帰るべきだった場所
「私達別れましょう。」
ボロアパートの部屋に帰るなり、私は自分の彼氏にそう告げた。
私はとうとう歌手としてメジャーデビューする。クラシックギター片手に、毎日毎日、駅前で歌い続けた甲斐があり、とうとうスカウトされたのである。
デビューするに当たり、今までの冴えない自分を払拭しよう。そう考えた私は今まで支えてくれた彼氏も切り捨てようと思った。
私のことを冷たい人間と思う人は勝手に思うがいい。私は夢を叶える為ならなんでもする。
私が別れを告げると、彼はいつもの様に優しくニコッと笑った。
「そう言われると思った。いいよ、君の為なら喜んで身を引こう。でも辛くなったら、いつでも帰っておいで僕はここに居るから。」
本当にお人好し、養った挙げ句に捨てられるというのに、どうしてこんなことが言えるのだろう?ズキリと胸が傷んだ。
罪悪感が無いわけじゃない。彼を嫌いになったわけじゃない。ただ夢を叶えるためには彼が不要なだけである。
・・・なんだか凄い悪い奴だな、私。
彼の優しいところが好きだった、でも凄く嫌いだった。
「さようなら。」
私は一言そう告げて、荷物一つも持って行かずに出ていった。
夢を追う私には何も要らない。全て捨てちゃうんだ。
後悔はしないと思う・・・多分。
〜50年後〜
私は大御所の歌手になっていた。まぁ、ヒット曲は2つぐらいしか無かったけど、なんとかなるものよね。
一回り年上の金持ちの男と結婚は出来たし、お金には困らなかった。
子供も二人出来て、幸福な生活を送れた。
でも、何処か満たされない気持ちが私の中にはあった。何故か思い出してしまうのだ。あのボロアパートの暮らしを。
笑っている彼の顔を。
まるで、幸せがあの時に全て詰まっているかのようだ。
そう考えると、私がようやく手に入れた幸福な生活が空虚なように思えてしまう。
子供達が巣立ち、夫も先立った。一人の孤独な生活には慣れたけど、時々堪らなく寂しくなる。
そんな折、年老いた私に昔の友人から一方届いた。
なんでも私を支えてくれた彼が、重い病に掛かって病院に入院しているそうだ。なんでそんなことを今更私に教えたのか友人に尋ねると、彼があまりにも不憫だったからだそうだ。
友人は別に私を責めた言い方はしなかったが、ずしっと言葉が重かった。
病院には堂々と入った。今更騒がれたところで、落ち目の歌手に怖いものなど無い。
受付を終わらせて彼の病室に入ると、白髪の老人が大層な機械に繋がれてベッドに横たわっていた。
白髪でシワだらけの痩せこけた老人、これが彼だというのだろうか?50年という歳月を感じてしまう。そりゃそうだ、私は自分のシワくちゃの手を見て苦笑いをした。
彼は寝ていたので、起きるまで待たせてもらうことにした。
歳を取ってから待つことは苦じゃない。それに今日彼と話をしないといけない気がした。
「うぅ・・・。」
うめき声を上げながら彼が起きた。そうして私のことを見て、驚いた顔一つせず、思い出のままの笑顔で彼は笑った。
「いらっしゃい。」
どうしてそんな風に笑えるのだろう?どうしてあの頃のままなのだろう?
友人からの話によると、彼は働きながら、あのボロアパートで私が帰ってくるのを待ち続けたていたらしい。50年もの間。この話を聞いた時、私は怖くなった。何の当てつけだろう?狂ってる。やはり私は最低かもしれないが、そう思ってしまったのだから仕方ない。自分に嘘は付けない。
笑う彼に対して、私は表情一つも変えずに単刀直入に疑問を口にした。
「どうしていつまでもあのボロアパートで待ってたの?私への当てつけ?」
私は嫌味ったらしく聞いた。悪女と言われても今更だ。今更よく思われようとも思わない。
でも彼はニコニコしながらこう答えるのだ。
「いつでも帰っておいでと言った手前、待ってないといけないなと思ったんだ。」
たったそれだけのことで、50年も待ってたのだろうか?本当にこの人はバカでお人好しだ。呆れてものも言えない。私は成功したのだ、あんなボロアパートに帰って来るわけ無い。そんなこと分かっていた筈なのに。早く別の恋人でも作って幸せになれば良かったのだ。でも、人とは勝手な生き物、私だって勝手をしたのだ、彼だって勝手にしたのだろう。でもそれにしたって・・・。
「本当にバカね、アナタ。」
冷たくそう言い放った・・・筈なのに、何故か、何故だか不思議と涙が溢れてきた。
私の為に、私の為に、この男はこんなになるまで待ち続けたのだ。私がどれだけ酷い人間でも、それを貶すことは出来ない。しないでは無い。出来ないのだ。
「・・・泣かないで、涙は君には似合わない。帰ってきたわけでは無いんだろう?でも会いに来てくれて嬉しいよ。」
彼は笑顔が本当によく似合う。きっと生まれた時も笑って生まれたのだ、だから死ぬ時も笑って死ぬのだろう。たとえ一人ぼっちだったとしても。
帰ってきたわけでは無い。たしかにその通りだ。その通りなのだけど、帰るべきだったのだと今思い知った。そして今更そんなことが分かっても遅いことも。
「歌を歌ってくれないか?僕の好きだった歌を。」
彼から突然そんなことを言われた。彼の好きだった歌、それを私は覚えている。
「ギターも無いし、声も昔ほど出ないけど、それでも良いの?」
「良いさ、最後に君の歌が聞けるなんて、最高の冥土の土産だ。」
彼はもうすぐ死ぬ。きっと彼はそれを受け入れているのだろう。それでいて私なんかの歌を聞きたがるなんて、本当に馬鹿なんだから。
「じゃあ、歌うわ。あなたの為にね。」
この人に為に歌を歌う。誰かの為に歌うなんて初めての経験だ、いつも歌は自分の為に歌ってたから、これが最初で最後だ。私は彼の為だけに歌を歌う。
皮肉にも彼の好きな歌は「カントリーロード」だ。
帰りたい、帰れない、さよなら、カントリーロード。この歌詞が胸に響く、もう帰れないのだと思い知らされる。泣きそうだが、もう泣くわけにはいかない。そんな権利は私には無い。
彼は私の歌を気持ち良さそうに聞いていた。安らかで満ち足りた顔、どうしてそんな顔が出来るのだろう?何も報われなかったのに、私のせいで人生を棒に振ったのに。
何も分からない、分からないまま私は歌い終えた。
すると彼は予想通り満面の笑みで「ありがとう」と言うのだ。その笑顔を前にして私は「ごめんなさい」と言いたくなったが、ぐっと堪えた。それはきっと彼が望む言葉じゃ無かったから。
三日後、彼は亡くなった。誰にも看取られずに、寂しい最後だった様だ。
彼が亡くなったあと、一緒に住んだボロアパートを訪ねると、取り壊しの最中だった。ガラガラと崩れる私の思い出、もう帰れない、私の帰るべきだった場所。
私は人生を間違えた。誰がなんと言おうと間違えたのだ。
間違えた後悔を抱えたまま、私は寂しい余生を過ごすのだ。
歌はもう歌わない。人の為にも自分の為にも歌う歌が、もう無いのである。
何もかもが無くなった。これで良い。
後悔だらけの人生で、未練なく私は死んでいく。
それが良い・・・それで良い。