心、リセット症候群につき
心、ここにあらずより、心がスッキリした。
昔の友人、旧友、自分の過去に関係のあったものたちのやつは消した。
中高それこそ、小学生の時から中学は同じだった人もいたが、それは、一期一会の出会いのみ、同窓会を開いてまで会うということに価値を見いだせない男が、私、冬野だ。
冬という名字なだけに、寒い印象を与えてしまいかねないが、私は今日まで、整理整頓というのに惚れてから、昔はボッチとか孤独というものを恐れていたが、最近は、それほど気にするほどでもないなと思ってきた。もちろん、完全に気にしないということもないし、それこそ、捨てた初日のあとは罪悪感で、バスに乗り遅れそうになったりしたものだ。
だけど、心の重荷がフッと軽くなったおかげで物事を明るく考えるられるようになったと思う。
今までの自分を縛り付けていた何かから解放された気分で鳥籠の中から大空へ羽ばたくオカリナのように、私は飛んでいった気分だ。
けれど、少し心が寂しくなるときがある。
整理整頓したけども、また会いたくなる友人が……
それを友というのかは、他人の定規から図れば人それぞれだし、
自分の目には無論、友と言えるのかと認めたら、頭を抱えてしまうから、考えないようにしている。
そのせいか、最近は、学問の方が友達で綺麗な人とか可愛い人とか、人に興味が持てなくなった。
性欲もなくなった。
愛もなくなった。
というより、なくなりつつある。
物という物をリセットしたくなる。
SNSも活動報告もフォロワーも、この世の世界を無にしてみたい。
だけど、私は神ではないのだから、そんなことはできっこない。
だけど、捨ててもまだなお、会って話をしたいと思うのは、
やはり、捨ててはいけなかったものなのかと今もなお、
思うのだ。
人は言う、
分かりやすさは
人気なのだ。
人気が分かりやすさなのだと、
知識は浅ければ深く、
深ければ浅いのだと。
シェイクスピアのマクベス調に言葉を羅列する。
そんな毎日を繰り返す。
おしゃべりをしなくとも、心との対話で事足りる。
そんな日々だから、おそらくマウンティングというものをせずとも、心は整理整頓を常に繰り返し、私の中の地球を循環させていく。
今日というものには、朝があって、夜があるように、
心の浮き沈みは存在する。
事実は人が思い描いた想像であって、
想像が人の事実になるのだ。
答えの半信半疑は答えても解なしなのならば、
答えなくても自ずと見える。
見える会話は
紙一枚の
裏表紙、
見える文字は
恐れかな
扉を開けず今日は惰性に過ごした私だった。
冬野は野原を駆け巡る、孤独な自然と対面し、
己の内面と対話する。