第114話 仕方ない
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「恵那ちゃんはやっぱり変わらないわ。欲求に従順で、我慢のストッパーが存在しない。まさに、絆の会の教えそのもの」
「違うよ~! 恵那はね……、もう絆の会の信者じゃないもん、あそこはもうないし、潰れた。ぐへへ……、恵那が壊したんだけどねっ」
「王国を作って、どうするの? 聞いたわよ。したいことをなんでもできる国を作るんでしょ?」
「うん! それでね、恵那たちみたいな不幸な子が、虐げられない私たちの世界を作るの」
「それはね、いいと思う」
「え? あおいちゃん?」
「だって、恵那ちゃんがしようとしてることは、琴音先生と同じよ。前にも言ったでしょ? その考え方に、私は賛同する」
「えへへ~っ、でしょでしょ? 恵那ね、いいことしてるって自覚あるよ!」
「でも、その結果として、私たちみたいな子がまた生まれてしまうのなら、それはよくないことだとも思う」
「えへへ、大丈夫だよ。だって恵那の国に入れるのは、恵那たちみたいな子だけだよ?」
「不登校やひきこもり、障害者だったり私たちみたいに虐待や家庭環境で心を病んだ人たち。そういう人を集めてるの?」
「そ~だよ~! ここにいるあおい様たちみ~んな、入国資格があります! ビシ~っ!」
恵那はサムアップして無邪気に踊る。自信に溢れ迷いがない。エネルギーは無限大。楽しくて仕方がないという風に、屈託のない笑顔は人を惹きつける純粋さに満ちている。無造作に手足を動かす度に大きな胸が揺れる。ブラウスがはち切れそうだが、恵那は気にしない。短いスカートが風に乗ってめくれるが、肉付きのいい生足を庇う様子はない。千尋には恋愛も性的感情もよくわからないが、定型は知っている。
誰がモテて、誰がモテないか。どんな女の子が異性に好かれるか。容姿、性格、個性……、恵那はモテるだろう。きっとここに居る誰よりも。千尋は冷静に恵那を分析する。
「だ~からっ、ね! ひろくんと約束したの。今日、恵那が優勝したらひろくんは恵那の王国に来るって」
「千尋そんな約束したの?」
「し、してないし……、恵那が一方的に……」
「にしし~っ、ひろくんが勝ったら、恵那を好き放題にするっていう賭けしたんだよね~? まあ、ひろくんは勝てないけど、ふふふっ」
「千尋?」
「い、いや……、だから恵那が一方的にだな……」
「千尋って恵那ちゃんのこと好きなの?」
「す、好きとかそういうあれじゃなくて……、」
「じゃあどういうあれなの?」
「い、妹! そ、そう。恵那は妹ちゃんだから……、家族っていうか兄妹っていうか、そういうあれだよ」
「ふーん」
「ほ、本当にそういうあれじゃないから」
「だからどういうあれよ」
「う、うるさいな! とにかく、そういうあれじゃないの!」
「……でも私はそういうあれだよ」
「――ッ、ど、どういうあれだよ!」
「好き」
「……っ、う、うぅ……」
「私は千尋が好きだから、嫉妬もする。そう、お腹の下がもぞもぞして気持ち悪い。この感情はね、嫉妬ってやつ。千尋のおかげでね、私はまた自分を知ることができたの。それは千尋のことが好きだからだよ」
「あ……、ありがとう……」
「でも、恵那ちゃんのことは私も心配。だって、あのころのことは、私の中にもずっと残ってる。私が私として生まれた場所。それがね、あの児童医療センターの精神病棟だったから。千尋も恵那ちゃんも琴音先生も……、私にとっては本当の家族同然なのよ」
川澄あおいは絆の会で育った。
第三楽園――、飯能市の山中にある信者の国で、あおいは特別だった。
巫女、聖女、あるいは預言者として、崇拝された。
楽園では殴られても犯されても当たり前。欲望を我慢せずありのままに生きる。堕落し、倫理のブレーキが外れた人々は、街中でセックスをし、気に食わなければ人を殴り、場合によっては殺人も起きた。
あおいは幼少期からそんな場所にいた。多大なストレス。気がつかないうちに、あおいは現実から目を背け、どこか遠い場所に行った。心がなくなり、あるのは人形を操作する自分だけ。画面越しに「川澄あおい」という少女を操作するプレイヤー1。傷つけられても、褒められても、それはゲームの中の話し。
あおいは解離性障害になった。それも重度の。
心を取りもどしたのはずっと後。
恵那の大量殺人で教団が崩壊し、琴音の病院で治療を受けてからだ。
あおいが「あおい」を自覚した場所。それは埼玉県川越市の県立児童医療センターの三階。児童精神科の無機質なコンクリートの中。隣にいたのは「弟ちゃん」「妹ちゃん」「お母さん」だった。千尋、恵那、琴音。ゲームの中ではないここにある現実。あおいの人生はそこから始まった。
「だから、私も協力する。その王国に」
「……え? してくれるの? あおい様も?」
「ええ。私もね、恵那ちゃんと似たようなことをしようと思っていたし、ちょうどいい」
「あ、あおいちゃん」
「別に悪いことじゃないと思うもの。千尋だってそうでしょ? 私たちが普通に暮らせる場所を、作る。フリースクールだったり通信制高校だったり精神科だったり、ボランティア団体だったり、やろうとしてることはね、なにも変わらないと思うの」
「うんうん! そうそう! 恵那はね、いいことをしようとしてるの。ひろくんは物わかりが悪すぎる。恵那ね、イライラしてきた」
「あ、あおいちゃん、でも……、あおいちゃんたちは地獄を……、見てきたんじゃないの?」
「私、知らないもの。絆の会のことは。覚えてない。あれは映画の中の話。実感がないの。だから、恐怖とか不安みたいなものはなにもないの」
「うんうん。恵那はね~、楽園は好きだったよ? でもね、嘘ばっかりだったの。人を殺してもいいって教えてたのに~、本当に殺したらね、恵那は悪い子になっちゃったの~! 監視されて変なお薬を飲まされてね、恵那はね、わぁあああ~! ってなりそうだったの!」
「それは、そうだよ恵那。殺人は許されることじゃない――」
「でもでも~、ね、ひろくん。優しい人が恵那のことを助けてくれたの。お薬を頭から追いだすには、もっともっと強いお薬が必要だよってね、教えてくれたの。だからそんなお薬を手に入れるためにね、恵那はもっともっといっぱい人を殺したの」
「なんの話……」
「神様がくれるご褒美だよ! いっぱいっぱい人を殺すとね、頭がぐちゃぐちゃになって、目がぐるんぐるん回るの。いくら走っても疲れなくて、大きな日本刀を振りまわすことだってできた。神様ね、恵那に力を貸してくれるの」
「違う……、それはただ興奮してアドレナリンが……」
「だからなに?」
「……え?」
「そんなのただの言葉だよ。恵那は知ってる。恵那ってね、頭い~んだよ? ひろくんは知らないの? 覚えてないの? 病院にいた時、みんなでお勉強したじゃん。恵那、興味があることはなんでも一瞬で覚えてたでしょ? ひろくんは忘れちゃったの?」
「……、そ、そうだったかも……、しれない」
「んもう~! ひろくんは忘れっぽいよ~! 恵那はよーく覚えてるのに。あのころ、ひろくんの体を殴った感触。脂肪がまったくない骨みたいなお腹も、子犬みたいに不安げで暴力を駆り立てるかわいい顔も、この手が忘れられないよ? あの時は楽しかったなぁ。ひろくんって、わがままだから、調教のしがいがあったの!」
「あのころは助けてあげられなくてごめんね、千尋」
「い、いや……、僕はなにも感じてなかったから……」
「じゃあ今感じる?」
「……、?」
「ほら! ――ぱん! ぱんぱんぱんぱんっ!」
「う――……、ぐぁっ……」
恵那は突然に千尋のお腹を拳で殴る。ふんだんに力がこもった右ボディ。恵那は小さな手で何度も殴った。戸惑いはない。にこやかに話していた少女が、一転して暴行を加える。あまりの様変わりの速さに、あおいもめぐみも奏も、助けが間に合わない。
「ちょ、ちょっと~! あたしのちーちゃんになにするの~!」
「千尋大丈夫?」
「う……、う、うん……」
【千尋。へいき?】
「うん……」
「ちーちゃん、もうあたし限界だよ! この子……、ちーちゃんたちの昔馴染みなんでしょ? だから……、あたし我慢してたけど……、もう、だめだ! あたし、この子、嫌いだ~!」
【私も、嫌い】
三人に配慮して会話を見守っていためぐみも、ついに騒ぎ始める。めぐみにとっても愛しの家族。母親にネグレクトされ、家出を繰りかえしながら育ち、やがて愛を求めて薬物にも手を染めためぐみには、千尋たちの隣が、かけがえのない帰る場所になっている。
「あんたがその気なら、あたし、容赦しないんだからね! あたしこ~見えても喧嘩とか慣れてるから。ふふふ……っ、覚悟しなさいよね~」
「えへへ、めぐみさんだよね? 恵那知ってるよ? ひろくんと一緒に暮らしてるお姉さんだよね? えへへ~、めぐみさんをこの場で傷つけたら、ひろくんは怒るのかな? 怒って刃向かってくるのかな? あぁ……、どんな顔するのかな? ねえ? ねえ? ねえ? ひろくん? ひろくん?」
「ふふふ~、傷つける? あたしに勝てると思ってるの? あたし、関東最大の暴走族の彼氏が居たんだよ~? 昔だけど、喧嘩だって結構やったもん。確かにあんたはかわい~けど、その体格であたしに勝てるなんて絶対ないもん!」
「あぁ……、はぁはぁ……、いい。いいよ。ひろくんの怒るところ想像したら、恵那ね……、興奮してきちゃった……ぁ。はぁはぁ……、あぁ……、壊したい。めちゃくちゃにしたぁい……」
口が半開きになり、涎が垂れる。吐息は熱く、五十㎝隣の千尋の肌が燃えるほど。顔が赤くなり、視線が上下する。足をガクガクと震わせ、興奮しているのが傍目にもわかる。恵那の姿は、異様だった。変わった個性を持つ人々を千尋はたくさんみてきたが、そのどれとも違う。恵那の空気は、周囲を赤紫色に染める。幻惑されて、見失ってしまう。自分らしさも、我慢も。
「恵那ちゃん、だめ。暴力はよくない」
「はぁはぁ……、あぁ……、うぅ……、はぁい……、うん。わかってます。わかってる。恵那ね……、頭いーから、ちゃんとできるの。うん。ここは学校だもん。恵那の望み通りに……、できないよね? うん」
「この子……、頭おかしいの? なんなの? あおちゃん。ちーちゃん。一体なにしにきたの?」
「恵那は……、欲求を我慢できないんだよ。……う……、仕方ないんだ。そうやって育てられたから」
「欲求を?」
「そう。僕を殴りたいって思ったから、殴った。恵那にしてみればそれだけのことなんだ。それがいいことだって教えられてる場所で育ったから」
「この子も……、不幸な子?」
めぐみはなにかを察して言葉に詰まる。恵まれない子供たちのことをめぐみはよく知っている。出会う人々は誰も彼もが真っ当ではない。中学中退。家出を繰りかえす非行少女だっためぐみは、レールの外側を知っている。陽の当たる汽車から落ちてしまった自分たちの世界が、どう思われるか。どう扱われるか。身をもって知っている。だから、共感してしまう。同情する。可哀想だと思ってしまう。
「あたしたちと同じ……?」
めぐみは戦意を失う。とても殴れない。
「はぁはぁ……、恵那は……、我慢する」
息を荒くして苦しんでいるように見える少女は、あどけない。まるで千尋のように、童顔で子供じみている。優しいめぐみの母性がくすぐられて、なにも知らないのに、恵那の事情を無数に想像してしまう。どれもこれもが根拠はないが、めぐみは現実のように信じてしまう。
「我慢する。恵那はね……、偉い子なの。我慢できるの」
「……? 恵那?」
「えへへ、恵那はね、いっぱい色んな経験したからね、成長したの。すごいでしょ? 恵那はね、我慢もできるようになったんだよ!」
「あの恵那ちゃんが……」
「我慢?」
「世の中って……、厳しいもんね。えへへ、時には我慢も必要だって、恵那は学んだの。そうしたらね……、後でもっともっと気持ちいことができるって、恵那は知ったんだ」
「恵那……、一体どういう人生を歩んで……」
「えへへ……、まぁ、いいや。楽しみは後にとっておくね。恵那はね、この後、予定があるからちょっと行くね? あ、これあたしのIDだから! 登録しておいて」
恵那はにこやかに笑うとLINEのIDの記載された名刺を千尋に渡す。
「恵那……、おい!」
「えへへ、じゃあね、また」
無邪気にそう言うと、相生恵那は颯爽と走りだす。
「あ、あおいちゃん」
「元気ね、恵那ちゃんは」
「追いかけないと」
「じゃあ千尋が追いかけてよ」
「え、あ……」
「私、走れないし」
「いや、僕も恵那に追いつけるわけないし」
「じゃあ、だめね」
「うん……」
足に障害があるあおいは全速力で走れない。筋力不足の千尋は、運動に自信がない。そもそも一人になったらパニックになって倒れてしまう。二人は示し合わせたように、帰結する。
「「仕方ない、か」」
そんな二人を見てめぐみは茶化すように言った。
「体力不足カップル~」