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第59話 分かってくれない

59


 八時半。

 食後は三上琴音の目の前で、内服をする。なんの薬を飲んでいるか、千尋は知らなかった。

 その後、琴音は場を去る。千尋たちは介護士と共に、共有の洗面台にて口腔ケアをする。歯磨きは大事だ。

 人間は社会動物である。他人と関わる上で、不快感を与えない見た目を維持しようとする気持ちは、重要だ。気持ちがなくなってしまえば、見た目を気にしなくなる。

 そうなると、日に日に、精神面にも支障をきたす。


 九時。三人は個室に戻り、自由時間となる。あおいや恵那がなにをしていたのかは、詳しく知らない。千尋は、ベッドに横になり、ぼんやりとしていた。

 

 一〇時。介護士が部屋にやってくる。これから、「家」へ行き、体操をする。入院している子供は自分たち以外にもいる。一〇人。二〇人。彼らは六〇〇平米ほどのフロアスペースで、共に食事をとり、体操をする。中でも特に、外的刺激に影響を受けやすい三人。千尋、あおい、恵那は、隔離されていた。


 十一時。家での体操が終わると、次は散歩の時間である。十二時までの一時間、許可された院内を歩くことが出来る。

 精神科の入院病棟と、外来の三階。渡り廊下を通り、行き来することができる。

 外来の一階にある売店に、お買い物に行くのも、この時間。

 琴音や介護士に依頼されたお菓子や飲み物などを買いに行く、「おつかい」だった。購入した飲食品は、その日のおやつの時間に、使用される。千尋たち以外の入院患者の分も含まれている。とても大切なお仕事だった。


 入院病棟内で他人とすれ違う。患者は多数いる。千尋の日常は自分の部屋と、家の往復だが、二つの部屋には距離

がある。歩いて二,三分。廊下で、他の子供を見かける。

 大声を出して暴れている子供。床に寝転んで唾液を出している子供。車イスに拘束ベルトでくくりつけられた子供……。

 会話することは禁止ではなかった。だが、千尋は誰とも話さない。

 人と話すのが恐かった。誰とも関わることは出来ない。千尋は、父親と母親に殺されかけた。人間は悪。本能が、関わりを拒否していた。


 十二時前。渡り廊下を通り、外来から帰ってくる。あおいは淡々としている。恵那は元気で、千尋はぼんやりとしていた。


 昼食後、一時までに食後のケアを終える。

 一時からは昼寝の時間だ。子供の成育に睡眠は重要である。成長ホルモンが最も分泌されるのは寝ているときだ。三時まで、二時間。個室に戻り昼寝をする。


 三時前になると、介護士が起こしに来る。千尋たちは離床し、家に行く。

 三時から五時はレクリエーションの時間。ボードゲームやカードゲーム、体を使った鬼ごっこやかくれんぼ。病院の運動スペースへ移動し、バスケットボールやバレーをしたり、リハビリ用のプールで遊ぶこともある。

 ある日――。運動用のフロアスペースにて。


「え? 殺人ごっこだよ! ひろくん知らないの? 常識でしょ!あおい様と神様に捧げる抑圧の解放ゲーム」

「……恵那ちゃん。今は、弟ちゃんと姉ちゃんと呼ばないと……」

「あ、ごめんなさい。あおい様。でも……、弟ちゃんが変なこと言うから」

「……? 僕、おかしいの?」

「おかしいよ! 抑圧は解放しないと心が壊れて、世界に洗脳されちゃうんだよ、弟ちゃん」

「壊れて……」

「うん! 神様はね、心を解放すると、恵那たちに幸福を与えてくれるの。イケナイコト、なんてないんだよ。やりたいことをやる。それが幸せなの」

「……僕はわかんない」


――パシンッ。


「……ッ」

「ちょっと妹ちゃん……、暴力は禁止されているわ」

「関係ないもん。やりたいことをすると神様は喜んでくれるんだもん。我慢はいけないことだもん。ひろくんを、殴りたくなったから、殴ったの。私はいいことをしたんだもん」

「……」

「ほら! ひろくんは、な~んも分かってなさそうな顔をしてる。もっともっと殴って、痛みで、自分を我慢するのも忘れるくらいにしないと、分かってくれない」


――パシン、パシン……。


 運動スペース子供百人は入れる広さ。床はフローリング。バスケットのゴールもある。小規模な体育館のような、そんな場所。

 相生恵那――妹ちゃんは、千尋を何度も平手打ちした。あおい――姉ちゃんは、やめるよう言うが、無表情。千尋は、されるがまま、抵抗をしない。悲鳴はあげない。涙もない。

 叩く度、頬が赤くなる。叩く度、恵那の表情は嬉々とする。白い歯が照明で輝く。口角があがり、にんまりと笑う。何度も何度も、叩く。あおいは、段々と静止をしなくなる。千尋は、自分から頬を差しだし始める。

 恵那は、絶頂するような声をあげて、千尋を勢いよく叩く。次第に頬以外も叩く。お腹や足、お尻、背中、叩くことが楽しい。嬉しい。幸せで仕方がないという風に、恍惚の顔をする。口の締まりが悪くなり、涎が溢れてくる。

 興奮すると、平手は握りこぶしに変わる。何度も殴る。殴って、殴って、千尋を壊そうとする。口はもう閉じない。快楽に酔いしれるのだ。

 

 恵那が信仰する神は、「自由」という概念上の存在。抑圧された自分を解放し、やりたいことをすると、ご褒美として快楽を与えてくれる。

 神様に褒められるのが嬉しかった。我慢は悪いこと。社会のルールは、人間を統制するために支配者が作った拘束具。

 人間には無限の可能性があるのに、自分たちで世界の未来を奪ってしまっている。

「絆の会」の最高神官「周防誠舟」は、教典を作り、集会で説法を説いた。

 恵那は、生まれた時から絆の会に所属していた。母も父も会員。一家で信者だった。

 型にはめられた既存の社会常識は全て、会では通用しない。

 絆の会は、埼玉県飯能市と秩父市に跨がる武甲山の山中に、五百ヘクタールを超える土地を所有していた。

「第三楽園」と名付けられたそこには、住宅が立ち並び、体育館、映画館、飲食店等、娯楽施設も揃う絆の会の王国だった。

 楽園は全国に八箇所あった。恵那が育った第三楽園は、自給自足を目指す楽園。広大な土地には、畑も川もあり、王国内で使用できる通貨もあった。

 楽園に法律はなかった。規則もほとんどない。 


 街を歩けば、性行為をする男女がそこら中にいた。

 人間がうずくまる風景は、空の雲と同じだった。人が人を蹴り上げる音。殴る音。真っ赤な血液を流して、嗚咽を漏らすのは、鳥のさえずりと同じだった。


 恵那はそんなところで育った。

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