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第93話 個性


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「優木くん。いつも偉いわね。きみは誰よりも学校に来てるように思うわ」

「は、はぁ……、うぅ……」

「一生懸命頑張ってるね! きっとその頑張りは報われるわ! 先生が補償する!」

「う、うぅ……、は、はい……」

 二限目の授業中、英語を担当する教師、森高来夢は千尋を名指しで褒めた。二年生のβクラスは一クラス四十名程いるが、サポート授業に出席する生徒は少ない。教室の椅子は三十個しか用意されておらず、疎らな室内は想定の範囲内である。前列から数えて二列目に座っている千尋、あおい、めぐみ。後方に数名の男子と女子。ざっと見て十数名の教室は圧迫感はないが、千尋は誰とも会話したことはない。

「勉強も、その調子で頑張ろう!」

「う、うぅ……」

「まずはこれを読んでみて。Ken uses this machine」

「ケン……ゆ……、ず……、ディ……、シ……ン」

「うんうん。訳はどんな意味になるかしら?」

「あ……、あわ……、うぅ……」

「ケンはこの機械を使う、です」

「はい、そうね川澄さん。じゃあそれを受動態にしてみよう」

「This machine is used by Ken.です」

「うん。さすが川澄さん。受動態の形はどんなだったかしら?」

「主語+be動詞+過去分詞……、です」

「じゃあWe play soccer.は受動態、能動態どっちかしら? 優木くん」

「え? あ……、えっと……、うぅ」

「能動態です」

「そう。川澄さんは賢いわね~。優木くんも一生懸命頑張ったらきっと追いつけるから! 先生と一緒に頑張ろうね! ね!」


 *


 昼休み。

 千尋たちはイタリアンレストラン「オルソ」でランチメニューを食べている。千尋は少し落ちこんだ様子で相も変わらず、食事があまり進まない。めぐみは持参した蜂蜜をフルーツトマトとバジリコのスパゲッティーニに大量にかけて食べている。店員に見つからないように周囲を警戒し、バッグからこっそりと取りだした姿は異様だが、千尋には日常風景である。あおいはパスタだけでも黒毛和牛のボロネーゼ、カラブリア産唐辛子と九条ネギのペンネアラビアータ、北海道産ホタテと小エビの青海苔クリームソースの三つを注文し、さらに鴨胸肉ローストやアクアパッツァをノンストップで食べ続けている。

 三者三様の光景をアルバイト店員の高校生、天梨柚希あまなしゆずきは、面白いと思った。お揃いの制服を着た三人は常連客である。ランチメニューは二千円以内に収まるとはいえ、オルソは高校生が通うには高めのお店である。珍しい高校生常連客の三人の顔を覚えている。細身で上品そうな大食いの少女に、スタイルのいいモデルのような女の子、そして小学生なのか中学生なのか不明な、男の子。彼女たちの関係はわからないが、男の子に大食いの少女がキスをしたり、スタイルのいい女の子が胸を触らせたりしている。レストランの雰囲気に悪影響があるので注意をしたいが、彼女たちの異質なオーラに気圧されてしまい、未だに声をかけられたことはない。今日も遠巻きに観察をしていた。


「もぐもぐ……ち~ひろ、ちゃんと食べないと頭よくならないわよ~、もぐもぐ、ごくん……」

「関係ないよ……、僕なんてどうせバカなんだから」

「なによ、そんな落ちこんじゃって。千尋らしくないわ、もぐもぐ……」

「落ちこんでないし! 僕は……、元からひきこもりのメンヘラだし……」

「勉強ができないのは悪いことじゃないわ。ほら、琴音先生だって言ってるじゃない?」

「言ってないよ」

「いいところも悪いところも、みんなひっくるめて個性」

「悪い個性だ……、僕の」

「個性にいいも悪いもないの。みんな認めたら、世界は明るく輝くんだよ」

「先生は口が上手いから……」

「もぐもぐ……、まぁ~、勉強できなくても行ける大学はたくさんあるし……、少子化だしぃ……、もぐもぐ」

「僕、ほんと社会不適合者だ」

「仕方ないって。千尋は不登校だったし、ちゃんと勉強してこなかったんだからぁ」

「あおいちゃんだってそうでしょ。でも僕は全然追いつけない……」

「ま、賢さは遺伝の影響もあるというし……、ほら、私の親って東大だし……」

「僕だって父親は経営者だ。やっぱり僕はだめなんだ……」

「卑屈になっちゃって……、ほんと子供なんだから」

「子供じゃない! 僕は高校生だ!」

「情けないなぁ。もっと堂々としてたらいいのに。そう思うでしょ? めぐみちゃん」

「うん……、ちーちゃんはそのままでかわい~よ」

「可愛くなりたいわけじゃない! 僕は……、もっとちゃんとしっかりしたいんだ」

「曖昧な目標ね……もぐもぐ」


 千尋は勉強が苦手だ。英語も数学もまるで覚えられない。授業をうけても右から左に知識が抜けてしまう。学習障害があるわけではないが、集中力や記憶力に問題がある。琴音に言わせれば精神疾患の影響で新しいことを覚える余裕がないのかもしれない、と考察をするが千尋には何の気休めにもならない。スクーリングは行くだけで単位が取れるし、テストは合格するまで何度でもうけられる。その二つをこなしていれば卒業をすることはできるが、将来の不安は影のように千尋から離れない。夜になれば消える影も、こればかりは大きくなる一方である。


「だったら恵那ちゃんの王国に行ったらいいじゃない……、もぐもぐ」

「え? 王国に……?」

「もぐもぐ……、ごくん。そうそう。だって恵那ちゃんのやってるその王国って……、千尋みたいな子を受けいれてくれる場所なんでしょ? あ……、全部食べ切っちゃった」


 あおいは眼前に広がる真っさらになった六皿を見て、残念そうに言った。恵那のことを話しながらもその手はメニュー表に伸びている。「まだ食べるの?」と千尋は驚いたように言うが、諦めにも似た感情が入り交じっている。

「うん。だってデザート頼まなきゃ。イタリアンといえばデザートでしょ?」

「え……、そ、そうなの?」

「そうそう。あ、この濃厚チーズケーキおいしそう~。ね、一緒に食べよ?」

「う、うん……」

「チーズ食べたら大きくなるかもよ?」

「な、ならないし」

「じゃあ恵那ちゃんの王国に住むの?」

「え、だから……、なんで」

「私はね、いいと思うなぁ。恵那ちゃんがなにをしたいのかははっきりとはしないけど……、でも、ようするに不登校やひきこもりの支援団体じゃない?」

「そう……、かな」

「そうよ。ただやり方や方法論が普通とは違うってだけじゃないかなぁ」」

「あおいちゃんは……、恵那に賛同するの?」

「賛同ってわけじゃないけど……、直接会ったわけじゃないし。でも、なんだか自分らしく生きていて私は嬉しかったわよ。その話しを聞いて」


 絆の会の預言者、あるいは巫女と呼ばれたあおいは、淡々とした様子で店員を呼んだ。すぐにやってきたのは見たところ自分たちとそう歳も変わらない女性ウエイターだった。いつ来ても働いているまつげが長く少し色っぽい化粧をした女性に、あおいはチーズケーキ、ティラミス、アイスクリームを注文する。「あ、よかったらストローも下さい」と言ったあおいに千尋は質問をする。

「ストロー? なにに使うの?」

「え? なにって……アイス」

「……?」

「ドロドロに溶けたアイスを吸うのよ」

「え……、そんなの……、美味しいの?」

「うん。すごい美味しい」

「そう……かなぁ」

「好みなんて人それぞれよ」

「あおいちゃんって……、ほんと偏食で大食いだよね……」

「……? それのどこが悪いの?」

「いや、悪くはないけど……」

「そう。それこそが個性」


 あおいは物わかりの悪い子供がようやく理解したことを喜ぶように、母の手触りで千尋の頭を撫でた。

「やっとわかったじゃない。うんうん。よしよし。えらいえらい。千尋はバカじゃないよ。賢い子だ」

 あおいの口調は真剣味がない。それはいつも同じだが、今回は特にからかわれているように感じて千尋は腹が立ったが、しかしなにも言えず、ただ撫でられるままなのであった。


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