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【受賞しました】裏山で拾ったのは、宇宙船のコアでした  作者: オテテヤワラカカニ(旧KEINO)


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8-18

 ゲートウェイへのHTV-Y改ドッキング成功から一分後。


 サキシマ重工の統合管制室を支配していた歓喜の奔流は、まるで満ち潮が引くように、一瞬にして静かな緊張へと回帰していた。


 叩き交わされるハイタッチの乾いた音も、安堵のすすり泣きも、今はもう遠い過去の出来事のようだ。


 壁一面を占める巨大なメインスクリーンには、シミュレーションによって表示された月周回ステーション「ゲートウェイ」と、そこに固く結ばれた黄金の方舟「HTV-Y改」が、静寂の中でただ冷徹に、その存在を示している。



 腕を組み、静かに通信を聞いていた崎島社長が、ゆっくりとマイクのスイッチを入れた。

 彼の声は、スピーカーを通して38万キロ彼方の宇宙へと、揺るぎない確かな音となって届けられる。

 その声には、先ほどまでの祝祭の熱狂とは異なる、鋼のような芯が通っていた。


「マーティン代表、状況は理解した。こちらも全力を挙げてサポートする。だが、一つだけ約束してほしい」


 スピーカーから、ノイズ混じりのエリックの声が返ってくる。

 その声には、極限状況を生き抜いてきた男のかすかな疲労と、それでもなお失われていない指揮官としての理性が滲んでいた。


『約束?』


「そうだ。我々の……いや、そのHTV-Y改の判断を、信じてほしい」


 崎島は、言葉を区切りながら、まるで重い楔を打ち込むかのように言った。

 画面に映るエリックの顔に、明確な困惑の表情が浮かぶ。

 彼の眉がわずかに寄せられ、その視線がモニターの向こうの崎島を射抜こうとする。


「これからそちらで起こるすべての事象は、地上からの遠隔操作ではない。船に搭載された自律システム――『アーベル』の、自己判断によるものだ。君たちから見て、不可解な挙動があったとしても、どうかその“アーベル”を信じ、その指示に従ってほしい」


 その言葉が放たれた瞬間、管制室の空気が凍り付いた。

 キーボードを叩いていたオペレーターたちの指が止まり、誰もが信じられないといった表情で司令席の崎島を見上げた。

 

 そんな機能がHTV-Y改に搭載されているなど聞いていない。


 何より機械……AIに、人命救助という複雑極まりないミッションの全権を委ねるというのか。


 それは、これまでの宇宙開発の歴史、その常識と倫理観の全てを根底から覆す、あまりにも大胆で、無謀とも思える発言だった。

 

 ゲートウェイのクルーたちにも、その衝撃は寸分違わず伝わっただろう。

 スピーカーの向こうで、息を呑む気配がした。


 最後列でそのやり取りを聞いていた翔太は、思わず拳を強く握りしめた。

 爪が掌に食い込む痛みも感じない。隣に立つ涼子も、固唾を飲んでスクリーンを見つめている。

 その理知的な瞳が、今はただ不安げに揺れていた。


 崎島社長が、今、自分たちの、そしてアーベルの秘密の核心に触れるかもしれない、あまりにも危険な綱渡りをしている。


 アーベルという一個の存在が持つ計り知れない能力、そして先の密談で決めたどこまで世間へ公開するかの境界線。


 その狭間で、社長はたった一人、世界の常識と対峙している。


 その凄まじい重圧が、二人にも痛いほど伝わっていた。

 翔太は、社長がアーベルという名前を、そしてその存在の重さを、世界の前に差し出したことの本当の意味を、喉の奥が乾くような感覚と共に噛み締めていた。


 スピーカーの向こうで、エリックは数秒間沈黙した。

 それは、一人の指揮官が、部下の命運を、そして人類の宇宙開発の未来を、人知の及ばぬ存在に委ねるべきか否かを熟考する、永遠にも思える時間だった。


 だが、彼に選択の余地はなかった。

 目の前には、仲間と、沈黙する鉄の塊。


 38万キロ彼方から届く、常識外れの提案……。


 彼は、藁にもすがる思いで、その提案を受け入れるしかなかった。


『……分かった。信じよう、君たちの“アーベル”とやらを』


 確かな声で応えたエリック。

 その承諾が、まるで古の封印を解く呪文であったかのように、奇跡の引き金を引いた。


 その通信が交わされている、まさにその時。


 メインスクリーンに映るHTV-Y改の船体表面が、微かに、本当に微かにその色合いを変えた。


「フライトディレクター! 船体表面温度に微細な変化! それと、外部カメラの映像にノイズが……いや、違う、これは……!」


 オペレーターの一人が、信じられないものを見るかのように叫んだ。


 彼の指示で、画面が瞬時に拡大される。

 そこに映し出されたのは、管制室の誰もが、いや、人類の誰もが見たことのない、幻想的で、どこか神々しい光景だった。


 HTV-Y改の黄金の船体表面から、まるで生きているかのように、淡く赤く輝くナノマシンの潮流が流れ出していたのだ。


 それは液体でも気体でもない、光の粒子でできた霧のようだった。

 真空の宇宙空間に、まるで深海の生物が放つ燐光のように、有機的で柔らかな光が生まれた。


「何だ!?」


「また、報告にない現象だ!」


「観測を急げ!! できる限りの観測を行い情報を集めるんだ!!」


 他のオペレーターたちが混乱の声を上げる中、翔太と涼子だけが、その現象の真の意味を理解していた。

 涼子はその美しさに驚き、目を見開きながらも、その指は冷静に手元のタブレットを操作し、表示されたエネルギー放出パターンのグラフを素早く確認する。

 

「翔太さん、これ……」


「ああ、アーベルがまたとんでもないことをしようとしてる」


 翔太は短く応えた。

 そうだ、アーベルが動き出したのだ。


 紅の霧は、ドッキングポートの連結部を滑らかに通り抜け、ゲートウェイの冷たく白い船体へと、まるで生命を宿した蔦が絡みつくように広がっていく。


 音もなく、しかし確かな意志を持って。


 ナノマシンの流れは、ゲートウェイの船体表面を覆い尽くしながら、一直線に、最も損傷の激しいI-HABモジュール、そしてその先にドッキングされているオリオン宇宙船へと向かっていく。

 

 デブリによって無惨に引き裂かれた金属の装甲、その鋭利な断面を、紅の光が優しく撫でるように包み込んでいく。

 絶対零度の宇宙空間に晒され、白く凍り付いた断熱材の破片の上を、まるで温かい血潮が巡るかのように、光のネットワークが広がっていった。


 それはさながら、瀕死の患者の体に、見えざる外科医が生命維持装置を繋いでいくかのようだった。


 デブリによって穿たれた無数の傷、引き裂かれた金属の装甲。

 その破壊の跡を、紅の光が優しく、しかし確実に覆い尽くしていく。


 管制室の誰もが、その超常的な光景に言葉を失い、立ち尽くしていた。

 崎島が言った「船自身の判断」そして「不可解な挙動」という意味を、彼らは今、目の当たりにしていた。

 

 これは、人類の技術ではない。


 今まさに、38万キロ彼方の宇宙で、人知を超えた奇跡が、静かに始まろうとしていた。

翔太は、この奇跡が、小さな猫の姿をした存在によって成されているという事実に、畏怖と、そして胸が張り裂けそうなほどの感動を感じていた。



---



 その頃、ゲートウェイの端、オリオン宇宙船の中では、静寂が二人を支配していた。

 故障個所が増え、HALOにいるエリックたちと連絡が取れなくなって、数時間が経っていた。


 ミナ・サトウとカルロス・フレイタスは、電力消費を抑えるために消灯された船内で、互いの荒い呼吸だけを頼りに存在を確認し合っていた。

 予備バッテリーも底をつきかけ、船内温度は氷点下まで低下している。


 彼らが着込んでいる船内活動用の宇宙服だけが、かろうじて体温の低下を防いでいたが、その効果ももはや気休めに近かった。

 指先の感覚はとうに麻痺し、吐く息はヘルメットのバイザーを白く曇らせる。


「……カルロス? どうなっているの?」


 ミナのか細い声が、ヘルメットの内部でくぐもって響く。

 その声は、寒さで震えていたが、かろうじて言葉の形を保っていた。

 カルロスは手元の端末の、かろうじて点灯しているバックライトを頼りに機器を再起動させた。

 ディスプレイにゲートウェイからの情報が表示される。


「……ダメだ、信号が返ってこない」


 彼の声から、いつもの陽気さは完全に消え失せていた。

 そこにあるのは、何処か死を受け入れた男の、乾いた諦観だけだった。

 コンソールの一角では、消すことのできない「耐熱パネル破損、電源喪失」の警告表示が、まるで墓標のように、不吉な赤い光を放ち続けている。

 

 この船では、もう地球には帰れない。


 その事実が、凍てつく寒さ以上に、二人の体温を奪っていく。

 パネルの生命維持アラームが、まるで瀕死の心臓のように、弱々しく、不規則に点滅していた。

 もう、万策尽きた。

 二人の脳裏には、その冷たい事実だけが、絶対的な真理として浮かんでいた。


 その、瞬間だった。


 ブツッ、という断末魔のような音と共に、全ての警告灯が一斉に消えた。


 闇。

 完全な闇が、二人を包み込む。


 生命維持アラームの最後の点滅も、コンソールの不吉な赤い光も、全てが漆黒に飲み込まれた。


「……停電か。酸素は足りるが寒さが限界だ。一週間持つはずだったが……いよいよ、終わりかもな」


 カルロスが諦観を込めて呟いた。

 彼の声は、もはや何の感情も乗せていなかった。

 だが、次の瞬間、事態は誰もが予測しなかった方向へと転がり始めた。


 停止したはずの空気循環ファンが、ふわり、と軽い音を立てて回転を再開したのだ。


 そして、消えていたコンソールのパネルが、柔らかな緑色の光を灯し、次々とシステムがオンラインに復帰していく様子を表示し始めた。


「な……何が起きたの……!?」


 ミナが叫ぶ。

 

「電力が……ゲートウェイ側から供給されている?」

 

 彼女の目の前にあるドッキングポート内にある気圧計の数値が、あり得ない速度で上昇を始めていた。

 損傷して真空だったはずのI-HABモジュールの気圧が、回復しているのだ。

 生命維持システムのエラー表示が、まるで悪夢から覚めたかのように、一つ、また一つと緑色の「正常」表示に書き換わっていく。


 カルロスはエンジニアとして、その異常事態の核心に、そしてそのあり得なさに気づいていた。


「馬鹿な……ハードウェアが物理的に損傷しているはずだ! 船外のセンサーも、ポンプも、配管も、デブリでズタズタだった! それなのに、診断プログラムがオールグリーンだと!? あり得ない! 地上の仕業か? いや、そんなことは不可能だ! このラグで、この精度で、ステーションの基幹システムを外部からハッキングして、物理的な損傷まで修復するなんて!」


 混乱する彼の横で、ミナはオリオン宇宙船にある小さな天窓に釘付けになっていた。


 ゲートウェイの船体の傷口を、淡い紅色の光が、まるで生き物の皮膚のように覆い、塞いでいく様子が映し出されていた。

 引き裂かれた金属が滑らかに覆われ、失われたはずの部品が光の中から再構成されていく。


「カルロス……見て。あの光……」


 二人は、外部から何者かが介入していることを確信した。

 だが、その正体は全く分からない。


 それは、人類の理解を、そして宇宙の物理法則すらも超越した、あまりにも静かで、あまりにも完璧な救済だった。

 二人はただ、ヘルメットの中で呆然と、その奇跡的な光景を見つめることしかできなかった。


 そして、オリオン宇宙船のハッチがわずかに空気の抜ける音とともに開いた。

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