8-22
四人のクルーは思わず息を呑んでいた。
HTV-Y改の与圧区画は、今はまるで深海の潜水艇のように、外部の計り知れない闇と目に見えない未知の圧力に晒されているかのようだった。
彼らの視線は、ミナが差し出したスマートフォンの小さな画面に釘付けになっていた。
そこには、ただの漆黒ではなかったシャクルトンクレーターの姿が、冷たい光を放って映し出されている。
永久影の底で、墜落した残骸――あの「黒い球体」が、まるで巨大な生物の心臓のように、青白い光を帯びてゆっくりと、しかしはっきりと脈動していた。
「自ら発光しているなんて……ありえない」
地質学者であるミナの声は、乾いた砂のようにか細く、自身の専門知識が目の前の現象によって否定される絶望に震えていた。
「あそこは、月が生まれてから一度も光が差したことのない、絶対零度の闇のはず……飛来物の影響で地殻からマントルが噴き出しているのなら、もっと赤い色のはず」
「神の御業か、なんて言ったが……」
カルロスは、先ほどの自分の言葉を思い出し、自嘲気味に呟いた。
「本当に神か悪魔でもいなければ、説明がつかないかもな」
その顔には、技術者としての理性が未知への恐怖に侵食されていく様が色濃く浮かんでいた。
「UFOかもしれないわよ」
メイファは、エリックの横顔を見つめながら言葉を溢した。
その表情は青ざめ、か細い指先が固く握りしめられている。
エリック自身、司令官としての冷静さを必死に保とうと、固く唇を結んでいた。
だが、彼の内面では思考の嵐が吹き荒れていた。
ゲートウェイは半壊し、クルーは散り散りになった。
そして今、自分たちは正体不明の技術を使う船に救われ、人知を超えた現象を目撃している。
これは救助なのか、あるいは、より大きな何かの序章に過ぎないのか。
思考は答えのない問いの中を彷徨い、焦燥感だけが募っていく。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、唐突に鳴り響いた電子音だった。
これまで聞いた生命維持装置の警告音とは違う、短く、簡素なビープ音。
それは船のシステムが新たな段階へ移行したことを告げる合図だった。
四人がはっと顔を上げると、目の前のメインディスプレイの表示が、瞬時に切り替わった。
【WARNING: ARTIFICIAL SATELLITE DEPLOYMENT SEQUENCE INITIATED】
【(警告:人工衛星分離シーケンスを開始)】
その一文が、凍り付いていた空気に新たな亀裂を入れる。
「人工衛星分離だと?」
カルロスが、絞り出すような声で言った。
「この船は何か積んでいたのか? 我々を救助するためだけじゃなかったというのか!」
与圧区画には自分たち四人しかいない。
だとすれば、隔壁の向こう、真空に晒された非与圧のカーゴブロックに何かがあるということになる。
地球のサキシマ重工から送られてきた、ただの救出の為の無人補給船ではなかったのか。
崎島社長が口にした『アーベル』という不可解な言葉、そして船が自ら判断するという説明。
散らばっていたパズルのピースが、形を持って繋がり始めようとしていた。
「アーベルとやら、応答しろ! 地上、聞こえるか!」
エリックがコンソールに向かって叫ぶが、通信システムは完全な沈黙を守っていた。
彼らの呼びかけに応えた、あの落ち着いた女性の合成音声が聞こえることはもうない。
彼らは乗客であると同時に、この船の目的の前では囚人にも等しい無力な存在だった。
完全にシステムから締め出されているのだと、誰もが悟った。
その直後だった。
船体後方から、「ゴン」という鈍く重い衝撃が、床と座席を通じて体中に伝わってきた。
続いて、巨大な金属の塊が擦れ合うような、耳障りな振動が微かに響く。
カーゴハッチが、開いているのだ。
「外だ!」
エリックは、弾かれたようにシートベルトを外した。
そして、首元のスイッチを操作して、ヘルメットを投げ捨てるように外し、一番近くにあった直径三十センチほどの小さな円窓に飛びついた。
冷たいアクリルに額を押し付け、彼は船外に目を凝らす。
息を呑むような光景が、そこには広がっていた。
巨大な月の青白い輪郭を背に、HTV-Y改の非与圧ブロックの武骨なカーゴハッチが、まるで巨大な顎のようにゆっくりと、しかし確実に開いていく。
その向こうには、星々の瞬きさえ飲み込む、完全な闇が口を開けていた。
荘厳で、神々しくさえある宇宙の光景の中で、今、何かが生まれようとしていた。
そして、暗闇の中から、ぬるりと、一つの「影」が宇宙空間へ滑り出した。
最初は、ただの不定形な黒い塊のように見えた。
光を一切反射しない、まるで空間に空いた穴のような異質な存在。
それはゆっくりとHTV-Y改から離れ、月面に向かう慣性軌道を取り始めた。
だが、エリックが瞬きをした次の瞬間、信じられない変化が起きた。
黒い塊は、まるで意思を持った液体のようにその姿を変形させていく。
表面が蠢き、流動し、次の瞬間には、しなやかな四肢が闇の中から伸びた。
続けて、バランスを取るかのように長い尾が現れる。
シルエットが、みるみるうちに生命の輪郭を帯びていく。
それは、重力を無視して闇の中を自在に駆ける、一匹の黒猫そのものだった。
その「黒猫」は、機械的なスラスター噴射の光も、制御ガスの噴出も見せない。
ただ、生物がそうするように、優雅に、そして効率的に身を翻し、姿勢を制御している。
その目的地は明らかだった。
月面のシャクルトンクレーターで脈動する、あの青白い光――墜落した無人戦艦が眠る場所へと、一直線に、降下していく。
それは神話の御使いが月へ向かうような、神秘的な光景。
エリックは、その光景から一瞬たりとも目を離せなかった。
あまりに非現実的で、あまりに美しいその降下は、しかし長くは続かなかった。
月の巨大な影と、宇宙の絶対的な闇の中へ、「黒猫」はあっという間にその姿を紛らせ、やがて完全に見えなくなった。
まるで、初めから何もいなかったかのように。
後に残されたのは、静かにカーゴハッチを閉じていくHTV-Y改の姿と、円窓に映るエリック自身の、信じられないものを見た顔だけだった。
「今、何かが……外に……」
声は、自分のものではないように遠く聞こえた。
喉が渇き、言葉がうまく紡げない。
彼が見たものを、どう表現すればいいのか。
脳が、常識が、言語化を拒絶する。
「まるで……猫、のようだった……」
ようやく絞り出したその言葉は、彼自身にとっても突飛に過ぎた。
宇宙空間に、猫? 馬鹿げている。
だが、あのしなやかな動き、闇に溶け込む黒いシルエット、そして明確な意志を感じさせる降下の様は、彼の知るいかなる機械や生物よりも、「猫」という表現がしっくりきたのだ。
「エリック?」
メイファが、彼の背後から心配そうに声をかけた。その声には、彼の正気を疑う響きが混じっていた。
「猫は宇宙にはいないわ。疲れているのよ……きっと、幻覚よ」
メイファの言葉は、常識的で、優しさに満ちていた。
だが、今のエリックには、その常識こそが遠い世界の理のように感じられた。
彼はゆっくりと振り返らず、円窓に映る自分の瞳を見つめたまま、静かに首を横に振った。
幻覚などではない。
断じて、違う。
あの「黒猫」は、明確な意志を持って月へ向かった。
崎島社長の言葉が、新たな意味を伴って脳裏に蘇る。
――我々の船の『アーベル』を信じて、その指示に従ってほしい。これは地上からの遠隔操作ではない。船自身の判断だ。
アーベル。
船自身の判断。
自分たちを救い、船を修復したナノマシンの潮流。
その統率者であり、本体。
その正体が、あの黒猫だったというのか。
そして今、月に向かった、あの飛翔体……。
エリックは再び、もう何も見えない窓の外へと視線を戻した。
彼の視線の先、遥か下の月面では、人類の理解を超えた接触が始まっているのかもしれない。
恐怖と興奮が背筋を駆け上る。
だがそれと同時に、途方もない存在と邂逅してしまったという、畏怖にも似た奇妙な高揚感が、彼の魂を震わせていた。




