第79話 虹色のカーテン
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入院病棟は外来とは別の棟にある。渡り廊下を渡ると、再びの大きなドアで入り口は施錠されている。鍵は厳重に管理され、持ち出しには許可が必要である。
五階建てで、床数は二〇〇。三階は精神、神経内科。床数は五〇で、専門フロアの中で一番多い。
ガチャリ……、琴音がドアを開けると千尋の世界が急激に色づき出す。
蒼や赤、黄色や緑、カラフルな世界が千尋の視界に飛び込んでくる。
思い出に色はない。千尋が共感覚を感じるのは、匂い。身近な人物の匂いが、カラフルな光色になって千尋の世界を彩る。
「あ……、これは」
「……? 大丈夫? 千尋」
「あぁ……、なんかカラフル過ぎて、混乱する」
「……? カラフル?」
「うん。なんか……、眩しい」
「頭おかしくなった?」
「はは……、うん。でも、なんか綺麗」
千尋は匂いに敏感だ。
琴音はそれを過覚醒の影響だという。
トラウマを避けるために脳が過剰に活動している千尋は、感覚器も鋭敏に機能している。
懐かしい匂いが思い出とシンクロし、千尋に鮮やかな幻想を見せる。
一歩くぐった精神病棟。一八歳までの子供たちが暮らす閉塞世界は、殺風景だ。ちょっとした色も刺激になり、心に病を抱えた子供たちの調和を乱す。ポスターも、カレンダーも、文字も数字も、ちょっとしたイラストすら、配置するには職員による個別カンファレンスが必要である。
「おかえり。弟ちゃん、姉ちゃん……」
「はい、お母さん」
「う……、うん。お、お母さん……」
「じゃあ、行きましょうか」
「うん、先生」
「は、はい……、先生」
琴音を先頭にして、千尋たちは病棟を奥へ進む。
居室は完全に個室になっており、六畳ほど広さで五〇部屋ある。個室にはトイレと洗面台がある他、テレビや家具などを、必要に合わせて置くことも出来る。
居室は渡り廊下を中心にして円を描くように配置されており、廊下をぐるっと回って一周すると元いた場所に戻るような設計が施されている。
渡り廊下を通ってすぐにあるのは、事務所である。ナースステーションを兼ねた管理棟。八つのデスクと、パソコン。多数の資料に、各種アラームやセンサーの基板もある。
職員は全員PHSを携帯し、常時連絡を取りあっている。その大元になる受信機があるのもここだ。
事務所は強化ガラスの窓で囲まれており、常に外の様子を見られるようになっている。渡り廊下のすぐ側にあるのは、脱走者がいた場合、発見できるようにするためである。
――プルルルルル、プルルルルル!
と事務所で大きな音が鳴っている。居室や浴室など、病棟中に人を感知するセンサーが配置されている。渡り廊下の前も同じだ。人が近づくと、アラームが鳴る。
「ごめんなさい。ちょっと見学」
琴音はPHSで事務所の職員に連絡をする。するとアラームはすぐに鳴り止む。
事務所を少し進むと、食堂を兼ねたフロアスペースがある。
五〇人が一堂に会すことが出来る広さを誇る開けた場所だ。
四人掛けのテーブルが十三個。椅子は六十個程度ある。各々の状態により、全員がここで食べるわけではないが、生活感はある。
さらに奥に進むと、共同のトイレや浴室、そして相談室や多目的個室などがある。
多目的個室は、何らかの理由により隔離が必要な子供たちが、食事やレクリエーションなどで利用する部屋。
千尋やあおい、恵那が家族を形成し、共に食事をした「家」は、このうちの一つである。
「千尋くん、どう? 思い出してきた? 色々」
「……、よくわかりません」
「あはは……、そのセリフ、昔はよく聞いたわ。それを言う度に、千尋くんは恵那ちゃんに怒られてたっけ」
「そういう意味じゃないです。ほんと……、なんか鮮やかで、不思議な感じで」
「記憶が刺激されてるのね。それが色と結びついてるのかしら」
「そうなんですかね……、なんか美味く説明できないですけど、光が粒になって、宙を舞ってるような感じで……」
「へぇ、そういう感じなのね。中々面白いわ、千尋くんのその能力は。研究のしがいがあるわ」
「そ、そんな実験動物みたいに言わないでくださいよ、先生。僕は、真剣なんですから」
「じゃあ、先生の愛玩動物になる?」
「は?」
「実験動物じゃなくて、愛玩動物。ペット! いいじゃな~い」
「やですよ、そんなの」
「じゃあ、ペットじゃなくて性的玩具……、って、やだやだ。ここ病院だったわ。やめないと、抑えないと」
「……、先生さっき言ってたことと矛盾してますよ」
「ふふふ……、だって千尋くんといると、ついつい……、嬉しさのあまり心が素直になってしまって」
琴音は恥ずかしそうに髪をいじりながら、多目的個室③の前で止まる。木目のドアは横開きになっている。
「ここが……、きみたちが昔一緒にいた部屋」
「……、懐かしいわね。千尋」
「……、ここが?」
鮮やかに色づいた世界は、千尋を不思議に誘っている。入院病棟に入った瞬間から、千尋は平常心ではなかった。千尋の眼下に広がる世界は、嘘のような幻に包まれている。
まるで幻覚。千尋はめぐみの言葉を思い出す。幻覚剤LSDを使用した時にめぐみが見たという、カラフルで幻想的なオーロラ。部屋中、世界中の音や刺激に反応して、オーロラは形を変えて、無数で無限の色を見せてくれたという。
僕は……、頭がおかしい。
千尋は、自分を理解している。幻想的な虹色のカーテンは、千尋を包み込んでいる。色は粒になって、宙を舞い、発光して空から降っている。
まるで星のよう。異世界に連れて行かれるように、千尋は昨日を思い出す。
読者の皆様。
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