第48話 声
48
駐車場から三回、道を曲がった。千尋には光が見えている。色は水色。薄いベールのように宙に浮かんでいる。
千尋の精神状態は普通ではなかった。あおいの言うとおりだ。
胸の奥にどろどろとした違和感が渦巻いている。
無心になっていた。光の意味や、不思議を、考える余裕もない。
交差点を曲がった先、歩道に駐められたハイエース。光が一際、眩しかった。石鹸の匂いがする。
「こら! 暴れるな。この女……」
「奏……?」
車の前。若い男性と小さな少女。男性は少女の体を押さえている。車に連れ込もうとしているように見えるが、少女は手足を動かして抵抗している。顔はよく見えない。だけど、感じた。淡い石鹸の匂い。奏の香りだった。
「奏……!」
と声をあげる。少女は振り向く。千尋はかけ足で近づいた。奏。日高奏は、険しい顔で千尋を見つめている。声は出ない。だけど、伝わる。「たすけて」その意図を千尋は理解した。
「ちょ、ちょっと……、なんだ! お前は!」
「あ……、なにしてるんですか。あの……」
「これから出かけるんだよ! なんだお前は」
「いや……、あの……、その……、えっと」
「通報するぞ! どっか行け! この野郎。この子は俺の娘だよ」
「あ……、え? いや……」
男性は三十歳前後くらいだった。低い声で千尋を威圧する。千尋は恐怖でパニックになった。トラウマが最も発動する状況である。
男の言う言葉は嘘ばかりだ。それを嘘と証明出来る証拠は、千尋。自分自身である。なにをしようとしているのか。訊かなくても分かる。誘拐。連れ去り。奏の親は事件で死んだ。親はいない。
その全てをまくし立てたい。だけど、頭が真っ白になり、言葉に詰まる。なにも言えない。
「あ……、いや、そんなわけは……、ない、わけで」
「ん……! ん……! バタバタ……」
「こら、大人しくしろ! このッ! ――パシンッ」
奏は手足を動かして暴れる。男性は奏の頬を叩いた。暴力。強者から弱者への攻撃。逃げられない圧力。絶対的な絶望。
千尋は息が詰まった。呼吸が出来ない。酸素がなくて、意識が急激に遠のいた。
真っ白。世界が歪んでいった。
「千尋!」
「あ……、お、お父さん……」
一瞬にして、千尋は昨日にいた。遙か遠い昔。記憶も曖昧。一度は忘れた過去。
フラッシュバック。千尋は、白昼夢に囚われる。世界が終わるような感覚。
父親の暴力による支配。千尋はあのころ死んでいた。二度と戻りたくない日々。
だけど抗えない。千尋は、従順な人形に戻ってしまいそうだった。
「……けて」
しかし、そんな時声がした。あの日にはいなかったはずの声。聞いたことがない声だった。
「……ちひろ。……けて」
「……? 奏?」
「こ、こいつ! 喋れないんじゃなかったのか!」
「おね……、がい……、ちひろ」
真っ白な世界。父と、自分。そして声。状況は分からない。夢の中にいるよう。
千尋はパニックだった。感情の波。抑えられない。
今にも倒れそう。だけど、倒れてもいけない。助けたい。助けて欲しい。逃げたい。逃げられない。
矛盾する気持ちの果てに、千尋は壊れる。
「あ……、うぁあああ! あ……、うう……、ああ」
千尋は目の前の男に襲いかかった。人を殴ったことはない。喧嘩したこともない。だけど、殴った。小さな体で、男に飛びかかった。
「な、なんだお前は……、この、この野郎!」
「う、うわ……、うわああ!」
反撃され、千尋は倒れる。だけど、立ち上がり再び飛びかかった。男は、千尋の勢いを受けきれず、転倒する。その際に、頭を打った。意識朦朧とする。そんな相手を、千尋は、何度も殴った。馬乗りになり、何度も殴った。
骨がぶつかる音。千尋は言葉もなく、ただ殴り続けた。
それは過去との戦いだった。自分の過去。逃げられない過去。
虐待されていたあのころは、耐えるしかなかった。
小さな子供は、大人には勝てない。暴力による服従。
奏と、男の光景が、重なった。
擦れ合う音。骨の音。男の顔は、傷だらけ。血が溢れるが、千尋は止まらない。
「……ちひろ」
「……!」
「……もう……、いい」
ぎゅ、っと、体に熱いものを感じた。千尋は我に返る。奏が涙を流しながら千尋を抱きしめていた。
「……ちひろ……、も、もう……、いい」
「……奏……」
水色の光が一際強く感じた。
「あ……、うう……」
千尋を光が包む。そして、意識を失った。




