第41話 僕はおっぱいの方が……
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浴室は自分の家のものより広い。大人二人が余裕で入れる大きさだ。
脱衣所。千尋は抵抗する気力を失っている。反抗すれば胸を押しつけられ、窒息する。自発的に衣服を脱いだ。深紅は「脱がせっこしよー」と、迫ってくるが、それは避けたかった。自分で洋服を脱ぎ、すぐにタオルを羽織った。
どいつもこいつも、どうして僕を風呂に入れたがるんだ、と千尋は心で思う。めぐみといい、深紅といい、僕は女性をお風呂に入らせたくなる能力でも使えるのだろうか。と千尋は不思議に思う。
裸は嫌いだ。普段は衣服で隠している傷跡があらわになるからである。二の腕。お腹、背中。太もも……、切り傷や煙草の火傷痕が、無数にある。虐待を受けていたのは七年以上前だ。傷は、大分消えたが、それでも目立つ傷はある。
手首や膝から下の傷は、ほとんど目立たない。元から、父緒は目立ちづらい場所を狙っていた。今でも半袖のTシャツはあまり着たくない。公衆浴場も行けない。だがそれは、男性が多い密室空間だからである。
千尋はバスタオルを羽織って浴室に入った。隠したいのは恥部ではなく、お腹や背中である。
「千尋くんは恥ずかしがり屋だね~。いいのに。タオルなんかつけなくて」
「い、いや……、普通ですよ」
「まぁ……、男の子は素直じゃないからなぁ。あっちは素直だけど」
深紅はタオルをつけない。全裸。艶めかしい肉体に興奮しない男はいない。千尋もドキドキする。性欲はある。と本人は言い聞かせているが、男性機能は未成熟。浴室のイスに座った千尋に、深紅は「背中を流す」とシャワーをかける。湯煙で、深紅の体が消えていく。が、温かい。シャワーの湯温は適温。が、このあたたかさは人の生命力。人肌や呼吸の熱だ。
「じゃあ、頭から洗うね?」
「う……、うん」
「ふふふ、石鹸ついちゃうから、タオル、脱ごっか」
「い、いや……、でも」
「大丈夫だよ。男の子なんだから、元気になっちゃうのは仕方ないよ? あたし大丈夫だから」
「いや……、あの」
「大丈夫大丈夫!」
――ガバァッ
「う……、ぷるぷる……、うぅぅ」
「じゃ、シャンプーからするね」
「大丈夫! 大丈夫! そんなに震えなくてもへーきだよ」
「あ……うぅぅ」
「くしゃくしゃ……、千尋くんは髪も子供みたいだね。ほんとに十六歳なの?」
「そ、そうです……、うぅ……よ」
「ふふふ、大丈夫。お姉さん慣れてるから、髪洗うの。元気になっちゃっても、扱い慣れてるし」
「うぅぅ……、ぷるぷる……、うぅ」
「もしかして千尋くんって童貞?」
「うぅ……」
「最初は緊張しちゃうんだよね。わかるよ。そういう子、前も居たし」
前って誰? 何回もこういうことしてるの? 緊張してるわけじゃない。傷を見られるのが嫌なだけ。早くタオルで隠して。恐い。嫌だ。
と思うが、口には出せない。傷跡は過去の象徴。トラウマの根幹。絶対に人に見られたくはない。傷を見たことがあるのは、琴音ハウスのみんなと、あおいだけ。他には見せたことがない。信頼しているあおいたち相手でも、体が震えるのだ。湯煙で体が見えにくいことだけが救い。
「かゆいとこなーい? 大丈夫~?」
「う、うん……、ぷるぷる……」
「じゃ、流すね~、……ざぶざぶ」
「あ、うぅぅ……」
頭からお湯をかけられる。手触りはとてもいい。洗い慣れている
? なんで? と疑問だが、訊けない。マッサージされているかのように、頭部は気持ちがいい。しかし、それどころではない。
「じゃ、次は、体。洗うね」
「うぅぅ……、うぅうぅ」
「石鹸つけて……、アワアワだぁ~」
「い、いいです!」
「……? ん? なにが?」
「か、体はい、いいいです。僕……、あの、潔癖症で!」
「潔癖症?」
「は、はい! ひ、人に触れられるのが苦手で、あの……、体はいいです」
「でも、さっきまでおっぱい触ってたのに?」
「お、おっぱいはいいんです。あの……、大きなおっぱいは好きなので!」
「ふふふ、男の子はおっぱい大好きだもんね~」
「そ、そうなんです! はは……、だから、あの、交代します」
「交代?」
「はい。あの……、僕が深紅さんの体、あ、洗いますよ~」
千尋は咄嗟に嘘をついた。虐待のことは言えない。傷を見られたくない。触られたくないとは、言えない。過去のトラウマ。あまり口に出したくない。人にも言いたくない。知られたくない。
「気にせず、堂々としてればいいのに。それが自分なんだから」
と、あおいは言う。過去を隠さない。受けいれて前に進む。それが未来志向だと、自信満々。実際、あおいは過去をコンプレックスに感じている様子はない。そんなあおいの強さは憧れ。千尋はあおいを尊敬している。が、すぐにそうなれるわけではない。
今は自分なりに、工夫する。
「そ、そう? じゃあ……、お願いしちゃおっかな~」
「は、はい!」
「千尋くんもおっぱい早く触りたいもんね~」
「う、うん! そう! 僕おっぱい好きだから」
千尋はタオルで体を隠す。少しホッとする。深紅は傷の件に触れない。見えていないわけがない。湯煙の中とはいえ、密着している。肌は見える。深紅の白くてもちもちした体もよく見える。首の後ろ、ほくろが一つある。束ねた髪の色。茶色の髪、一本一本まで分かる。
気を遣ったのか。興味がないだけか。千尋には深紅の真意は不明だった。
「じゃあ、よ・ろ・し・く」
「う、うん……ぷるぷる……」
深紅は椅子に座る。千尋は背後に回る。自分より大きな背中。後ろから見ても、胸の膨らみがよく分かる。これから体を洗う。自分から言ったこととはいえ、どうしたらいいのか分からない。
潔癖ではない。人の体に触れるのは、発作の要因にはならない。めぐみや琴音と風呂に入ったこともある。嫌々、体を洗ったこともある。
しかし、いざとなると、緊張する。頭が真っ白。呼吸が荒い。ドキドキする。これはPTSDと似ている。しかし、違う。
「髪はぁ……、後でいいから、まず体から洗って」
「え……?」
「だっておっぱい触りたいでしょ? いいよ。あたし髪長いし」
「う、うん……、そ、そうですか、じゃ、じゃあ……」
手に石鹸をつけて、泡立てる。が、まるで泡立たない。
「あー、そっちの泡立てネット使って……、それかぁ……、毛で泡立てて?」
「……!? 毛?」
「うん。あたし全身脱毛してて毛ないけど、千尋くんも、綺麗だよね?」
「あ、あぁ……」
「脱毛してるの?」
「い、いや……、僕は、は、生えてない……、だけです」
「すごぉーい! ほんとに子供みたいだね」
「ご、ごめんなさい……」
「なんで謝るの? 褒めてるんだよ? かわいいって」
「でも……、毛がないから泡立てられないし……」
「え? あたしの毛使ってよ」
「でも脱毛してるんじゃ……」
「あ、そうだけど、ここだけは脱毛してないから……」
「こ……、ここって?」
「ここ!」
「……ッ」
深紅が指さしたのは股の間。大きく開く。千尋はとても直視できない。深紅は恥ずかしげもない。ニコニコと笑っている。なんてことない様子だ。
「い、いやそこはちょ、ちょっと……」
「なんで? いいよ? どっちみち後で、触るんだし……」
「さ、触らないですし……、あの、僕はおっぱいの方が……、い、いいので」
「そ? ま、いいけど~。じゃあネットで泡立てて」
「は、はい……」
千尋は近くにあったネットで泡を立てる。鼻の奥まで香る匂い。ボディソープの箱を見ると、「ハニーリッチソープ」と書いてある。蜂蜜の匂い。めぐみが使っている石鹸と同じ匂いだ。
「じゃ、洗って? 優しくね」
「う……、うん……」
千尋は意をけして体に触る。興奮はしないが、ドキドキとする。千尋は男だ。女性が好き。女性の裸に、関心はある。男性機能が未成熟のため、性的な興奮はないが、恥ずかしいことに変わりはない。ましてや、人との関わりが苦手な少年には、女性の裸体を洗うのは、難易度が高い。
「じゃ、じゃあ……、い、行きます」
「うん。優しくね」
「い、行きます……、」
「うん」
「いき……、うぅぅ……」
「……?」
「ぷるぷる……、うぅぅ……、う」
「どしたの?」
「あ、あの……、僕」
「いいから、洗って!」
「あ……」
深紅は千尋の手をとって、胸に導く。大きくて柔らかい胸。今日、短い間に何回も触った巨乳。しかし、直接触れるのは初めて。千尋の手に、溢れんばかりの母性が伝わる。温かい。そしてもちもち。手が沈み込み、離れない。無意識のうちに、握ってしまう。揉む。何回も揉む。
「あん……、そっ、そうやって……、優しく、ゆっくり……」
「あ……うぅぅ、あ、あの……僕」
「千尋くんってさ、特別な子?」
「……と、特別?」
「うん。だってさぁ、その見た目、普通じゃないじゃん? で……、なんか急に震えたり、口ごもったり……、変だよね?」
「そ、それは……もみもみ」
「でもね、お風呂に入ったら、それでも元気になるって思ったの。千尋くんだって普通の男の子だって思えるって……、でも……、その傷、どしたの?」
「あ……うぅぅ……、ぷるぷる、ガクガク……」
「あたしの体見て、元気にならない男の子なんて初めてだよ?」
「ガクガク……、ガクガク……」
「あたし、ちょっとショックだった。十六歳? 同い年の男の子にね、そんな反応されるなんて。予想してなかった」
「あ……、あぁ」
「でも、よかった」
「……?」
「余計に、好きになった」
「……え?」
「千尋くんは、あたしの運命の人だ」




