4「圧巻だわね。」
次の日の夕方、高瀬さんがやって来た。母は待っていましたとばかりに家に招き入れ、矢継ぎ早にいくつか質問した。高瀬さんはそれにひとつひとつ丁寧に答えていく。
道端の花は摘んでも良いこと、野菜は畑で作業している人に頼めば分けてもらえること、山や川の恵みも自力でなら恩恵が受けられること。満足のいく答えが得られた母は「素晴らしいわね、まるでユートピアみたい。」などと言い、「そうですね。ある意味では。」と高瀬さんはにこりと笑って答えた。高瀬さんにだいぶ慣れた様子のすみれちゃんは、お茶を出すとそのまま母と高瀬さんと三人で談笑しはじめた。もともと愛想はかなり良い方なのだ。
すみれちゃんは百貨店の外商部に勤務している。若いのに女なのにというハンデを物ともせず、むしろ武器にして、成績をグイグイ伸ばしているらしい。一度なんかは、目玉が飛び出そうな値段のペルシャ絨毯を売り上げて、その年のトップになり金一封もらっていた。妹としては、思考停止癖のあるあのすみれちゃんが!と思うのだが、「仕事の時は脳みそを完全に切り替えているから、大丈夫。」なんだそうだ。私にはできそうもないが、すみれちゃんには意外と簡単な事らしい。姉ながらに不思議な人である。そんなすみれちゃんは外商で培った手腕に物を言わせ、高瀬さんに高級な肉をねだっていた。高瀬さんが帰った後、気遣い屋さんの柊が
「すみれちゃん、初っ端から高級な肉とかねだらないほうがいいんじゃない?高瀬さんちょっと困ってたよ。」
と優しい口調でたしなめたら
「バカねー、柊は。高瀬さんも仕事でやってるんだから、多少無理難題があったほうが張り合いも出るってもんでしょ。それに柊、お肉好きでしょ?柔らかいやつ。」
と返り討ちにあっていた。すみれちゃんは面白い。面白くてきょうだい想い。
花摘みの許可が出た母は、早朝から花摘みに出かけるという。朝から叩き起こされ、お供に任命された。頭から布団を被り直し無言の抵抗を試みるが、心のエンジンをブルブルとふかしている母には全く効かなかった。のろのろ着替える私をせっついて、庭の物置から探し出したというバケツとハサミを持たせた。
「いい朝ね。花摘み日和だわ。」
とツヤツヤしたほっぺたで笑い、こちらを振り返った。花摘み日和がどんなかわからないが、母の笑顔につられてしまう。
「そうだね。」
と少し楽しい気分になって答えた。花がそこかしこに植えられた小道を母とふたりで歩く。でたらめに植えられていて、私好みの小道だった。キチッと区分けされて植えられているのもいいが、デタラメの方が現実感がなくて夢の中みたいで好みだ。黄色いフリージアやピンクやオレンジのチューリップ。紫や濃いピンク色のストック。アネモネの赤や薄紫や白。その小道を、母は私に話しかけているのか、花に話しかけているのか判らない調子で、何事か喋りながら歩いている。ふわふわとした足取りで。そんな調子で歩いていると、突然開けた場所に出た。そこに足を踏み入れた私たちは息を飲んだ。
「圧巻だわね。」
母が腕組みしながら唸った。そこには色とりどりのガーベラの大群集が広がっていた。二十種類はあろうかという色のバリエーション。ピンクだけでも薄ピンク、濃いピンク、青みがかったピンク、オレンジがかったピンク。それに加えて、黄色や白や赤。一色だったりグラデーションっぽく見えるものもある。色、色、色である。私にとってガーベラといえば、花束のメインになり、雑誌でアイドルが持たされてたりしている印象。つるりとして品が良くて、きちんと教育された明るさの花。しかし、このガーベラ達のなんと圧倒的で野性的なことか。それぞれが何にも頼らずそこに生えているのだ。母も私もなんだか動き難く、しばらく突っ立っていた。
「やめたわ。」
と突然母が言った。何を?と聞くと
「花摘み。目が覚めたわ。ここの花を摘んで自分の家に飾ろうなんて、我ながらケチな事を考えたもんだわ。」
「そうなの?」
「そうよ、いつだって見に来れるんだし。何でもかんでも自分のものにしようなんて浅ましいわ。」
母は背筋をしゃんと伸ばして言った。そして、
「また来よう。」
と言いながら歩き出した。
家に帰ると柊が居間で本を読んでいた。
「おかえり。花摘み行ったの?」
と本から顔をあげて言った。
「うん。行ったんだけど、摘まないで帰ってきた。なんか思うところがあったみたいよ、お母さん。」
と私が答えると
「ふーん。」
と言ってまた読書に戻っていった。朝御飯の支度が終わると、柊にすみれちゃんを起こすように頼んだ。今日の朝ごはんは、鮭の塩焼き、だし巻き卵、ひじきの煮物、長ネギとお豆腐のお味噌汁、つやつやのご飯。朝から歩き回ったからお腹ぺこぺこだ。すみれちゃんと柊が連れ立って居間に現れ、食卓につく。いただきますと食べ始めると、すみれちゃんが母に聞いた。
「花摘みやめたんだって?」
そうよ、と母が答えると
「まぁ、お母さんは昔から花のことになると頑固だから。」
と言った。
「何よ、それ。」
母が怪訝そうに言うと、私の方を見て、ねぇ?と言った。
「あ、バラ事件?」
私が言うと、すみれちゃんはそうそう、と鼻にしわを寄せて笑った。
私たちが物心ついた時から、毎年母の誕生日には、父が真っ赤なバラの花束を買ってきていた。赤いバラは大ぶりでいい香りのするとても大きな花束。その真っ赤な花束には、普段余計なことを言わない父の愛が詰まっているように見えた。食卓に飾られた真っ赤なバラの花びらを一枚ずつこっそりもぎって、コップに浮かべる。これはすみれちゃんと私の密かな楽しみだった。ずっと続くものだと思っていたその習慣は、母の一言で唐突に終わりを告げた。確かすみれちゃんが十一歳で、私が八歳で、柊はまだ母に抱かれていた。いつものように父が真っ赤な花束を母に渡して、すみれちゃんと私が見せて見せてとせがんでいる時のことだった。不意に頭上から母の声が響いた。
「いつもバラの花束。たまには他のものがいいわ。」
母はその場の全員(赤ちゃんだった柊以外)を凍りつかせた。驚いて母の顔を見上げると、静かな顔でバラの花束を見つめていた。冗談じゃないんだ。こんな綺麗な花束もらっているのになんて贅沢な。そんなひどいこと言ったらバチが当たるよ。でもその言葉を口に出すべきではないことは小学生の私にも分かった。怖くて父の顔が見れなかった。父は何も言わずに部屋を出ていき、そのあと一緒にご飯を食べたのか、母はどんな顔をしていたのか全く覚えていない。それ以降、母の誕生日に父が贈り物をするのを見たことはない。
私とすみれちゃんにとっては、結構ショッキングな出来事である。大きくなってからその一件を「バラ事件」と名付け、あの時母が発した言葉の衝撃を共有した。なぜあんなことを言ったのか、母にも一度聞いてみたが、のらりくらりとかわすだけではっきりした理由は教えてくれなかった。真相は闇の中である。
「そんなこともあったわねぇ。」
母はケラケラと笑った。
「ちょっと、笑い事じゃないよ。私たちはお父さんたちが離婚しちゃうんじゃないかと思ったんだから。ねぇ?」
とすみれちゃんが言った。
「そうだよ。でも次の朝は、お父さんもお母さんも何事もなかったようにご飯食べててさ。それが余計に不気味だったよね。」
私はその朝の光景を思い出しながら言った。
「それって理由はなんだったの?」
柊が私たちに聞いた。
「それがさ、お母さん教えてくれないの。だから頑固だって言うのよ。」
「だって大した事ないんだもん。」
と言い渋る母に
「大した事ないならいいじゃない。」
「この際話しちゃいなよ。」
「知りたい、知りたーい。」
ときょうだいで畳み掛けた。母は苦笑しながら、大した団結力だこと、と言った。
「本当に大したことないのよ?まぁ最初はお母さんだって嬉しかったわよ。あんなに大きなバラの花束もらったの初めてだったしね。でも毎年毎年同じ花束で、この人はこれさえあげていればいいって思ってるんじゃないか、って段々と思うようになっちゃった。あの時は仕事も家事もおばあちゃんとの仲も全部ちゃんとしなきゃ、頑張んなきゃって思っててヘトヘトだったの。でもお父さん愚痴を言うのも聞くのも嫌いじゃない?言っても機嫌悪くするだけだし。だから全部一人で抱え込んでさ。バカよねぇ、もっと適当にやればよかったんだけど。あの頃は力の抜き方も知らなかったのね。だから、大きな花束よりもただゆっくり話をする時間が欲しかった。お父さんに聞いてもらいたかったのね。っていうより褒めてもらいたかったのかしら。ちょっと言ってて恥ずかしいわね。……それなのに毎年毎年花束だけポンだもの。全く満足そうな顔しちゃってさ。」
母は諦めたのか、妙にリアルに洗いざらい喋り出した。確かに。こんなに正直に話されても、小学生や中学生の私たちには受け止められなかったであろう。
「しかもおばあちゃんよ。アタシは一度も花なんてもらったことがない、あんたは幸せだ、とかチクチクグチグチと。どの口が言うのよって感じ。」
と、眉をはの字にして続けた。すみれちゃんが、「うわ、おばあちゃん言いそう。」と相槌を打った。
私たちは祖母と同居していたが、嫁姑の関係はあまりうまくいっていなかった。私たち孫のことはある程度可愛がってはくれたが、家のことはすべて母に任せ、いつもテレビの前に陣取って何かに憤っていた。彼らの関係は、祖母の荒すぎる気性と、母の真面目すぎる性格と、父のきつい物言いが渾然一体となって、いずれは池に落ちるおにぎりのようにコロコロと悪い方へ転がり続けていたのだった。(それは祖母が死ぬまで続いた。)
「それで、ああ今年もまたあのセリフを聞かなくちゃいけないんだなぁ、と思ったら急に全部が耐えられなくなっちゃったの。言ったらまずい、大変なことになるって思いながらも、お腹のあたりからぐーっとせり上がってくるのよ。で、気づいたら口から出てた。あーあ、言っちゃったって感じ。」
「そのあとどうなったの?お父さん怒った?」
すみれちゃんが身を乗り出して聞いた。
「それが何もなかったの。」
「えっ何も?」
「そう。なーんにも。私だって覚悟を決めたのよ。限界だったとはいえ、あんなに意地悪なこと言っちゃったんだもん。万が一話がもつれて別れることになったら、この子達は私がひとりで立派に育ててみせるってふつふつと闘志まで湧いてきてさあ。うふふ。世間の荒波に揉まれている自分たちを想像してジンときたりしてさ。」
私は、母が小柄な体で仁王立ちしている勇ましい姿を思い浮かべてクックッと笑った。
「でもお父さん何も言わないのよ。普通にご飯食べて、お風呂に入って、お布団をかぶって寝ちゃったの。いつ来るか何言われるかって緊張しながら待っていたら、いつの間にか寝息が聞こえてきてるんだもの。びっくりしちゃった。お父さんの枕元に座ってまじまじと顔を覗き込んじゃったわよ。一体この人は何考えてるんだろうって。」
思わずきょうだいで顔を見合わせた。
「お父さん、すごいね。」
と柊が感心したように言った。
「そしたら、まあいいかって。あんなにパンパンに膨らんでた気持ちが、プシューって空気が抜けたみたいになっちゃった。それでお互いになんにも言わずにそのまんま。」
おしまい、と言って母は、湯呑に口をつけた。
「えーなんにも言わなかったの?モヤモヤするじゃん。」
と私がいうと
「私はお母さんの気持ちがわかる気がするなぁ。」
とすみれちゃんが言った。柊は何も言わず、二杯目のご飯を頬張っていた。
そんな子供達を見て、母はにっこりとして言った。
「そんなもんよ、夫婦ってのはね。」
うーん。焼き鮭を箸でつつきながら、考える。
私にはまだ理解ができないけれど、他人と一生暮らす覚悟ってのは、そういうことなのかもしれない。
それでも、真っ赤なバラの花束を抱える作業服姿の若き父や、父の寝顔を食い入るように見つめる若き母を想うと、やっぱり胸がチリチリッとするのだった。