第81話 あたしってきっとうまくいってるよね?
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翌日。
十月二十四日。
千尋は打ち付ける雨の音が気になって目を覚ました。時計を見ると朝六時。毎日の散歩をするにはまだ早いが、二度寝するには音がうるさく感じた。千尋は思う。今日は誰よりも一番に起きて、朝食を用意しようと。
二階の奥の部屋から廊下に出る。二階の部屋は三つ。階段のすぐ隣にある奏の部屋から順番にめぐみ、千尋の部屋と並んでいる。
築三十年を超える古い建物だが、リフォーム済みのフローリングは未だ艶々である。
「あっ、ちーちゃんおはよ~」
千尋が階段を降りるとリビングダイニングでめぐみが元気に挨拶をしてきた。チェックのネルシャツにピンクのエプロンをつけためぐみは、キッチンのガスをせわしくなく止めると、勢いよく千尋に駆け寄ってきた。
「ち~ちゃんっ! ん~ぅっ!」
「お、おい――」
「ちゅ~う~っ! んんっ! ちゅっ! ちゅーう!」
「や……、やめ……」
「おはよーのキスだよ~っ! キスは愛情いっぱいの朝ご飯~!」
「ん……、じゅる……、どんなご飯だ」
「ちゅーう!」
めぐみは長い手足を活かして千尋を抱きしめる。千尋は抵抗するそぶりは見せるが、もはや本気で逃げる気はなかった。低身長で運動音痴な自分がめぐみから逃げられるとは思えないし、実際、過去、逃げ切れた事実は一度もないのだ。
めぐみは千尋を抱きしめて、熱烈なディープキスをする。愛情たっぷりのキスの味は少し甘い。千尋は思う。これは蜂蜜の味。めぐみがよく舐めているのど飴の味だ。めぐみは声が大きいせいか、喉が荒れがちである。
琴音に言わせればそれは薬物乱用の副作用の一つでもあるというが、喉の渇きや痛みを感じる対策として、めぐみは飴を常用している。
「にしし……、めぐみお姉ちゃんの愛情いっぱい感じたぁ~?」
「感じ……た」
「えへへ……、なんかちーちゃん段々素直になってきたね~! 最近のちーちゃんとってもいーこになった!」
「いーこの定義とは……」
「もちろん! いっぱい感じてくれる子だよ~!」
「朝から大声で変なこと言うな」
「変じゃないよ? なにが変なの?」
「いや……、説明するのも面倒だけど……、まだ頭ぼんやりしてるし」
「ぼんやり? あ! あたしのちゅーが気持ちよかったから?」
「かも……、ね」
「えへへ……、やっぱりちーちゃん最近いーこだ。あたし……、今日も頑張れる気がする~!」
「なぜだ、なぜ」
めぐみは両手を空に突き上げて張り切っている。千尋にはその意味がなんとなく理解出来るが、今は口に出したくなかった。
「今日の朝ご飯はね……、めぐみ特製ハニートーストだよ~! 砂糖いっぱい! 愛情もいっぱい!」
「こんな朝早くから……、まだみんな寝てるじゃん」
今日は日曜日。琴音は当分起きてこない。奏は比較的早起きだが、それでも七時過ぎまでは寝ている。朝食の当番は琴音だが、たいていの場合で寝坊をする。琴音は当番をサボるつもりはないし、起きたら料理はするが、大体は起きるまで待てず、誰かが朝ご飯を作ってしまう。しかし千尋は思う。日頃から先生には感謝しており、それくらいの孝行はしなければいけない、と。
「あたしもね……、今日、入間川を綺麗にする会の活動が朝早いから、みんなと食べられないかも~って思って、じゃあついでに作っておこーって思ったの!」
「孝行娘だことで……」
「えへへ……、あたしって結構家庭的だよね~?」
「わりと」
「だよねだよね! きっとね! いーお嫁さんになると思うの! あたし!」
「ああ……、うん。いいお嫁さんになると思うよ」
千尋がそう言うとめぐみは満面の笑みで笑った。めぐみの躁鬱の気質は人様に迷惑をかけることもあるし、歪んでいる常識は社会生活を営んでいく上で障害にもなる。だが千尋は思う。それでも真っ直ぐに生きているめぐみは太陽のように明るいし、その笑顔に何度救われたかわからない。
「えへへ……、あたしってきっとうまくいってるよね?」
「……、ああ、うん」
「ちーちゃんから見て……、どう思う? あたし、よくなってるよね? 頑張ってるよね?」
「あぁ、間違いないよ。めぐみは可愛いし、優しいし、みんなから必要とされてる」
「ちーちゃんもあたしが必要?」
「うん……、めぐみの笑顔は、僕の太陽だよ」
「にしし……、そっか……、ありがと。ちーちゃん。お世辞でも嬉しい」
「今日は……、鬱側か」
「まだ! 鬱じゃないよ。でも……、落ちてきたから、多分そろそろ……、なるかも」
めぐみは躁鬱病だ。躁鬱病は、躁と鬱を繰りかえす。その病状は個人差がある。躁状態と鬱状態が一定の時間で切り替わる人もいれば、なにかをきっかけにスイッチが変わる人もいる。めぐみは天候や人間関係に左右されることが多い。曇りや雨、嵐になると気持ちが落ちこみがち。人間関係がうまくいかない時も波が来る。そして一番の個人的な特徴として、誰かの精神面が落ちこんだ時、自分も一緒に落ちこんでしまうことがある。めぐみは人に対する感受性、共感性が高い。
「落ちこんだら、僕が見守るから大丈夫だよ。めぐみのことはもうよくわかってるから」
「ありがと……、いつも」
「はは……、なんだかんだ本当の姉弟みたいに……、思ってるから」
「あたし、いつもしおらしくしてたほーがいーのかな?」
「……? なんで?」
「ちーちゃんが優しいから」
「無理だろ、めぐみには」
「えへへ……、だよね~っ! あたし……、多分、元気なほーがあたしだからなぁ~。お淑やかにするのは苦手!」
「それでいいと思うよ。めぐみはめぐみで」
躁鬱病になりやすい人の特徴として、真面目で気遣いが得意な子が多い。千尋は琴音に聞いたことがある。元気な子でも、一年中太陽でいるわけにはいかない。夜は陽が落ちて、星と月が空を照らす。どんな太陽にも、休息は必要だ。めぐみは周囲に気を遣って、いつでも明るく振る舞っているうちに、休み方を忘れてしまう。そして、鬱の期間がやってくる。
千尋はめぐみが作っている途中のハニートーストを手に取って言う。
「一緒に作ろっか。僕、目が覚めたし」
「え~? い~の? ちーちゃん」
「うん。今日も太陽が眩しいから」




