの言葉に、ふっと苦笑いを浮かべた。
それは自嘲のようでもあり、あるいは、これから起こるであろう事態を予見した者の諦観のようでもあった。
「仕方のないことだ」
彼は言った。
その声は、静かに、しかしはっきりと響き渡った。
「我々が成し遂げたことは、それだけ大きな意味を持つということだ。宇宙開発の地図を塗り替え、世界のパワーバランスにさえ影響を与えかねない。ならば、我々が『何者』で、一体『何をやった』のか、その中身を是が非でも知りたいと思う者たちがいるのは当然だ。そのうちの、最も行動的な一つが、今、目の前に現れた。そう考えるのが道理だろう」
崎島はそう言うと、フライトディレクターの肩を、ポン、ポン、と二度、力強く叩いた。
それは単なる労いではなかった。
部下への信頼の証であり、そして、これから始まるであろう「次の戦い」への、静かな号令だった。
フライトディレクターは、その掌の重みにハッと顔を上げた。
崎島の瞳の奥に揺らめく炎を見た。
それは、未知の脅威に対する恐怖ではなく、むしろ、それを迎え撃たんとする闘志の光だった。
彼らの周囲からは、安堵の空気は完全に消え去っていた。
巨大スクリーンには、依然としてHTV-Y改の順調な飛行を示すテレメトリが流れ続けている。
しかし、誰一人として、そちらに安らかな視線を送る者はいなかった。
三人とも、フライトディレクターの持つタブレットの、小さな画面に表示された四つの緑の光点に、そしてその先にいるであろう見えざる敵の存在に、意識を奪われていた。
宇宙からの帰還という祝祭は、地上に到達する前に、新たな脅威の到来によって幕を下ろされようとしていた。
崎島は、窓の外に広がる夕暮れの空を睨みつけた。
空は、燃えるような茜色に染まっていた。
それは、祝福の光か、それとも、これから始まる動乱を告げる警告の光か。
答えは、まだ誰も知らなかった。




