昇天ごっこ
いつかのある日、世界のどこかで、ふたりの幽霊が歩いていました。マサシとヤスシ。ふたりは子どもで、だれにも見えなくて、完璧なまでに死んでいました。眠りを知らず、時をおそれず、遊ぶことだけが生き甲斐でした。ふたりだけが人類でした。生前は夢、死の後こそまこと。存在しないふたりに、無意味な一日はありませんでした。社会はなくて、世界がありました。魂だけが永遠でした。
その日は雨で、薄暗くて、こころなしか世界が灰色でした。
「雨に打たれていると、死んだときのことを思い出すな」
マサシは言いました。車が横を通り過ぎました。運転手に幽霊は見えないので、危うく跳ねられそうな距離感でした。運転手よりも雨の方が、ふたりをよほど知覚してくれているようでした。
「苦しかった?」
ヤスシが訊きました。
「どうだったっけ……。覚えてないな。なんだかピンと来ない。死んだときのことは覚えてるけど、生きていたときの感覚は忘れちまったよ。苦しいとか、ひもじいとか、寒いとか、痛いとか。おれって本当に生きていたのかな」
「生きていなかったら、幽霊にもならないよ。たぶん」
マサシとヤスシはいつも話しています。そしていつも忘れます。同じようなことを、何度話したかわかりません。砂漠の砂粒よりも多くかもしれません。でも、それでいいのです。気の合う相手と話すことは、身体になじんだ音楽のようなもので、飽きるということがないのです。古びることも、色褪せることも。
話しながら歩いているふたりは、ゆっくりと進んで、小さな橋に差しかかりました。
「ああ……ヤスシ、見ろよ。猫だぜ」
マサシが指し示した方を見ると、その言葉のとおり、欄干の上を猫が歩いていました。降りそそぐ雨を気にも止めないように、悠然と歩を進めていました。
「なんだか堂々としているね。怖いものなんて、何もないみたいだ」
ヤスシが惚れ惚れするように言いました。
「おれたちだって、何も怖くないだろ。死ねば、何も怖くない。この世でいちばん怖いことって、死ぬことなんだろ?」
それももう思い出せないけど、とマサシは言って、笑いました。
「そうかな? たしかに死んだら死は怖くないけど、でも、もっと怖いのは……」
ヤスシの言葉はそこで途切れました。何かが視界に入り、そちらに注意を奪われたようです。マサシもその様子に気づき、ヤスシの視線の先に目を向けました。
雨で増水した川に、ひとりの少年が流されていました。服を着たままもがくように、浮き沈みしながら、橋の方へと流れて来ます。
どうやら溺れているようです。誰が見てもそれは明らかでした。でも、誰も見ていませんでした。橋の上にいる幽霊たち以外は。
「ああ……なんか、昔のおれみたいだな。しんだときの」
呑気に見下ろしながらマサシは呟きます。ヤスシは黙っています。
溺れる少年は橋をくぐりました。もがきながら、枯葉のように流されていきます。
「ああやって、死ぬんだな。今日もまたひとり」
流されていく少年を橋の上から目で追いながら、どうでもよさそうにマサシは呟きました。
欄干の上の猫が、小さな声で鳴きました。
すると突然、橋の上から身を乗り出して、ヤスシが川に飛び込みました。
「え?」
ぽかん、とした表情で突っ立ったまま、マサシはヤスシが飛び込んだ先を眺めていました。
ヤスシはいままで見たことのないような必死さで、増水した川を泳ぎ進み、流されていく少年の方へと近づいていきました。
溺れている少年の腕をつかむと、ヤスシはそのまま岸の方へと、なおも必死で泳いでいきます。
「…………」
雨が降るなか、マサシはゆっくりと橋を渡って、てくてく歩き、土手を下りて、草の茂る岸辺に辿り着くと、そこにもつれあったまま倒れているヤスシと少年を見下ろしました。
溺れていた少年は、ぐったりとした様子ですが、命に別状はないようです。
「何やってんだよ」
不思議そうにマサシは呟きました。
「助けたつもりなのか? 何かを変えたつもりなのか? でも、おれたちは死んでるんだ。存在しないんだ。何をやったって無意味なんだ。こいつが助かったっていうのなら、それは元からそうなるはずだったってだけだ。なのに、なんでそんなことするんだよ。なんで、助けるような真似をしたんだよ」
いや、別に、とヤスシは答えて、溺れていた少年の腕を放して、立ち上がりました。
「ただ、何となく……身体が勝手に動いただけだよ。理由なんてない」
「なんだよ、それ」
不可解そうに、裏切られたような目で、マサシはヤスシを見つめました。
「あ」
素っ頓狂な声をあげて、ヤスシはさっきまで溺れていた少年をつかんでいた自分の手を眺めました。
ヤスシの手は、まるで雨に溶け入るかのように、輪郭が淡くなり、色彩が薄くなり、半透明になっていました。
「ああ……そういうことか」
ヤスシは納得したように、ぽつりと呟きました。マサシが怪訝そうな目を向けます。
「どういうことだよ?」
「うん……どうも、ぼく、このまま消えてしまうみたいだ」
他人事のようにヤスシは言いました。その言葉のとおり、いまやヤスシの手だけではなく、足も、胸も、顔も、ヤスシの全身が、だんだんと淡くなり薄くなり、透明になっていくようです。
そんな友達の姿を、マサシはぼんやりと眺めました。
「消えるのか、おまえ」
「うん。もしかしたら、別のところに行くだけなのかもしれないけど。でも、もうここにはいられないみたいだ」
「なんで?」
「さあ……。でも、わかるんだ。それはそういうものだって」
それっきり、ふたりの子どもの幽霊は黙りました。雨は降りつづけていました。川は流れつづけていました。時は動きつづけていました。ひとりの幽霊は消えかけていました。
ううん、と溺れていた少年が、目覚める前のように息をつきました。
「なあ、ヤスシ」
「何?」
「おれは、生きてる人間のことなんてどうでもいいし、だれかを助けようなんて、いちども思えたことがないけれど……それでも、おまえがいまわかっていることを、いつかおれもわかることが出来るのかな?」
「大丈夫だよ。そのときが来れば、マサシにもわかるよ」
「そのときって、いつだよ?」
「さあ……。百年くらい経てば、わかるんじゃないかな」
「百年って、何秒くらいだ?」
「三十一億五千三百六十万秒くらい」
「じゃあ、それくらい経ったら、また会えるかな?」
「うん。きっと会えるよ」
「約束だからな」
「うん。じゃあね、マサシ。さようなら」
「ああ。またな、ヤスシ」
そして、ヤスシはいなくなりました。雨に溶け入るように、見えなくなって、消えてしまいました。
ずっとふたりだった幽霊は、ひとりになりました。
溺れてぐったりしていた少年は、身じろぎしました。やがて起き上がり、家に帰ることでしょう。それを見届けることもなく、マサシはその場を離れました。
雨に打たれながら、マサシは川沿いをとぼとぼと歩いていきます。
向かう先はありません。為すべきこともありません。ただ、友達との約束だけが、マサシの歩みをつなぎとめていました。
にゃあ、と小さな声が後ろから聞こえました。マサシが振り返ると、先ほど橋で見かけた猫が、いつのまにかついてきていました。
「ああ……なんだ、おまえも幽霊だったのか」
にゃあ、と答えるように猫が鳴きました。
「一緒に来るか? ヤスシの代わりに……」
いや、とマサシは思い直しました。代わりなんて、いないんだ。人はいなくなったら、それはずっとそのままなんだ。他のだれも、その穴を埋めることはできない。たとえそれが幽霊であっても。だから、忘れないでいることだけが、たったひとつの救いなんだ。
いま、マサシには痛みがありました。からっぽの幽霊の胸に宿る痛み。でも、残されたのは痛みだけではありません。かけがえのない約束がありました。
にゃあ、と猫が鳴きました。
一秒、二秒、三秒、四秒、五秒、六秒、七秒、八秒、九秒…………。
マサシはこころのなかで静かに数え始めました。長い時を越えて、三十一億五千三百六十万秒を数え終えたとき、懐かしい友達とまた出会えるように、祈りながら。
遊び相手を喪った幽霊は、影のような猫とともに、雨に打たれながら、どこかへと歩いていきました。




