第3話 はい。連れてって王子様
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十六時三十分。千尋は西武池袋線に乗り、狭山市駅で下車した。あおいも一緒だ。あおいの家は中野にあるが、今日はまだ帰らない。琴音の家に遊びに来たのである。
狭山市駅西口から十五分ほど歩いた。駅から続く下り坂。カラフルな商店街。最近、再開発されタイル字の路面は綺麗である。
丘の下から生ぬるい風が通り抜けていく。少年と少女の頬をなでる。
坂を下ると入間川。荒川に繋がる一級河川である。水面から上昇気流が発生して、駅前は風に吹かれる。
広瀬橋を渡り、自宅が近づく。あおいは「わぁー高いね~、ここから飛び降りたら死んじゃうね~」と、橋の上でおどける。無表情だが冗談を言ったつもりである。千尋は無視する。
「ちょっと~、無反応? 千尋冷たいよ」
「いや、なんて言えばいいか分からなくて」
「んもー、女心が分かってな~い。千尋は相変わらず子供だね」
「悪いか、子供で」
「うん。見た目も心も子供。そりゃ先生に好かれるわけだ」
「うるさい。気にしてるんだから、やめてよ。もう」
「え~? 気にしてるの?」
「そうだよ。もう十六歳なのに、小学生に間違われるっておかしいだろ。僕だって男なんだからな」
「ふふ、男らしくなりたいなんて……、千尋かわいい」
「うるさい」
「あら? そんな口の利き方、あおいお姉さんにしていいのかな?」
「う、うるさいなぁ……」
「はい。罰としてキス一回」
「また、それか」
「え~? だってキス楽しいでしょ。千尋だって好きでしょ?」
「好きとか……、なんとも言えないけど」
「千尋は恥ずかしがりだね。ほんとかわいい」
あおいと千尋は九歳のころ、病院で出会った。二人は、虐待を受け心を壊していた。あおいは解離性障害で感情を失っていた。千尋は、PTSDの回避行動で、記憶を失っていた。会話することは出来ない。一定時間、人間と一緒に居ると、痙攣が起きて昏倒していた。
三上琴音主導で、あおいたちは他の子供と一緒に認知行動療法を行った。箱庭療法の応用。彼女たちは、家族という設定を創られ、それぞれ役割を与えられた。母は琴音。あおいは姉。千尋は弟である。感情を失っていたあおいは、疑似家族生活に熱心に取り組んだ。弟。千尋の世話にも熱心だった。
しかし、千尋は全てを忘れた。
最近、思いだしたが、誰にも言っていない。
「あおいお姉ちゃんは、千尋が好きよ。大好き」
「……っ、は、恥ずかしいだろ。やめろよ」
「かわいい弟だもん。ね? 千尋」
「もう……、病院からは抜けだしただろ、お互い」
「……?」
「あ……」
千尋は記憶を思いだしたことを誰にも言っていない。言ったら、今ある、日常が壊れてしまう気がして。
あおいは無表情のまま、目を見開いている。元から大きいだけか、それとも感情表現か、千尋には見分けがつかない。
「病院ってどういうこと?」
「……、今日は病院に行く日じゃないだろ、ってことだよ。認知行動療法とか、そういうのやる場面じゃないだろって意味」
「ふぅーん」
あおいは、含みのある言い方をする。声は綺麗。透明感があり澄みきっている。声優になれそうな声だが、感情表現が出来ないのがネックだ、と千尋は思っている。
「ほら、先生が待ってるから行くぞ」
「はぁーい」
――ぎゅ。
あおいは千尋の手をぎゅっとする。小さな手。しかし温かい。人間の体温は心に響く。千尋はどきんとする。もう慣れた体験。あおいと手を繋ぐのは日常。だけど恥ずかしい。くすぐったい。男らしくなるのはまだまだ先だ、と千尋は自嘲する。
「はい。連れてって王子様」
「居候先へ連れて行く王子様がいるかよ」
「いいんだよ。王子様が連れて行ってくれるところならどこでも嬉しいの。それが女心だよ」
「難しい、女の子って」
「大丈夫。わたしがちゃんと教えてあげるから。ね? 千尋はかわいいんだから。もっと自分に自信持って」
「持てないよ。僕なんかじゃ」
「でも、モテモテでしょ。先生にもめぐみちゃんにも、みんなにモテモテ」
「先生は変態だし、めぐみは頭おかしいし、モテモテとは違うよ」
「わたしも頭おかしいよ。メンヘラだよ?」
「ま……、僕もおかしいけど……」
「そうだね。わたしたちメンヘラカップル。お似合いだ」
「まぁ……、あおいちゃんには感謝でいっぱいだよ。ありがとう。本当にいつも」
「嬉しい。でも、そこはそのセリフじゃないよ」
「……?」
「あおいちゃんがいないと生きていけない。愛してる。蒼衣ちゃんが飛び降りるなら、僕も一緒に飛び降りる。だよ」
「いや……、何か違う気がするけど」
「いいえ。正解です。あおいちゃんが死ぬくらいなら、僕も一緒に死ぬ。一人では死なせない、って、これからは言うんだよ? 分かった?」
「……はい」