13 時の翁
どこからともなく、低い鐘の音が聞こえてくる。
それと同時に、嘘のようにして、周囲を埋め尽くす炎が消え失せる。
「うわああああ! あ?」
生暖かい空気に包まれ、俺の肢体は弛緩する。
体は、幾本もの鉄鎖で拘束され、石床に寝かされている。
「大渓谷まで、お主を追って来たようじゃな」
半身を起こす。
周囲は岩壁に覆われ、圧迫感がある。
ここは、廃神殿の中ではない。洞窟の中である。
そこには、岩壁にもたれかかった老人がいる。
その見た目はまさに骨と皮であり、さきほど、最期を遂げたあの老人とそっくりである。
老人は、岩壁を掘っている。
抽象画を描いているようだ。
ところで、老人は、ここが大渓谷であると言ったように思う。
しかし、どうやって、廃神殿から大渓谷の洞窟まで移動したのだろうか。
わからない。
「貴方は、カトーですね?」
老人は手を止める。
「ワシはお主に名乗ったことはない。しかし、お主は、ワシの名を知っておる」
「さきほど、イェルドがそのように呼び掛けていましたが」
「お主は、おそらく、未来から送り込まれたのじゃな」
「え?」
「ここは、一つの分岐点じゃ。周囲をよく見るがよい」
俺は、洞窟の中を注意深く観察する。
洞窟の奥へと通じる二つの道がある。
この光景には記憶がある。
「左はガルダ島へと続く道。右は現代日本に帰る道……」
「お主は、今ここで選択をせねばならぬ」
さらに、記憶がよみがえってくる。
この状況は、俺が昔アルデア城を追われた時の状況と瓜二つである。
俺の体は、かつてのように鳥人間の手足に変化している。さらに、この老人の言動にこの洞窟、全てに異常なまでの既視感がある。
この老人の言う通り、俺は、過去に飛ばされたのかもしれない。超常的ではあるが、状況から判断して、そういう推測が成り立つ。
しかも、ありがたいことに、眼前にわかりやすく選択肢が示されている。
過去の俺は、ガルダ島へと続く道を選択し、破滅の未来を招き寄せてしまった。
今度は間違えない。
俺は、身体から鎖を外す。そして、グラディウスを地に突き刺す。
「ありがとう、エクスクルジオ。俺の夢も、ここまでだな」
俺は立ち上がる。
少し気にかかることがある。
この時点で、俺は邪神と一体化しているはずだ。つまり、このまま現代日本に戻るとなると、同時に現代日本に邪神を招くこととなる。
とはいえ、この後、特殊な条件が揃って初めて邪神は目覚めた。
現在日本で、そのような特殊な条件が揃うはずもない。杞憂である。
「やり残したことはないようじゃな」
あるはずがない。
俺は紛れもない凡人である。
俺は老人に対して軽く会釈し、そそくさと右の道へと進む。
圧倒的な敗北感。しかし、その気持ちに鈍感になりさえすれば、もはや、残るのは晴れやかな気持ちのみである。
進む先には、光が満ち溢れている。
一歩進むごとに、異世界の記憶は薄れ、体も心も軽やかになっていく。
それなのに、いつの間にか俺は歩を止めている。
何故だか自分でもよくわからない。
これ以上先に進むことを、俺の精神が拒否しているのである。
俺は、腰を地に落ち着ける。
俺の精神をよく見つめなおすべきである。
確かに、俺は過去に戻ったようだ。
しかも、未来において、世界が破滅する因果を記憶したまま過去に戻っている。
であれば、左の道を経由し、さらに、破滅の未来を防ぐことだって出来るかもしれない。
慌てて右の道に逃走することもないのではないか。
「何を馬鹿なことを!」
俺は凡人である。
結局、何も出来なかった。
何か出来るはずだなどといった傲慢は、異世界に混乱をもたらし、俺の身を滅ぼすことにもなる。
「しかし……」
胸の奥に僅かな熱を感じる。
過去に戻れたというのは千載一遇のチャンスである。このチャンスをふいにすべきではない。
たとえ、再び失敗しようとも、その失敗は真実を知らずに突き進んだ現状よりもマシなものであるはず。
ならば、少しでも善戦できるよう、力尽きるまで戦い抜くべきではないか。
そうすれば、この世界に現状以上の繁栄をもたらすことだって出来るかもしれない。
諦めさえしなければ、俺はまだ負けていない。
俺は来た道を引き返す。
入り口付近の広間に戻ると、既に老人は白骨化し、代わりに7体の巨人を描いた壁画が完成している。
俺は、再び老人に対して会釈し、エクスクルジオを引き抜く。
しかる後、左の道を選択し、ガルダ島へと一歩を踏み出す。
ふと、目を覚ます。
「大渓谷まで、お主を追って来たようじゃな」
半身を起こす。
そこは、さきほどの広間である。
さきほどの老人がこちらに背を向けている。
「どういうことです?」
「何を聞いておる?」
「俺はさきほど左の道を選びました。それが何故か、選択前の場所に戻されてしまったようなのです」
「そのようなことを言うておるということは、お主は未来から来たのじゃな」
「ええ……」
この老人は俺の境遇を理解しているわけではない。
頼りにならない。
「おそらく、時の翁の仕業じゃ。奴は、お主が左の道を選択することを拒絶しておるようじゃ」
「は?」
時の翁というのは、英雄イクセルのことを意味する。
奴は、時空間を操る圧倒的な力を身に着けている。
「お主が右の道を進まぬ限り、何度でも同じことが繰り返されるであろう」
右の道は、現代日本につながる道である。
「俺に、この世界から出て行けと?」
奴は、俺を異世界から追放しようとしている。
それは、俺の存在が目障りだからに違いない。
「それが、お主のためでもあるのだと……」
俺は、鎖を引きちぎって立ち上がる。
とはいえ、このように過去に閉じ込められてしまっては、俺に出来る反抗は、ひたすら左の道を選択し続けることだけである。
そして、単に左の道を選択し続けることでイクセルを出し抜けるとも思えない。
だとしても、こんな風に他人から行動を強要されて、それに従うなど俺の主義に反する。
「歴史を捻じ曲げる技をそう何度も連発出来ようはずがない。俺は進みます!」
俺はエクスクルジオを握り、左の道に突進をかます。
「大渓谷まで、お主を追って来たようじゃな」
この言葉を聞くのはもはや50回目である。
「二つの道のいずれを選ぶのか。俺は、この選択肢を何度も繰り返させられているのです。右の道を選ぶまでね」
「なるほど。大変なことに巻き込まれておるようじゃ」
胸の芯に籠る熱が明らかに拡大している。
「いいだろう。根競べだ。何度でも繰り返してやる。奴が諦めるまでな!」
「一つ聞きたい。お主は、それほどまでにこの世界に未練があるのか?」
「俺は……」
現代日本をこよなく愛している。
こんな糞みたいな住人が集う糞みたいな異世界に何の未練もない。
だが、それとこれとは違う。
俺は、力尽きるまで戦い抜いて、己の道を切り開く。歴史を捻じ曲げ、世界を革新するのだ!
「変なスイッチが入ったようじゃな」
俺は右の道へと進み、それをフェイントにして、左の道へと全力疾走する。
「革新、革新……」
試行錯誤は優に1000回を超える。
それでも、狂ったように左の道へと突き進む。
しかし、如何なる努力もむなしく、何度も同じ広間に突き返されるのだ。
そして、不思議な事象に気が付く。
俺の体に疲労の蓄積が見られる。しかも、腹が減っていく。
時間を超えているはずなのに、俺のダメージはどんどんと累積していくのである。
イクセルの力が尽きる前に、俺の体力が尽きるのではないか。
時を超える度に、希望が失われ、精神の安定が失われていく。
それでも、俺の胸にこもる熱量は増えていく一方である。突き動かされるかのように、俺は左の道へとひたすら突き進む。
「俺は現状を否定する。俺は負けない。屈しない」
試行錯誤は1万回を超えて、俺の疲弊した身体は限界を超え、もはや立ち上がることすら覚束ない。
「目が覚めたようですね」
聞きなれぬ女性の声が響く。
思わず俺は半身を起こす。
そこに老人の姿はない。
代わりに女性が座っている。
その顔には大変な見覚えがある。
「何故ここに?」
「つまらない冗談はやめなさい」
その女性は、アウグスタである。
帝国ネアのアウグスタではなく、俺とともに神聖帝国と戦った偽物のアウグスタである。
髪を結い正装に身を包み、背筋を伸ばして俺の顔を覗き込んでいる。
「……」
「どうした?」
俺は恥ずかしくも動けない。疲れているのだろうか。
アウグスタはそんな俺に寄り添ってくれる。
「少し眠っていたようだ。現状を教えて欲しい」
「アルデアの追手が迫っている」
「何故、私は追われている?」
「覚えていないのか?」
「すまない」
「貴方は王位を簒奪した。アルフィオ殿下は共和国の力を借りて貴方と戦った。貴方は負けた」
歴史が少しばかり修正されているようである。
「何故、貴女は私に付いてきた?」
「貴方が付いて来て欲しいと言ったからだ」
アウグスタの能面の表情が、大きく崩れている。
「そうか。ありがとう」
おそらく、これは、アウグスタが生き延びた歴史につながる過去なのだろう。
「先を急ごう」
「どこへ行くという?」
「この先に、貴方の故郷があると聞いた」
「右の道へ進めというのだな?」
「はい」
その優し気な眼差しは、俺から一呼吸を奪う。
アウグスタが現代日本に来るという。
平和な世界で、誰にはばかることなく、静かな時間を共に過ごす。
きっと、それは素晴らしい日々になるに違いない。
俺は、アウグスタの笑顔を勝ち取るために、一生懸命に仕事に邁進することだろう。
「結局、貴様もイクセルの手駒ということか?」
「はい?」
「貴様は言ったはずだ。この哀しい世界を救ってくれと」
「そのようなことを言った覚えはない」
「右の道へ進むということは、この世界を捨て去ることを意味する。それでも、貴様は良いというのか?」
「……」
「貴様はそのような薄情な女であったか? 見損なったぞ!」
「私は貴方を守りたい。そのためならば……」
「俺を?」
おそらく、この過去では、俺とアウグスタの間に深い絆があるのだろう。
アウグスタに何の過ちもない。しかし、俺は許せないのだ。
「気を確かに持て。メルクリオ!」
アウグスタは俺に身を寄せる。
俺は思わず身震いする。
「俺は、メルクリオではない!」
「え?」
「貴様はアウグスタではないし、俺もメルクリオではない。俺達は、英雄などではないのだ! わかったか?」
「……」
遂に俺は言った。
この女に言い切ってやったのだ。
「それでも、俺は左へ進む。英雄でなくとも、左へ進むのだ!」
「……」
アウグスタの笑顔が酷く歪んで見える。
アウグスタは、その人差し指でそっと俺の目じりを拭う。
「私は貴方の描く未来を信じている。自分の道を、夢の続きを突き進んでください」
「力尽きるまで戦い抜いて、己の道を切り開く。俺の活躍を、見ていてくれ!」
俺は、最後の力を振り絞り、その場に立ち上がる。
アウグスタの向こう側には、6体の巨人を描いた壁画が残されている。
俺は、アウグスタから左の道へと視線を移し、更なる一歩を踏み出す。




