2「時間、止めておきましたのでご安心ください。」
「さっちゃん大変だ、起きて起きて。」
スパーンと襖が開く音と同時に、柊の声がした。ずいぶんと焦った様子で。柊のこんな様子は大変珍しい。
何しろ、四歳の時に補助輪付きの自転車ごと近所の沼じみた池に転落。呆然と立ちすくむ姉二人を一瞥すると泣きもせず悠然と這い上がり、「まぁ、こんなこともあるから。」と菩薩のような顔で笑ってみせた弟である。
あの時柊の顔を覆っていたのは赤黒い泥で、すみれちゃんは事の大きさと恐怖のあまり自転車を引き上げようと池に入りだし、焦った私はとにかく大人を、と近所の家まで走ったのであった。
柊の眉の下には2センチの傷が残った。
そんなことを夢うつつで思い出していると、柊に「ねぇ、起きた方がいいよ。」と体を揺すられた。
「何よ。」
とのそのそと起き上がると、なんとなく違和感を感じる。
昨日寝入ったときは、床はフローリングだったし壁紙は綺麗な藤色だったはず。なのに今、体を支える手に伝わるのは明らかに畳の感触だったし、飴色に塗られたはずのドアは古臭い襖に変わっていた。
「なんじゃあこりゃぁ……。」と呟いた私に、柊が「ね、変だよね?戻っちゃったよ。」となんとも情けない顔で言ったのだった。
我が家は父が亡くなる五年ほど前に、祖母の死をきっかけにリフォームしたのだった。そのリフォーム前の状態に部屋が戻ってしまっているのだ。聞けば柊の部屋も同じ状態だそうで、慌てて私の部屋に来たらしい。とりあえず部屋から出て状況確認することになった。廊下に出ると確かに懐かしい光景が広がっていた。居間では母とすみれちゃんが呆けたように座っていた。
「さつき、どうしちゃったのこれ。」
母がこちらを向いて言った。
すみれちゃんは母の隣で、なぜか手に握りしめたバナナをじっと見つめていた。自分の理解を超えたことが起きると、一旦全く関係ないことに逃げてしまうのは、すみれちゃんの小さい時からの癖である。
「わかんないけど、これ過去に戻ってるとか?」
「でもお父さん死んだままだよ。」
と柊が父の遺影を指差した。仏壇には確かに祖母と父の遺影が並んでいた。
「とりあえず、ご近所の様子見てくる?」
母は不安そうな顔で私を見てそう言った。母の無言の圧力に屈し、立ち上がった。
「俺も一緒に行くよ。」
と柊も立ち上がり、二人で玄関に向かおうとしたその時、玄関のチャイムが鳴り響いた。あからさまに全員の肩がビクッと震え、顔を見合わせた。
「やばい、誰か来たよ!」
ようやくバナナから目を離したすみれちゃんが言った。誰が出るかで揉めた後、結局ぞろぞろとみんなで玄関に向かった。母が意を決したように、引き戸に手をかけた。
そこに立っていたのは若いひとりの男だった。
男は私たちをゆっくりと見渡し、少しだけ口角を引き上げてから口を開いた。
「桐山家の皆様、こんにちは。現在の状況についてご説明に参りました。」
一瞬の間のあと。
「ど、どうぞ。おあがりになって。私たち何が何やら、困ってしまって。」
と母が男を招き入れた。こんな状況で見知らぬ男を家にあげるのには抵抗があったが、藁にもすがる思いだったのは確かだ。男は丁寧に一礼し、高い背をかがめるようにして玄関をくぐった。私たちは男を引き連れぞろぞろと居間に戻った。
「お線香いいですか?」
居間に入ると隣の仏間に目を遣り、男が言った。母は「どうぞ」と言い少し表情を緩めた。仏壇に手を合わせるその後ろ姿を眺めていた私たちに、母が座るよう促し、立ち上がった男にも座布団をすすめた。そして男がまさに口を開きかけたその瞬間、
「お茶。飲まれますか。」
とすみれちゃんが少し前のめりになって聞いた。相変わらずのタイミングである。しかし男はたじろぎもせず、感じの良い笑みを浮かべてから、いいえ、と言った。
「みなさん、気になっているでしょうから。先にお話してしまいましょう。」
その時、ちらっとバナナを見遣った男と私の目があった。
「まずは、わたくし高瀬と申します。桐山家の皆様を担当させていただきますので、以後お見知り置きを。」
私たちは訳も分からず、とりあえず「よろしくお願いします」的なことをごにょごにょとそれぞれが口にした。
「では説明していきましょう。桐山耕一様が亡くなられてもうすぐ二年ですね。三回忌が目前かと思います。実は耕一様の生前の善行があちらの世界で大変認められまして、そのご褒美というか賞与が与えられたんですね。その内容というのが、一日だけご家族の皆様と一緒に過ごせる券、もしくはご家族の皆様に一年ほど故人を思い出しながらのんびり過ごしてもらう券、この二つからの選択制となっております。それで、耕一様がお選びになったのは、ご家族の皆様に一年間のんびり過ごしてもらう券、の方でございます。」
高瀬さんはそこまで言うと、私達の反応を見るように、口をつぐんだ。私達家族はと言うと、誰かの喉がキュイという変な音を立てただけで、全員が高瀬さんを見つめたまま固まっていた。高瀬さんが続けた。
「ちなみにお家がリフォーム前に戻っている件ですが、ご家族の皆様にはこちらのお家で過ごしていただきたいとのご要望を耕一様からいただいております。ですのでリフォーム前のお家を再現させていただきました。何卒ご了承ください。その他必要なものはこちらで手配致しますので、私におっしゃってください。簡単にはこんな感じですが、何かご質問はございますか?」
急にそう言われても、全く質問が思いつかない。小学生の頃、算数の授業で「どこが分からないのか分からない」と終始思っていたのと同じ感覚である。しばしの沈黙の後、母が口を開いた。
「あの、高瀬さん?つまり、私たちはこの家で一年間過ごさなきゃいけないということね?でも私たちは仕事も学校もあるから、そういうのはどうなるのかしら。」
完全に父のエピソードはガン無視である。
「そうですね。こちらで過ごされる期間、言うなれば皆様は巻き込まれたというのが正直なところだと思います。ですので皆様が普段過ごされている世界には影響が出ないように配慮しております。時間、止めておきましたのでご安心ください。」
と高瀬さんはさも当然のように答えた。
「え、時間止めちゃっていいんですか?」
私は、大通りの交差点で全ての人々の時間が止まっている様を思い浮かべた。ある人はタクシーを停めるために手を挙げ、ある人はガードレールを乗り越えるために体を宙に浮かせていた。高瀬さんは私の方に向き直り、大丈夫ですと微笑んだ。
「時間を止めるというのは、おそらくさつきさんが想像しているものとは全く異なるかと。世界の動きを止めるわけではなくて、なんと言うか皆様の時間軸におまけが付くと捉えていただければ分かりやすいかなと思います。皆様には一年間こちらの世界で過ごしていただきますが、その期間が終わりますと、元の世界の今朝の時点に戻る手筈になっております。」
と高瀬さんは淡々と言う。
なんと。とんでもないことになってきた。
「ほう。」とかろうじて返事をしておいた。
「まぁ、突拍子もない話ですから、すぐに実感はわかないと思いますが。そうですね、長めの休暇だと思ってのんびり過ごしてはいかがでしょうか。故人の思い出でも語り合いながら。もちろん家からは自由に出ていただいて構いませんよ。他に何か聞いておきたいことはございませんか。」
私たちは顔を見合わせたが、これ以上何か聞いてもキャパオーバーなのは明らかだった。
「高瀬さんはまた来てくれるんですか?」
柊が不安そうに聞いた。
「はい、何日かおきに伺いますよ。最初の方は、何かとお困りになることもあるでしょうから。」
では、と高瀬さんは立ち上がった。
「あ、言い忘れていました。当面の食料や日用品ですが、故人の思い出と照らし合わせて、私の方で適当に見繕っておきました。足りないものは手配しますので、あとで確認してみてください。」
そう言うと、一拍おいてすみれちゃんの方を見た。
「……ですので、すみれさん。そのバナナもお召し上がりいただいて大丈夫ですよ。」
そう言うとくるりと向きを変え、玄関に向かった。
すみれちゃんは何を思ったか、その場で慌ててバナナの皮を剥いた。
高瀬さんの後について、ぞろぞろと玄関まで見送りに出た。我が家は誰の客人であれ、みんなで見送りに出るのが昔からの習慣だった。高瀬さんは、玄関先で私たちに丁寧に一礼すると帰っていった。