第83話 立ち止まってもいられない
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十八時。
少し早めのデミグラスソースの匂いが食卓に広がっている。奏と琴音が作ったハンバーグと野菜スープが食欲をそそる。
本日の夕食は家族全員が揃っている。和やかに夜を囲むのは、思い思いの笑顔である。
「そうだ! 音楽際! 千尋くんが歌いに行ったらいいじゃない。有理栖ちゃんに作曲の才能があるって褒められたんでしょ?」
「いや、怒られますよ」
「そうかなぁ? 有理栖ちゃんと一緒に行ったらいいじゃない。ちょっとしたサプライズみたいな感じで」
「主役は奏たちでしょ。いくら有理栖さんでも怒られますって」
「でも有理栖ちゃんはきっとノリノリだと思うけれどなぁ」
「僕はノリノリじゃないです。ていうか歌えないですし、曲も作れないし、そもそもまだ初心者だし……」
王川小学校の音楽際は毎年十一月に行われている。二学期早々に準備が始まり、二ヶ月間練習してきたアンサンブルをクラスごとに披露する。奏はリコーダー隊の担当である。六年二組の曲目は「くるみ割り人形」である。
一家殺人事件後、病院に長期間入院していた奏にとっては、クラスの仲間と行うイベントはどれもこれもが踊るように楽しみである。熱心に練習したリコーダーを琴音や千尋たちに見て貰うことが今にも待ち遠しい。
【ドレス買ってきたの! 千尋ロリコンだからきっと興奮するよ!】
「僕をなんだと思ってるんだ、ほんとに」
【ロリコン!】
「違うから」
「でもせんせーがゆってたよ? 子供のころに満たされなかった想いは、大人になってからもずっと残ってるって」
「はぁ? なにが言いたいんだ。めぐみ」
「ちーちゃん、絶対性癖歪んでる!」
「……! そんなことない!」
「うふふ……、そうかしらねぇ? めぐみの言うとおり、性的倒錯者の多くが、幼少期の抑圧された欲求がその原因となっているのよ」
「先生も、ですか?」
「あはは……、まあね。先生は子供のころ勉強ばかりしていて、友達がいなかったから。満たされなかった気持ちが、若い子を求める欲求となっているのよ」
「なにを冷静に言ってるんだ。変態め」
「母親に愛されなかった男の子はマザコンやシスコンになりやすいし、父親のいない女の子は、歳の離れた男性が好きになったりもする。育った環境っていうのは、とても重要なことなのよ」
「僕は……、わかんないです」
千尋は性的な欲求を未だに持てない。身体的な成長も精神的な成長も、二次性徴を促すには足りていない。人に対し、好き、という感情は感じるが、肉体関係を求めようとはまるで思わない。
そんな自分はコンプレックスだが、有理栖の言うように、歌という手段で表現をすれば、なにかを変えられる気がする。千尋は燃え上がる気持ちを感じている。心の中に積もり積もっている塵は、吐きださなければ窒息してしまう。そうだ。表現をする。外側に発信をするのだ。奏しなければいけない気すらするのである。
――ピロロロンッ
ありす:【やあ千尋くん! 来月の聖愛学園文化祭であたしライブすることになったから、千尋くんも一緒に歌うって実行委員会に伝えておいた! 楽しみだね~(^o^)】
「は……!?」
突然に有理栖から送られてきたLINEの内容に千尋は声をあげて驚いた。聖愛学園高校で来月に文化祭があることは知っているし、山吹未来や西園未来に招待もされているが、有理栖がライブをするとは聞いていない。勿論、自分が歌えるわけもない。慌てる千尋を琴音やめぐみたちはなにごとかと不審がるが、言葉を返す前にLINEの返事を打つ。
千尋:【どういうことですか? 僕無理ですよ。無理です】
「どうしたの? 千尋くん。急に慌てた顔をして」
「ちーちゃん?」
【千尋?】
「いや、なんか有理栖さんが来月聖愛学園文化祭でライブするらしいんですけど、僕も一緒にライブしろって」
「お~! いいじゃない! 有理栖ちゃんに気に入られてるんだね~千尋くん」
「ちーちゃん才能あるんだよ! 認められてる証だね!」
【千尋すごい】
「いや……、ライブなんてできるわけないし、大体ギターだってまだ初心者で……」
ありす:【だいじょ~ぶ(笑) あたしがいればきっとうまくいくさ! あ、実行委員会の山吹さんっていう子知ってる? 詳しくは山吹さんが説明してくれるって!】
聖愛学園高校文化祭は生徒会を中心とし、各クラスから選ばれた有志を加えた実行委員会が運営の中核を担う。山吹未来と西園未来が実行委員会のメンバーであることは知っていたが、それ以上のことはなにも知らなかった。だが千尋は勘がいい。察するのだ。なぜこのような事態になったのか。想像ができた。
千尋:【山吹さんは知り合いです。有理栖さんはなんでライブなんてすることになったんですか?】
ありす:【こないだそっち行った帰り道で声かけられたの! 千尋くんの友達だってゆーからお話ししてたら、ライブするって感じになった(笑)】
「やっぱり……、あの人……」
未来は千尋の周りを変わらず徘徊している。ストーキングは被害がないので黙認しているが、自分たちの日常が観察されているのはわかっている。見られて困ることでもないし、誰かが見てくれているというのはある意味安心でもある。千尋は思う。もし誰かに誘拐されたり、道端で倒れても、山吹さんが見てくれていたら助かる。
だが、さらに思う。有理栖にライブを持ちかけたのは彼女のなんらかの企みがあるのでは、と。
「来月は忙しそうね~。先生もちゃんと有給取らなきゃね~! 奏の音楽祭に、千尋くんのライブ! あ~、我が子の晴れ舞台を待つお母さんの気持ちだわ」
「あたしはお姉ちゃんの気分~! あたし髪切ってこよっかな~っ、可愛いお姉ちゃんで行きたいし!」
「勝手に話進めるな……、僕は困ってるのに」
ありす:【あ! ライブはさなりすじゃなくて、あたし名義で行くからね!】
千尋:【わかりました。詳しくは山吹さんにききますけど……、僕はまだ歌うのは無理です】
ありす:【無理じゃないよ! きみには才能があるんだから! 想ったことを歌えばいいだけさ! ライブまでの間に曲を作ろう! あたしも協力するから!】
「だめだ……、この人もまるで話し聞いてくれない……」
千尋は自由に生きる周りの人間に絶望する。だがそれこそが世界に負けず、自分を確立するということなのかも知れない。自分だけの色を見つけるのは難しい。だが、今はこの人たちのように振る舞うこともできない。けれど、立ち止まってもいられない。
「あおいちゃんにも……、言わなきゃ……」
有理栖が考えを変えるとは思えず、琴音たちに相談したところで自分が望む展開になるとも考えられない。大体、自分が本当に願っているのは、歌わないことなのか? 千尋はわかっている。そうだ。変わりたいと思う僕に有理栖はチャンスをくれたのだ。琴音やめぐみたちもわかっている。僕の背中を押してくれているのだ。だから僕は素直にならないといけない。自分の気持ちに、願いに。