第120話 憧れ
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「えへへ……、ひろくんかわぁいい~。よしよし――、今日からひろくんも恵那の国民だね。ううん。ひろくんだったらぁ、恵那の夫にしてぁげてもいいよ」
「う……、うぅ……」
「でもあおい様がいるからぁ、そういうわけにもいかないなぁ。うーん、あおい様にも来て欲しいんだけど」
「あおいちゃん……」
恵那はステージを見渡して愛らしくあおいを探す。
三千席以上が既に立ちあがり、一心不乱にオベーションを続ける。着席するのは非国民か、部外者。あおいを探すのはそう難しいことではない。
「ここにいるのはね、みーんな恵那の国民。すごいでしょ? みんなね、恵那の言うことを聞いてくれるの。だって当然だよね? 恵那といたら、好きなことなんでもできるんだもん。恵那だってうれしいもん。したいことをなんでもさせてくれる。許してくれる場所が一番幸せだもんね」
「う、うぅ……」
「ひろくんはわがままだからぁ、恵那が矯正するの。もっと素直に、ありのままをむきむきするの。それとも……ここでする? いいよ。恵那は。今日ここで、ひろくんの心の皮を剥いであげよっか? ぐへへへ……、じゅる……、あぁ、想像したら興奮してきちゃったぁ……」
「うぅ……! あ……、うぅ……」
震える千尋は声にならない声をあげる。
琴音の家に住んで約二年。以前よりも安定し、強くなった千尋だが、外傷は治っていない。過負荷がかかれば破綻する。目映すぎるライト。四千人の目。歓声と拍手が混ざる轟音。目の前で起きた惨劇。恵那の狂気。今の千尋には処理ができない。恵那の思うがままに心をコントロールされている。
「にしし~、今日はひろくんを国民として迎え入れるパーティー。全部、恵那の計画どぉーり~! 恵那ってやっぱり天才?」
「計画……、どおり」
「まぁ、ひろくんを国民にする方法は色々あったんだけど……、ほら、誘拐して監禁調教するっていう手もあったしぃ……、でも、ひろくん最近、無理してるみたいだったから、優しくしてあげたらきっと恵那の言うこときいてくれるって思ってたんだ~」
「全部……、ずっと前から……」
「うんうん。未来ちゃんにね、調べてもらってたの。未来ちゃんだけじゃないよ。色んな人にね、ひろくんたちの毎日を観察してもらってた。だってほら! ひろくんやあおい様が大けがしたり、変なことになったら困っちゃうもん! そうならないようにね、恵那はずっと見守ってたんだよ」
「ずっと……」
「まぁ、いいじゃんか~! これでね、晴れてひろくんも恵那の本当の家族、夫婦だ」
「うぅ……」
処理が追いつかない脳。だけど言葉だけは脳に染みこんでいく。相生恵那は王国という名の怪しい組織のリーダー各。聖愛学園にもその構成員――国民、がいて、新聞部の山吹未来もその一人――、ミスコンテストの観客の大多数は国民によって締められている。随分前から千尋たちの日常は監視されてきた。恵那が千尋に詳しいのは見守ってきたから。怒濤のように流れ込む情報に、千尋は溺れそうになる。
「あ、でもミスコンの投票は操作してないよ? 会場にいなくてもアプリで投票できるしぃ……、優勝は実力! えへへ……、ひろくんが賭けに負けたのも実力!」
「うぅ……」
「じゃあ、お祝いに、ひろくんのこと殴るね?」
「……!?」
「――えいっ」
「うぅ……!」
流れるように腹部へ拳を振るう。異常な行動に理由をつけるなら、
「したいから」
ただそれだけ。
短絡的で情動的な恵那は、少女のように笑いながら、何度もパンチをする。血だらけの拳が千尋へ侵入する。
――楽しい楽しいたのしい楽しい――。
ブレーキの外れた恵那の攻撃はハンマーで殴られるように痛い。痛覚を通して、恵那が心を犯してくるように錯覚する。千尋は、耐えられずうずくまる。恵那は楽しそうに笑う。
「えへへへへへ~っ、みんな~っ、お祝い~っ。うん。恵那ね、やっぱりひろくんのイニシエーションをここでやろうって思った! えへへ、今! やりたくなったの! みんなも応援して~?」
――ワァァアアアアアアアア――。
「えいっ、えいっ――、バコンバコンッ、ドカドカドカ――ッ」
「う……、うぅぅ……、ぐぁぁあ……あぁ」
恵那は殴る蹴るを繰りかえす。一つ一つに力がこもった強烈な一撃。千尋がうずくまり嗚咽を漏らすが、恵那は気にする様子はない。頬が赤くなり、口が半開きになる。涎が垂れて千尋に零れる。恵那は快感を感じるようにあえぎつつも、遊園地ではしゃぐ子供のように笑う。
「えへへ……、ぐへへぇ……、じゅる……んんっあぁ、いい! いいよひろくん。痛い? 痛いよね? 痛い? 苦しい? 死にたい? ねえ? ねえ~?」
「う……、うぅぅ……」
「きもちい? 痛いって嬉しいよね? なあに? それとも怒った? 殺したい? 恵那のこと殴りたい? やり返したい? ねえ? ねえってば~?」
「う……、うぅぅぅ……」
千尋はなにも言いかえさない。恵那のしたいことはわかる。恵那は殴るのも殴られるのも好きだ。生の感情。本能に忠実な人間が大好き。怒りは短絡的な気持ちの象徴。暴力は気持ちがいい。僕を殴ることも、怒った僕に殴られて痛い思いをするのも、恵那にとっては快楽。どう転んでも恵那は幸せ。歪んでいるが、恵那に悪意はない。
あるのはただ楽しいという気持ちと、いいことをしているという実感。千尋は恵那の心情がよくわかった。ひとつに繋がっているからかもしれない。だが、自分は恵那とは違う。殴られて気持ちいことはないし、殴りたいとも思わない。千尋の思考が巡る。
「え、恵那!」
「ん? なあに? ひろくん!」
千尋は残りの力を振りしぼって恵那の腕を掴む。反撃開始の言葉を待つように、恵那は嬉しそうに微笑む。
「ぼ、僕は……、王国に行く」
「……うん。やだって言っても連れていくよ。だって恵那、賭けに勝ったし」
「だけど……、僕は……、恵那に寄り添いたい」
「……? よりそう? なにそれ?」
「恵那の言うように……、僕らにとってこっちの世界は生きづらいかもしれない……、だけど、それでも折り合いをつけながら、生きていきたいと僕は思う。恵那にも、そんな道を歩んで欲しい。だから、僕はできるだけ側にいたいって思う」
「……? なんで?」
「え?」
「なんでこんなにも辛い世界で、ひろくんは生きていこうなんて思うの? 恵那にはわかんない。辛いだけなんだから、さっさとこんな世界からは逃げだして、幸せに暮らせる場所へ行けばいいのに。恵那はね、みんなのために王国を作ったのに」
「……、かっこいいと思ったから」
「……? なにを?」
「僕の周りには、戦っている人がいる。この世界と合わないけれど、なんとかして生きていこうと頑張ってる人がいる。そんな人たちを、僕はかっこいいと思った」
「……あおい様のこと?」
「そうだよ。あおいちゃんも有理栖さんも……、めぐみも奏も……、みんな頑張って生きてる。だから僕も、そんな風に頑張って、憧れの人みたいになりたいって思うんだ」
「ううん。頑張らなくていいんだよ。ひろくんはイニシエーションをして、恵那の国で幸せに暮らすの」
「いや、王国には行くけど、恵那の信者にはならない。先生の家に住んで、あおいちゃんたちと生きる。僕は、僕の道を生きていく」
――バコン――ッ。
恵那の力強い拳が千尋の腹部を強打する。
「うぅ……」
「だめだよ。ひろくんは恵那と生きるの。決まったの。恵那が決めたの」
「でも……、行かない。僕は……、こっちで暮らす」
「バコンバコンッ――、だめだめだめだめだめ! だめ! ひろくんはもう恵那のものなの! 決まったの!」
「う、うぅ……、行かない……」
「バコンバコン――、わがままだめ~! だめだめだめだめだめだめ! ひろくんは恵那のもの! 恵那の恵那の恵那の恵那の恵那の恵那のもの~~!」
何度も何度も千尋を殴る。恵那は興奮するように笑うが、千尋にはどこか哀しそうに見えた。
強烈な一撃による猛攻。しだいに意識が薄れていく狭間で――、憧れの人の姿をみる。
「恵那ちゃん、それくらいにしましょ」
「あおい様……?」