5「桃みたいな味のやつ。」
今年も梅の季節がやってきた。
我が家で言うところの梅の季節というのは、花ではなく実のほうだ。もちろんツンとした冷たい空気に咲く梅の花も好きだが、やっぱり食べられるものには弱い。我が家の定番は、梅干し、梅酒、梅ジュース。梅仕事は母の得意とするところだ。梅の季節が近づくと「梅仕事がしたくてウズウズする」のだそうだ。
ガラっと音がして、柊をお供にどこかに出掛けていた母が帰ってきた。
「さつき、来てごらん。」
と呼ばれたので玄関に出てみると「大漁、大漁!」とホクホク顔の母が立っていた。足元に置かれたバケツには、青い梅が満杯に入っていた。さらに大きなバケツを両手に持たされていた柊も帰ってきた。
「重っ。」
と言って置いたバケツには、これまた見事な大ぶりの青梅が満杯に入っていた。
「どうしたの?こんなにたくさん。」
と聞くと
「いただいてきたのよ、房江さんにね。」
と母が上機嫌で答えた。
いや、房江さんって誰だ。聞けば、母は一ヶ月程前から梅林を求めて近所をうろついていたらしい。いくつか梅林はあったけど、一番大きくて立派だったのが房江さんの梅林だったらしい。そこに狙いを定めた母は、それからほぼ毎日通いつめ、手伝いをして、着々と房江さんとの仲を深めた。そして今日の収穫の日を迎えたそうだ。小梅の収穫にはちょっと間に合わなかったのよね、と残念そうに言った。一ヶ月前といえば、こちらの世界に来てまだそんなに経っていない頃である。そんな頃から梅仕事のことを考えていたなんて、しかもこの非常時下で。我が母ながら逞しいと言うかなんと言うか。
「さてさて。まずは何を作るか作戦会議しなくちゃね!」
と母から召喚された私は、会議に参加することになった。それにこういう手仕事は、案外私も好きなのだった。協議の結果、青梅で、梅ジュースと梅酒。あとは残りの青梅が黄色くなるまで追熟させて、梅干しを何種類か作ることにした。例年通り、赤くて酸っぱい正統派の梅干しと、昆布入りの梅干し。それに加えて、塩と酢でつける梅干しに挑戦することにした。母が以前雑誌で見かけたレシピで、一度漬けてみたかったのだそうだ。とりあえず梅の振り分けが決まったところで、お昼の時間だ。午後から始めることにして、まずは腹ごしらえ。
「じゃ、お昼はおにぎりね。」
母が言った。もちろん異議なしである。
我が家では、こういった家族が参加させられる行事の際、お昼ご飯は必ずおにぎりと決まっている。年末の大掃除や雛祭りの飾り付けや季節の衣替えなど、作業の合間にちゃちゃっと手が空いた人から食べるのだ。そしてこの母のおにぎりがとても美味しい。どっしりしたおにぎりではなくて、綺麗な三角形のおにぎり。厚さも少し薄くて、中身は梅と鮭と昆布の三種類。食べるとほわっとほぐれて、何個でもいける。自分でも度々挑戦してみるのだが、あの美味しさにはなかなか到達しない。というよりジャンルが違う気さえする。あの手からは旨み成分が出ているんじゃないかと半ば本気で睨んでいるのだが、どうだろうか。そんな母のおにぎりは、すみれちゃんと私の歴代のボーイフレンドをも魅了して止まない。
母が調子よくひょいひょいと握っていくのを横で眺める。気持ちがいいくらいに形が揃っている。ちょうどいい大きさに切った海苔を別皿に乗せて、食卓に運ぶ。大皿に盛ったおにぎりを母が食卓に置いた。
「この辺が梅で、この辺が昆布で、ここが鮭ね。多分。」
と母が教えてくれた。そういえばすみれちゃんがいない。そう言うと、おにぎりに海苔を巻いていた柊が答えた。
「まだ寝てたよ。なんかゆうべも飲んでたみたいだし。」
すみれちゃんはお酒が好きなのだ。こっちに来て暇だから飲んでばかりいる。
「いいわよ、ほっときなさい。起きたら食べるでしょ。」
と母が素っ気なく言った。多分梅仕事の戦力にならないと判断したのだろう。
母のおにぎりは相変わらず美味しかった。
午後になって手仕事開始。まずは梅を洗う。大きなたらいに梅をあけて、ゴロゴロガラガラいわせながら洗っていく。青梅のキレイなみどり色が水中で揺れている様は、なんとも涼しげでいい。名残惜しいが、後の工程が待っている。青梅をザルにあげて縁側に移動した。縁側は風が通って気持ちがよかった。白い布巾で水気をとりながら、竹串でヘタを取っていく。この作業が梅仕事のハイライトである。梅仕事の際、「このヘタとるのがめんどくさいのよねえ。」とか言っている大抵の人の口元は緩んでいるハズである。
ヘタをとりたくてみんなうずうずしているのを私は知っている。
竹串でヘタの縁を円を描くようにくるっとなぞると、ポロッと取れるのだ。くる、ポロ。くる、ポロ。ああ、楽しい。すごく楽しい。どっかのテーマパークで体験型アトラクションができたら並ぶレベルである。脇目も振らず一心不乱にヘタを取る。
途中ですみれちゃんが起きてきて、しばらく眺めたのち、おもむろに竹串を手にヘタを取り出した。楽しそうに見えたに違いない。だが案の定、十個ほどのヘタを取り終えたすみれちゃんは竹串を置いて無言で去っていった。おにぎりでも食べに行ったのだろう。ヘタ取りの作業を横取りされたくなかった私は、ホッとした。引き続き、ヘタ取りに集中する。そのうち、保存容器の消毒を終えた母と、暇な柊も参戦して、思ったより早く終わってしまった。凝り固まった肩を回しながら、カゴに盛られた梅たちを眺める。達成感に頬が緩む。
その後の行程は、母の指示に従って進んでいく。梅酒は、ホワイトリカーとブランデーで漬けた二種類を作ることにした。ブランデーの方は、どうせならと、使うお砂糖もきび砂糖にして、きび砂糖梅酒にすることにした。非常に楽しみである。梅酒の仕込みは完了。次は梅ジュース。ここにきて大人しく座って眺めていた柊が口を開いた。
「さっちゃんが作った梅ジュース飲んでみたいなあ。桃みたいな味のやつ。」
東京で一人暮らしを始めた年から、自分でも梅ジュースを漬けるようになった。母が買った梅を分けてもらったり、スーパーで梅を買ったりして、毎年コツコツと漬け続けた。口の悪い友達には「ばあさんかよ。」と何のひねりもない感じで突っ込まれたりしたけれど、結局一番梅ジュースを楽しみにしていたのはその子だった。最初の年は王道な梅ジュースで満足していたが、そのうちもっと美味しい梅ジュースは作れないもんかと思うようになった。美味しいものには貪欲である。私がたどり着いた梅ジュースは、冷凍した青梅を氷砂糖ときび砂糖の半々で漬けたものである。出来上がった梅ジュースは、こっくりした琥珀色で、香りが良くさっぱりしていて、なぜか桃のような香りと味になった。それを柊に電話で話したことがあったのだ。柊はそれを覚えていた。
覚えてたの?と驚いて言うと、柊は大きくうなづいた。
「だってさっちゃん、あの時すごい興奮して電話してきたんだよ。お母さんがいなかったから俺が代わりに聞いたんだよ、梅ジュースの軌跡をさ。そこまで言われたら飲んでみたいじゃん。」
思い出した。梅ジュースの出来に興奮してたとはいえ、中学に入りたての弟に梅ジュースの話を延々と話し続ける姉。どうかしてる。そしてその話を最後まで聞いてくれる弟も。こんな子がモテる世の中になればイイなとも思うのだが。
「じゃあ、作ってみようか。」
「うん。」
その横で、母は梅干し用の梅を箱に分けながら(追熟させるのだ。)ニッコリと笑って、楽しみね、と言う。
後日、どこからか赤紫蘇を持って帰ってきた母の手によって、梅干しの仕込みも終わり、梅仕事は一旦休息である。梅雨に入ってしまったので、天日干しは梅雨が明けてからにするそうだ。
この世界の梅雨は、思ったよりも嫌な季節ではなかった。無理に出かけなくてもいいからだ。家の中にいれば雨が降っても気にならないし、縁側から眺める紫陽花を打つ雨は美しい。気が向けば、長靴を履き傘をさして散歩に出る。目的があって雨の中を歩くのと、理由もなく雨の中を歩くのとでは、心持ちが全然違うのだということに気づいた。行かなくてはいけない場所がないのだからいつやめても構わないし、帰るべき場所もあるのだから安心してほっつき歩ける。
でもひょっとして、帰る場所もないほうがもっと心が軽くなるのかもしれない。