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溶けるような暑さの夏。
千葉の工業地帯に広がるプラントの空気は、鉄と油の匂いが混じり合い、熱を帯びたアスファルトから立ち上る陽炎とともに重く澱んでいた。
巨大な煙突が吐き出す白い煙が青空に溶け込み、遠くで響く機械の低いうなりが絶え間なく耳に届く。
高橋翔太は汗でじっとりと濡れた作業着の襟を軽く引っ張りながら、重い足取りで事務所の扉を押し開けた。
扉の蝶番が微かに軋む音を立て、冷房の効いた室内の空気が一瞬だけ彼の火照った頬を冷やした。
事務所の中は、埃っぽい書類の匂いと、古びたコーヒーメーカーが放つ焦げた香りが漂っていた。
蛍光灯の白い光が薄汚れたタイルの床に反射し、壁に貼られた安全標語のポスターが色褪せている。
奥のデスクにふんぞり返っているのは、近藤正志――一応は翔太の直属の上司である課長だった。
脂ぎった顔に汗が光り、ネクタイを緩めたシャツの襟元からは肌着が見えている。おっさんのチラリズムなど誰が得するのか…
彼は片手にタバコを持ち、もう一方の手で書類を適当に叩きながら、だるそうな声で言った。
「おい、高橋。今日中に例の件、客先に説明して謝罪してこい。」
その言葉に、翔太は一瞬だけ拳を握りしめた。
手のひらに汗が滲み、爪が皮膚に食い込む感覚が怒りを抑える唯一の拠り所だった。
「……それは課長の案件ですよね? 俺には関係ないと思うんですが、それに私は研究職ですよ?」
抑えた声でそう返すと、近藤は面倒くさそうに鼻を鳴らし、タバコの灰を灰皿に落とした。
灰が小さな雲のように舞い、机の上の書類に散らばる。
「バカ言え。お前が作った試作品を客に売り込んだのは俺だが、責任持って説明するのは作ったお前だろ。」
そんな理屈が通るか。
翔太は奥歯を噛みしめ、口の中で苦い唾液が広がるのを感じた。
このプラントで彼が担っていたのは、特殊合金を用いた電子部品の試作と研究だ。
客先からの要望に合わせて試作用の合金を調合し、実験炉で焼成し、硬度や耐熱性などの物性を測定する。
そしてそのデータをまとめ、論文に仕立て上げ、製品開発に生かす。それが自分に与えられた業務のはずだった。
今回の問題は、近藤が勝手に売り込んだ新合金を含んだ電子部品の試作品が仕様と異なっていたことで、客先からクレームが入ったというものだ。
その試作品は翔太がまだ検証段階にあったもので、実験レポートには「耐久試験未完了」と赤ペンで大きく書き込まれていた。
正式な製品として出荷する許可など下りていない。
それなのに、近藤は独断で営業をかけてトラブルを引き起こし、今度は知らぬ存ぜぬを決め込んで、全ての責任を翔太に押しつけようとしている。
「納得いきません。」
低い声で抗議すると、近藤は目を細め、タバコをくわえたまま嘲るように笑った。
「は? お前、この会社でやっていく気あんのか? お前の納得なんかどうでもいい。分かったら、お前の責任で解決してこい。」
怒鳴り散らしてやりたい衝動が胸を締め付けた。
目の前の灰皿を叩きつけて、書類を床にぶちまけてやりたい。
だが、翔太はそれをグッと堪え、唇を噛んで目を伏せた。
「わかりました…」
掠れた声でそう呟き、彼は灼熱の空気を背に事務所を出た。
扉が閉まる音が背中で鈍く響き、外の熱風が再び彼を包み込む。
無理やり押しつけられた理不尽に拳を握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めたが、怒りを爆発させたところで何も変わらないことは分かっていた。
「クソが……」
低く吐き捨てながら、翔太は工場敷地内の研究棟へと足を速めた。
プラントの喧騒――鉄を叩く音やコンベアの駆動音――から少し離れたその建物は、古びたコンクリートの外壁に蔦が這い、窓枠には錆が浮いている。
扉を開けると、ひんやりとした空調の風が汗ばんだ肌を冷やし、室内に漂う消毒液と金属の匂いが鼻をついた。
重たい気持ちを引きずりながら研究室に入ると、すぐに明るい声が彼を迎えた。
「先輩、お疲れ様です! って、あれ? 顔色悪くないですか?」
振り向けば、研究室の一角にある実験台に座っていた南川涼子が、心配そうにこちらを見ていた。
ショートカットの黒髪が軽やかに揺れ、白衣の裾が膝の上で少し乱れている。
彼女は翔太の二つ下の後輩で、入社二年目の研究員だ。
机の上には試作用の金属片と分光計が置かれ、彼女の手元には実験レポートが広げられている。
「いや、大したことじゃないよ。」
そう言って椅子に腰を下ろすが、背もたれに凭れた瞬間、疲労がどっと肩にのしかかった。
涼子は納得しない様子で、軽い足音を立てて翔太の机に歩み寄ると、腕を組んでじっと彼の顔を覗き込んできた。
彼女の瞳は澄んでいて、そこに映る翔太の疲れた表情が妙に気恥ずかしかった。
「また近藤課長に無茶振りされましたね?」
図星だった。
翔太が返答に詰まると、涼子は小さくため息をつき、机の端に腰を預けた。
白衣の袖が軽く擦れる音が静かな研究室に響く。
「今朝、内線で『トラブルは研究のやつに行かせりゃいい』とか言ってましたよ。たぶん、その話ですよね?」
「……まあ、そんなところだ。」
翔太は苦笑しながら、近藤に押しつけられた理不尽な謝罪対応について説明した。
話が進むにつれ、涼子は呆れたように眉をひそめ、やがて怒ったように腕を強く組んだ。
「もう! なんで翔太先輩ばっかり……!」
その声には憤りと同情が混じっていて、翔太は思わず口元を緩めた。
「俺が言いたいよ。」
「……でも、先輩のせいじゃないですよね? 試作品はまだ検証段階だったんですし、正式に社内での販売許可も出てなかったんですから。」
涼子の言葉は正論だった。
彼女の手元にある実験レポートにも自分が書いたように終わっていない試験や問題点が分かりやすいようにマーカーでマークされている。
「そうだけどな……言ったところでどうせ聞く耳持たないし、逆に目をつけられるだけだ。」
翔太は肩をすくめ、疲れた視線を天井の蛍光灯に投げた。
反論したところで、組織の論理には勝てない。
それがこの会社の現実だった。
涼子はしばらく考え込んでいたが、やがて真剣な眼差しで翔太を見つめた。
「……先輩、客先に行くんですか?」
「ああ。仕方ない。」
「だったら……私もついて行きます!」
思わぬ申し出に、翔太は驚いて目を丸くした。
「いやいや、お前まで巻き込まれることないだろ。」
「でも、一人より二人の方が心強いですよね? それに、先輩を見捨てるわけないじゃないですか!」
涼子はニッと笑って拳を握り、その明るい表情に、翔太は不思議と肩の力が抜けるのを感じた。
彼女の白衣の袖が少しずり落ち、細い腕が覗く。
その小さな仕草が、妙に頼もしく見えた。
「……ありがとな。」
「えへへ、任せてください!」
理不尽な現実は変わらないが、それでも自分を気にかけてくれる人がいる。
そう思うと、心のどこかが少しだけ軽くなった。
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翔太と涼子は、二人で客先へと向かうため、会社の軽バンに乗り込んだ。
夏の暑さで車内の空気は蒸し暑く、エアコンもほとんど効かない。
窓を開けても熱風が吹き込むだけだ。
客先のオフィスに到着したとき、翔太は汗ばんだ額を拭い、深呼吸してからドアを開けた。
ガラス張りのエントランスからは冷房の風が漏れ出し、背筋が少し伸びる。
「高橋さん、南川さん、お疲れ様です。」
担当者の佐藤が柔らかな笑顔で迎えてくれた。
中年の男性で、スーツの袖口が少し擦り切れているが、その穏やかな口調に翔太は少し肩の力を抜いた。
「こんにちは。この度はご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした。」
頭を下げると、佐藤は軽く手を振って応じた。
「いえ、私たちも不良品が出たことに驚いていますから、しっかり話し合いましょう。」
意外にも佐藤の態度は協力的で、翔太が誠意を込めて説明を続けると、彼は納得し、むしろ同情の意を示してくれた。
「ですが、やはり損失が起こっておりますので賠償についてお話させて下さい。ただ、いつもお世話になっておりますので少額の対応で収めることができればと思います。」
佐藤はクリアファイルから一枚の書類を取り出し、机の上に置いた。
そこには損害額が細かく記され、翔太はそれを受け取りながら小さくため息をついた。
「代わりに次から納入される資材の割引という形でこの損害分を支払わさせていただきたいのですが…」
その後、翔太と涼子は賠償金の詳細を取りまとめ、無事に客先を後にすることができた。
正直、もっと険悪なムードになる展開を予想していたが、佐藤の優しい対応に救われた。
おそらく隣にいた涼子の笑顔が効いたのだろう。
この業界、可愛い女の子には滅法弱いのだ。
だが、もう一つの試練が待っていた。課長、近藤正志への報告だ。
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会社に戻り、報告のために課長の部屋を訪れると、近藤は偉そうに椅子に踏ん反り返っていた。
机の上には空のコーヒーカップと吸い殻で溢れた灰皿が散乱し、部屋にはタバコの臭いがこびりついている。
翔太はそんな様子を尻目に、客先と合意して作成した契約書を机に置いた。
「おう、お疲れ様。で、どうだった?」
近藤は書類を手に取り、ペラペラと捲るが、その目が内容に留まっているようにはとても見えない。
「客先と話し合って、少額の賠償金で済ませてもらうことができました。」
「少額の賠償金? なんでお前がそんな決定をしてきたんだ! 俺の許可なしで、勝手に決めるな!」
近藤は手に持った契約書を勢いよく引き裂き、紙片が床に散らばった。
その言葉と態度に、翔太の胸に湧き上がる怒りが抑えきれなくなった。
もう、こんな理不尽な環境には耐えられない。
彼の中で、会社を辞める決意が固まった。
「……課長、もうこの会社を辞めます。」
後ろから見ていた涼子が驚いた顔で翔太を見つめる。
近藤は呆れたように肩をすくめた。
「はぁ? いいかげんにしろよ、お前。今さらどうするつもりだ?」
「この会社では、もう無理です。」
そう言い残し、翔太はそのまま部屋を出た。
近藤が何か喚いている声が背後で響いたが、もうその言葉は耳に届かなかった。
研究室に戻ると、私物をまとめ始めた。
机の引き出しからペン、USBを取り出し、ダンボールに放り込む。
何度も事務所からの内線が鳴ったが、無視した。
特に大事なものはない。荷物はダンボール一つに収まってしまった。
「先輩、本当に大丈夫ですか?」
その様子を見ていた涼子が、心配そうに声をかけてきた。
彼女の手には白衣が握られ、少し皺が寄っている。
「大丈夫だって。」
翔太は少しだけ笑みを浮かべたが、その背後にある不安を隠しきれなかったようだ。
何かを感じ取ったのか、そんな翔太の目を涼子はしっかり見つめて言った。
「何かあったら、頼ってくださいね。私は先輩の味方ですから。」
その言葉に翔太は少し驚き、同時に嬉しさが込み上げてきた。
年下の涼子にこう言われることが、どこか情けなくもあり、心強かった。
「ありがとう。後輩に言われるのは、ちょっと情けないけど……」
翔太は何とか笑顔を作った。
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それから2ヶ月後。
翔太は一年前に購入していたMATSUDAの SUVに荷物を積み込み、祖父が住んでいた田舎町へ向かっていた。
トランクにはダンボール数個と、布団が積まれ、ボディがカタカタと揺れる。
仕事を辞めた後、とりあえずのどかな場所で休みたいと考えた彼は、祖父の家のことを思い出した。
2年前に祖父が亡くなり、父が相続した家と山があるが、管理する人が見つからず放置されていると聞いていた。
父に電話すると、トントン拍子で話が進み、移り住むことが決まった。
引っ越しと同時に会社へ退職届を出したが、そこでも一悶着あった。
会社の重役が何人も出てきて引き留めようとしたが、翔太はその全てを断った。
近藤の尻拭いはもう御免だった。
祖父の家は、子供の頃に何度か遊びに行った記憶がある。
山間の静かな集落に佇む大きな古民家で、縁側からは蝉の声が響き、裏には雑草に覆われた畑と、鬱蒼とした山が広がっていたはずだ。
幸いにも、会社員時代にそこそこ貯金はしていた。
都会での生活費を切り詰め、給料の大半を貯蓄に回してきたおかげで、少なくとも三年は働かなくても食っていける計算だ。
「……まあ、のんびりやるか。」
エンジンの振動を感じながら、翔太は大きく息をついた。
過酷な労働と理不尽な上司に振り回される生活は、もう終わった。
これからは、誰にも邪魔されずに自由に生きるんだ。
夏の青空の下、SUVは静かな田舎道を進んでいった。
道端には黄金色の稲穂が揺れ、遠くの山々が霞んで見える。
窓から吹き込む風が汗を乾かし、心の重荷を少しずつ溶かしていくようだった。