第21話 いや、でも、先生はただの子供おばさん……
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三階の奥。大きな窓から自然光がさしこんでいる。陽当たりがいい。眩しくて目がくらむ。「優木さん。優木千尋さ~ん。診察室へお入りください」アナウンスが聞こえた。一六時ちょうど。千尋は目を擦って病室へ入る。
「ん~、ねえ千尋くん。今日の晩ご飯はラーメンかお寿司か、どっちにする?」
「先生。なんですか? 入っていきなり……」
「ねえねえ、どっちにする?」
「いや……、そんなこと言われても」
「あ、じゃあ先生かな?」
「はぁ?」
「ラーメンよりお寿司より、わ・た・し、が食べたい?」
「あ、失礼します」
「ちょ、ちょっと待ってよぉ~」
「ふざけるなら帰りますから。僕は」
「待って待って! ちょっとふざけただけでしょ。怒らないでよ~、もぉ~」
「ったく……、先生は……、いい加減なんだから」
病室は一〇畳の広さ。琴音はブラウスの上に白衣を羽織っている。リクライニングの椅子に座る。パソコンデスク。モニターが二台。キーボード。診察カルテと難しそうな書類。
後ろには窓。西日にはまだ早い。軽やかなイージーリスニングはアコースティックの音がする。
対面の千尋は丸椅子に座る。が、調子のいい琴音にイラついて立ち去ろうとする。
「先生は仕事中でもそんな調子なんですか? だめじゃないですか」
「ごめんなさい」
「もう、大人なんですから、しっかりしないと」
「琴音は子供だも~ん!」
「かわいい仕草をしてもだめです」
「体は大人だけど……、心は子供なんだもん! 女の子だもん!」
「だからショタコンなんですね」
「うんうん! 千尋くんだって、同じでしょ?」
「はぁ? 同じ?」
「うんうん! 千尋くんは高校生だけれど、見た目は小学生じゃない? それと同じ!」
「いや、違う気がしますけど」
「同じよ! 人間はね、必ずしも見た目と心が一致するとは限らないのよ」
「まぁ……、そうかもしれませんが」
「トランスジェンダーなんてまさしくそうでしょう?」
「いや、でも、先生はただの子供おばさん……」
「おばさんじゃないもん! 琴音はかわいいお姉さん!」
「はいはい……」
「でもね、千尋くん。真面目な話しね、自分が思う、自分の認識。それが現実と逸れていると、様々な問題が起きるのよ」
「じゃあ先生はもうだめですね……」
「だめじゃないわ。だって先生はかわいいもん! 自分でも現実でも、ちゃんとかわいいから大丈夫!」
「もうだめだ……」
「現実の自分と、イメージの不一致。それはパーソナリティ障害の原因になるのよ」
「パーソナリティ障害……」
「うん。自分のことをね、特別だと思い込んでいる人が、現実ではただの人だったりすると……、認められない、認めてくれない社会が悪い! おかしい! と、暴力的なストレスを溜め込んでいく。大きな事件の原因にもなったりするのよ」
「僕は……、どうなんですか? パーソナリティ障害なんですか?」
「そうね。著しい自尊心の欠如。自己評価の低さ。親密な人間関係構築への拒否。回避性パーソナリティ障害……、かしら」
「そうなんですね……、障害」
「まぁ、ゆっても世界の一〇%はなんらかのパーソナリティ障害があるって言われているしねぇ~、生活に問題がない人がほとんどなんだけれど」
「僕は……、どっちなんですか?」
「さぁ? 千尋くんはどう思うの?」
「……、わかんないです」
「素直でよろしい」
「はぁ……」
「まっ……、千尋くんの場合はパーソナリティ障害よりも、PTSDの方が問題よね」
「はい……」
「ゆっても育った環境による対人関係ストレスの反応パターンの異常性、それは修正していかないとこれから大変だとは思うけれど」
「異常性?」
「うん! 異常性」
「……どういうことですか?」
「千尋くんは~、簡単に言うと、人間関係の構築が下手! ストレスの対処法も下手! だけど、治さない! これはパーソナリティ障害の典型」
「下手、なんですか?」
「うん! 普通の人はね、上手くいかなかったら治すのよ。例えば、悩みがあって、人に相談しなくて失敗したら、次からは相談するようにしてみる。そうやって、反応パターンを修正していくのよ」
「僕は……、だめなんですか?」
「そうね。だって、先生やあおいやめぐみ……、千尋くんのことを助けてあげようとする人が周りにいるのに、きみは頑なに拒絶するじゃない」
「……そうですか?」
「うん! 先生の愛を受けいれれば、それでいいのに! 拒絶してばっかり。本当は愛情が欲しいくせに!」
「……、ち、違いますよ!」
「うーんまぁ、きみの人生のことは知ってるからね。中々、素直になれないのは仕方がないのよ」
「すいません……」
「親に愛されなかった子供は、愛を受けいれることが苦手になるの。慢性的な孤独感。喪失感。自己評価が低いから、愛情を拒否してしまうのね。千尋くんは典型」
「……ごめんなさい」
「謝るところじゃないから。謝らないで」
「すいません」
「そうやってすぐ自分を責める。自分が悪いって思う。それも典型。虐待された子供の」
「……、すいません」
千尋は、記憶を思いだしたことを琴音に話していない。監禁され、殺されかけた。テレビで報道された有名な「東村山児童監禁殺人未遂事件」の被害者であることは、忘れているフリ。
琴音が言う「きみの人生」の意味を、千尋は知っている。千尋の過去のことを、琴音はよく覚えている。事件の被害者、千尋の主治医は琴音だ。忘れるはずもない。
が、そのことを千尋は言えない。埼玉で育った。父に虐待されたが離婚し家を出た。母とは仲がよくて、その後は普通に育った。けれど、中学二年生で精神に不調をきたした。母の紹介で琴音と出会い、やがて一緒に暮らすようになった。
それが、表向きの人生だ。みんな忘れていた。記憶を思いだしたことを、言ったらどういう反応をするだろうか。千尋は思う。
黙っていたことを怒られるだろうか。
昔話をさせられるだろうか。
治療方法は変わるだろうか。
なにも変わらないだろうか。
きっと、どれも変わらないと思う。日常は続いていく。けれど、言えないのは恐いからだ。一歩を踏み出す勇気。言えば今の自分でなくなる気がする。忘れていた自分を認めることは、今を捨てることと同じではない。認める勇気。受けいれて進む。それが、未来志向。
しかし、できない。
その理由を教えてほしかった。




