第64話 昨日のかけら
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十月十八日。午後十五時。学校を途中で切りあげた千尋とあおいは、西武線に乗って川越へ行った。
月曜日。今日は二週間に一度の、三上琴音の診察日である。
以前の千尋は、一人ではどこにも外出出来なかった。少しでも不安を感じたら、トラウマが溢れだし、パニック発作を起こしていた。
最近は、発作を起こすことは減った。内服やカウンセリングの成果である、と琴音や千尋は思っている。
一方で、変わらず千尋を心配するあおいは、千尋の診察についてきた。
「あのころは姉ちゃん、姉ちゃん言って、甘えてきてかわいかったのになぁ~」
「誰だそれは」
「え~? 千尋でしょ? 覚えてないの? あ~、まだ記憶が完全に戻ってないのね。残念」
「ねつ造するな、ねつ造を」
「してないも~んっだ。千尋は、近づく人みーんな避けてて、誰とも触れ合えない可哀想な子供だったのよ。体に触れたら、昏倒しちゃう……、呪われた子供」
「PTSDだから……」
「でもね、私となら手を繋いでも平気だったんだよ。どうしてかしらね」
「……、さぁ……、覚えてないし」
「本当に?」
「理由はね。わかんないよ。病院にいた時のことは、記憶があやふやだし。気がついたらあおいちゃんと恵那と一緒にいた感じだよ」
「へぇ~。じゃあ、あのことも覚えてないんだ」
「……? あのこと?」
「うん。千尋が私の初めてを奪ったあの日のこと」
「絶対嘘だろ」
「やだ~、千尋って本当最低男ね。女の子の初めてを嘘呼ばわりするなんて~。さいてー」
「だって覚えてないし」
「酷い酷い。覚えてないなんて、余計に最低だ」
「……、じゃあキスするよ」
「……なんで?」
「罰としてキス一回、でしょ」
「千尋。キスすればなんでも解決するって思うなんて、やっぱり最低男だ」
「……、あおいちゃんには勝てないわ」
千尋たちは病院に着く。回転ドアをくぐり、館内に入る。一階の受付で診察券と保険証を提出し、三階へ向かう。エスカレーターに乗って、千尋は上を見上げる。前にはあおい。その上に広がるのは照明の光。真っ白に輝いている世界は、千尋を遠くに連れて行く。光が脳を刺激する。シナプスがエラーを起こし、記憶を呼び覚ます。
「ひろくん! ほら、こうやるんだよ! こう! ――バン! バン! バンッ」
「……恵那ちゃん、エスカレーターをそんなに叩いたら壊れちゃうよ」
「え? だってあおい様! 壊すために叩いてるんだよ! 壊すのってきもちいじゃないですか! それをひろくんに教えてるの!」
「……、僕はわかんない」
「ひろくんだって嫌なことあるでしょ! 壊したいものあるでしょ! 我慢しないで、壊せばいいんだよ! 壊したら、きもちいから! こうやって……バンバン! バンバン!」
昔の記憶。六年以上は前の光景。二年間を過ごした病院には、思い出がつまっている。淡雪のように、至るところに昨日のかけらが浮いている。触れたら、一瞬ににして過去へ連れて帰る。情緒の粒。
相生恵那は我慢しなかった。したいことを、好きなだけやっていた。
殴りたい人は平気で殴った。先生も、看護師も、介護士も、全力で壊した。走りたい時は、夢中で走った。人がいても、館内でも、関係がなかった。
恵那の事情を、千尋は本人から聞いた。琴音や介護士がいない時間。三人でよく集まって、話をした。
恵那は多数の人を殺した殺人鬼。あおいは神と通ずる預言者。二人は山奥の国で育ったが、頭のいい大人を恵那が殺してしまったため、運営が立ちゆかなくなった。――と、千尋は聞いた。
監禁から解放され、激しいPTSD状態だった千尋は、他人に興味がなかった。感情を表にだすことがなく、意思がないようにすら他人には思えた。
相生恵那と川澄あおいは、大神官や神官が亡くなってからも、しばらくを第三楽園で過ごした。
恵那は聖なる社にいた幹部三二名を一人で全員殺害。理由は、「あおい様と会うのを邪魔されたから」である。恵那は、集会で崇められているあおいを尊敬していた。
儀式は、教会の舞台で毎月行われていた。あおいは、巫女装束を纏い、スポットライトを浴びていた。儀式では、あおいと信徒が性行為をしたり、あおいの体を聖剣で刺して、溢れだした血液を舐めさせる等、情緒を揺さぶる行為が行われていた。
恵那は、一信徒として、あおいを美しいと思っていた。純然たる信者。絆の会の神典を読み込んで、神に対する信仰心が心を支配していた。
神と通じているあおいに憧れていた。あおいは、厳正なる管理により、一般人は会えない。しかし、どうしても会いたい。だから、警備員を殺し、邪魔をする大人をみんな殺した。
あおいと恵那は一ヶ月ほど、一緒に暮らした。恵那はその間にも、多数の人間を殺害。統率者を失った楽園は、統制がとれなくなり、脱走者が続出。
やがて警察の立ち入り捜査が入り、その実体が明るみに出た。