第82話 届けたい想いがきみの心の中にはたくさんあるんじゃないのかい?
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午前十一時。
雨の音は治まる気配がない。リビングでコーヒーを一杯入れた千尋は、訪問客のテーブル前に持って行く。
「え~!? コーヒ~? あたしコーヒー苦くて嫌いなのに~」
「いや、頼んだのはあなたでしょう」
「頼んだ~けど~! でも嫌いなものは嫌いなの~!」
「じゃあ頼むなよ」
「でも頼みたいの~! ほら! コーヒー注文する人って大人じゃん! なんかイメージ? が!」
「あぁ、そうですか」
来客――高柳有理栖は情緒豊かな表情でコーヒーについて語った。手も足も、顔も、よく喋る彼女はまるで映画や漫画の登場人物のようだ、と千尋はいつも思っている。
「ずるずる……、ごくん……、うげぇ~! やっぱり苦ーい!」
「砂糖入れろ、砂糖を」
「だめ! ブラックじゃないと大人っぽくないも~ん!」
「あぁ、そう」
「千尋くんはコーヒー飲まないの? 飲んだら大人っぽくなれるのに~!」
「なれないです。ていうかコーヒー嫌いだし」
「なれるよ~! こーゆーのはね、格好から入るのが大事なんだから! 音楽だってそー! ロックやるなら髪をピンクにしたり、ハイライト入れてみたり、革ジャン着てみたり……、そーゆー空気? みたいなのが自分を変えてくれるんだよ!」
「思い込み効果……、みたいな?」
「そーそー! それそれ! 自分がスターだって思えたら、それはもうスターなんだよ! 上手いとか下手とかは後からついてくるの。なにごともね、ノリ? みたいなのがが大事なんだよ!」
午前十一時。家には千尋と有理栖しか居ない。めぐみは入間川を綺麗にする会の活動からまだ戻っていない。琴音と奏は来月に予定している小学校の音楽祭で着用する洋服を買いに市外まで出かけている。有理栖のレッスンを受けるのは今日は千尋一人。千尋は少し不安だ。奇想天外で自由奔放な有理栖と二人きりで、無事にレッスンを終えられるだろうか、と。
「えへへ……、千尋くんもさ~、髪をピンクにしたり、ブロンドにしてみたりさ~、そーゆーところから変えてみたらどぉ~?」
有理栖は気の抜けた声で千尋に訊く。長く茶色い髪には、所々、ピンクやブロンドのハイライトが入っている。
「染める……」
「そーそー! あたしみたいにさ、色入れてみたら? きっと似合うよ! 千尋くん、かわい~顔してるんだから!」
「染めたこと……、一度もないです」
「あ~、そうなんだ~! じゃあいーじゃん! 自分を変えたいんでしょ? だったら……、見た目から入るってゆーのもいーと思うな~、あたしは!」
髪を染めたこと一度もない。だが、子供っぽい自分に対するコンプレックスを、見た目を変えることで少しは拭えるかもしれない。千尋は悩む。勝手に髪を染めたりしたら、あおいに怒られるかもしれない。だが、髪を染めてみたいと思ったことはある。
「あたしが染めたげるよ~! あたしね、こーみえて結構器用なんだよ? えへへ……、ドラッグストアで染色料買ってきて今すぐ染めよーよ」
「ギターの練習は……?」
「そんなの後でいーよ。あたし今日は一日暇だしぃ、千尋くんの自立の支援もあたしの役目だから! 三上先生には色々お世話してあげてってゆわれてるし!」
「いや……、でも、すぐには決められないし……、あおいちゃんとか……、相談……しないと」
「例の彼女だね~っ。婚約指輪もあるんだもんね~、そのリング!」
「は……、はい……、あおいちゃんは……、厳しいから、ちゃんと訊かないと」
「尻に敷かれてる? んだね~! 千尋くんのこと大好きな女の子なんだね!」
「わかんないけど……、僕はあおいちゃんのためにも、自分らしく生きなきゃいけないんです」
「へぇ~、じゃあ歌も作れそうだね。その子のために」
「え!? 歌なんて……、そんな……」
「にししぃ~っ、歌はね、想いなんだ。伝えたいことがあるから、歌が生まれる。きみに届けたい気持ちが、歌詞になってメロディーになるんだ」
高柳有理栖にギターを指導されて数回。千尋はまだギターの素人だが、簡単なコードは弾けるようになった。音楽理論は曖昧だが、カノン進行の曲くらいなら不格好で辿々しいが、演奏することもできる。
「曲を作ろう。千尋くん。きみは歌うべきだよ。あたしはそ~思う」
有理栖の半生を千尋は本人から詳しく聞いた。有理栖はシングルマザーの母親に虐待を受けて育った。食事を与えられなかったり、必要な医療を受けさせてもらえないことが常態化していた。育児放棄だ。
有理栖は六才のころテーブルの角に左手の薬指をぶつけて骨折したが、病院に連れて行ってもらえず、屈折したまま成長した。現在も左手の薬指は曲がったままである。 右利きの有理栖は、ギターを弾く際に左手で弦を抑えるが、湾曲した指は致命的なマイナスになる。
その影響もあるのか有理栖のギターは上手ではない。プロの歌手だが、プロのギタリストではなく、演奏能力の評価は低い。
一方でメロディアスでキャッチーなメロディや、ストレートで力強い歌詞のソングライティング能力は高く評価されている。表現力豊かな歌唱力や、ハスキーで唯一無二の声質も人気がある。手足が長く細身のスタイル。小顔に大きな瞳。明るくて元気いっぱいな性格。天然で自由奔放な生き方は、キャラクターとして魅力に溢れる。有理栖の周りには人が自然と集まり、気がつけば彼女の世界に引き込まれていく。
「歌は、あたしにとって武器なんだ。カラフルな世界の中で、埋もれないために戦ってる。音楽はあたしの最終兵器にして、世界最強の武器なんだ」
中学生のころ、有理栖は不登校だった時期がある。育児放棄の影響で心を病み、入院していたのだ。一年間学校に通えなかったが、有理栖はそれをコンプレックスとして溜め込むことはなく、復帰してからもマイペースで自由な高柳有理栖として過ごしていた。自分のしたいことをして、自分の言いたいことを言う。笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣く。常識が周囲と違っていても、有理栖は気にしない。白い目を向けられることもあるが、「それが自分だ」と心の底から思う有理栖は、自信に溢れ、漲る活力で障害を乗りこえていった。そんな自分を世界に認めさせ、表現する手段。
それがギターと音楽だった。
「あたしは前からきみには才能があるって思ってたんだ。うん! 決めた! きみをあたしの弟子にする!」
「え……え~!? 弟子?」
「そうさ! さなりすの高柳有理栖の一番弟子だ! もうプロになるのは決定だ! 会社に人にゆって今度、顔見せに行こー! 顔見せ!」
「え……、いやなにを急にそんな……」
「それまでに一曲くらいは曲を作らないとね! そーだなぁ……、どんな曲でもいーけれど、千尋くんらしい曲がいいなぁ。愛に溢れた千尋くんの歌!」
「か、勝手に話を進めないで――」
「でもきみはしたいでしょ?」
「……え」
「きみは変わりたい。きみは伝えたい。きみは生きたい。届けたい想いがきみの心の中にはたくさんあるんじゃないのかい?」
「……」
千尋は口ごもる。ギターのレッスンはまだこれからだが、既に何時間も経ったような気がする。十七年の短い人生の中で、千尋は人一倍の経験をしてきた。最近は以前に比べて楽しいと思えることが増えた。少しずつ、社会に適応してきたように思う。だが千尋は不安だ。これから先自分は生きていけるのか。どんな大人になるのか。自分は一体何者なのか。心に積もった塵は、少し吹いた風で舞いあがり、視界を埋めてしまう。
「音楽は、きみの想いを鮮やかに染めてくれる。太陽が照らして、世界が色付いていく。カラフルな雪になって、街を染めていく。きみは……、そうしたい。あたしにはわかるんだ。あたしもきみとおなじだから」
社会の暗闇からやってきた歌手、高柳有理栖に千尋は共感をする。太陽のように明るくて、空のようにめまぐるしい有理栖のキャラクターに、心が揺さぶられている。
積もった塵を照らす太陽は、有理栖の歌に乗って、鮮やかな雪に変わる。フラッシュバックや共感覚を通して感じる世界のように、現実との境界線を曖昧にして、美しく染めてくれる気がする。千尋は思う。そして期待する。溢れ出す渇望は、衝動になっていく。
「僕は……、歌ってみたい。あなたみたいに」
「えへへ……、うん。歌える。きみになら」
「伝えたいことが……、たくさんある」
「そうさ。だから人は歌うんだ。自分を証明するために。生きていくために」




