第106話 夢の途中
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温水プールから数百メートル。
イベントホールの外観は宇宙船のように丸い。さながらSF映画に迷い込んだようだ。
「はいっ、優木、千尋さんですね。では連絡先をこちらに」
「う……、は……、はい」
「あなたかわいいからきっと決勝までいけますよ! 応援してますね~!」
「う……、うぅ……」
ホールのエントランスで第四十回、聖愛学園ミスコンテストの受付を済ます。隣にいるあおいもめぐみも資格は満たしているが、今回は出場しないという。
「だって千尋が頑張るための挑戦じゃない。私は応援に徹しないと」
「うんうん。おやごころ、ってゆーやつだね~」
「どうせ僕がオドオドするのを見て楽しむんだろ、くそ」
「それのなにが悪いの?」
「……?」
「人を楽しませるのに、いいも悪いもないでしょ? 千尋が頑張ったら私たちは楽しいし嬉しいのよ? それっていけないことなのかしら?」
「うぅ……、あおいちゃんは口が上手すぎる……」
「だって私、聖女だし。日本最大級のカルト宗教の信仰対象だった女の子だもん。そりゃぁ、カリスマよ。カリスマ。天性の宗教家ね」
「はぁ……、その自信が羨ましい……」
「まあ、私が出たらどうせ私が優勝しちゃうし……、それじゃ千尋も可哀想だし、今回は優勝を千尋に譲ります」
「はぁ……」
溜息ばかりの千尋の心は許容量をオーバーしてパンクしている。
ミスコンの予選は十三時からこの会場で行われる。
一人ずつ一二〇秒の持ち時間を与えられ、パフォーマンスを行う。内容は常識の範囲内で自由。
その姿は背後の巨大なモニターにライブで映される。撮るの優秀な聖愛学園の放送部である。
「まあ、ほどほどに頑張って。応援してるから」
「ちーちゃんならかわいいから絶対大丈夫だよ!」
【がんばって】
時刻は十二時を過ぎている。
予選に参加する生徒が控え室で待機する時間だ。申し込みも早々に、千尋は一人で舞台裏に進んでいく。【参加者はこちら】という立て札を真っ直ぐに進み、奥の扉を開ける。
「「がんばれ~」」
と少女達が手を振る。あおいはやる気のなさそうにゆっくりと、めぐみは踊るように軽快に、奏は跳びはねながら小さな手を、思い思いに振る。
「なんでこんなことに……」
今日は人生最悪の日だ。
僕はこんな辱めを受けるような、悪いことをしたのか。いや、していない。それに、これは辱めではなく、挑戦だ。少しずつ自分を変えるための、一歩。
千尋は思い直し、ドアをくぐる。
――ザワザワ――。
控え室の中は広かった。
詰め込めば二百名は入れそうなスペースに、鏡やロッカー、横に広いデスクが置かれている。
スタッフと参加者。ざっとみて百人程度。無数の声が重なり合い、渦巻いている。
立ちくらみがする。
鼻から脳味噌に吹きぬけていくのは、甘い香り。女性ばかり密集した控え室は、千尋には刺激が強い。
「うぅぅ……、はぁはぁ……」
隣には誰もいない。あおいもめぐみも、奏も、客席で千尋を待っている。学園でPTSDが発症しないのは、彼女たちのおかげだった。
一人ではなにもできなくても、隣で手を繋いでくれれば、少しは歩ける。だけど今はいない。
「はぁはぁはぁはぁ……、うぅぅぅぅ」
途端に一人を自覚する。恐怖が伝染し足が竦む。呼吸が荒くなり、意識が朦朧とする。歪む視界の中で女子高生が裸になり、衣装を着替えている。嗅いだことのない匂いに包まれて、正常では居られなくなる。
「早く……薬を」
咄嗟にポケットの薬ケースを取り出す。精神安定剤セルトラリンを服用し、落ちつきを取りもどそうとする。一日100㎎まで内服許可を貰っているが、今日はまだ50㎎。錠剤は一粒で25㎎。ケースの蓋を開け、薬を取ろうとするが……、
「うぅ……――ガタッ」
パニック発作により遠近感が失われ、千尋はバランスを崩し床に転げおちてしまう。
周囲の目はわからない。
だが倒れた千尋に注目が集まったのはわかる。
あぁ、もう終わった。もうだめだ。やっぱり僕は一人ではなにも出来ない。無理だ。もう立ち上がれない。こんな大勢が居る場所に一人で来るなんて、無理な話だったんだ。僕はやっぱりなにも変わってない。あおいちゃんやめぐみがいるから、外に出歩けるだけで、一人では外出もまともにできないひきこもりのままなのだ。あのころから、なにも成長してない。この体がそれを証明している。未熟な精神は未熟な体を作る。めぐみの言うとおりだ。大人になれないのは、心が止まったままだから。どこにも行けない。千尋は無性に自己否定が止まらなくなり、全てを投げだそうとする。
「大丈夫――?」
うずくまった千尋は震えて泣いている。まるで赤子か子犬のよう。だけど助けは要らない。知らない人の手は、優しさにならない。恐いのだ。人が。みんなが。誰も彼もが苦手。嬉しいけれど、やめてほしい。
「えへへ~、大丈夫? ひろくん」
「……?」
「もぅ~、こんなに薬こぼしてぇ……、だめでしょ。お薬なんかに頼ったら」
「……え、あ」
「えへへぇ~、不安になったらしたいことをいっぱいして、神様に褒めて貰うのが一番気持ちよくなれるの! そうしたらなんでもできるんだよ! きもちいいし、嬉しいし楽しいし! でしょ? ひろくん!」
「……、あ、なんで……ここに」
「えへへ、言ったでしょ? 聖愛学園の学園祭に恵那も行くって! でねでね! 恵那ね、かわいいからミスコンに出ようって思ったの! きっと優勝できるし褒められるの大好き~! だから!」
「……え、恵那」
「えへへ、ひろくんもそうなの? ひろくんもかわいいから、出場してかわいいかわいいって褒めて貰いたいの? うーん、でもそんなことしなくても、恵那のところにきたらずっといいこいいこしてあげるのに~!」
――ぎゅうう。
そこに居たのははち切れそうな巨乳と若さが弾むミニスカートが特徴的な少女――相生恵那だった。ブラウスのボタンは胸の圧力に押され今にも飛んでいきそう。恵那はうずくまる千尋を太ももに引き寄せると、母性溢れる手触りで巨乳を押しつける。その顔は聖母のようにも悪魔のようにも見える表情だが、千尋は分析する余裕はない。恵那の乳房や柔肌の感触に浸る余裕もない。だが、安心する。不思議な感覚だった。真っ暗な海の中で溺れそうだったところに、現れたクジラに飲み込まれた。死を覚悟するけれど、胃の中は快適で、死んだのか生きているのかもわからないが、安らぎに満ちている。千尋は夢の中にいるようだった。
「えへへ、えなのおっぱい吸いたい? もみたい? ちゅーする? えへへぇ、なにをしてもいいよ。恵那はね、ひろくんのこと好きだから! ひろくんがしたいことをするのをいっぱいみたいの!」
「そ、そんなこと……、しない」
「えへへ、いいこいいこ、よしよし。うんうん。我慢しないで恵那のこといっぱい好き放題して」
「し、しない!」
恵那の言動に千尋は夢から覚める。恵那の体から勢いよく離れて、立ちあがる。そう、立ち止まらない。うずくまらない。前に進むのだ。今日はそのために生きるのだから。