31 黄昏に蠢く奇怪虫
帝都の神殿にて、二人が密談をしている。
「神託が下りました」
神官レギナだ。
その容色はいささかも衰えない。
「このような場で告げるものなのか?」
対するのはジガ。
すっかりと白髪が目立つ姿となった。
なお、俺はジガのお供として控えている様子。
「その内容は、貴方に知らせるべきものなのです」
ジガは、ゆっくりと目を瞑る。
告げられる前に、既に神託の内容を察しているのではなかろうか。
「……聞こう」
レギナは、芝居がかった動作で、厳かにトライデントを掲げる。
「ゼノン教を国教とせよ!」
「古き神話の神々が、新しい宗教におもねるというのはおかしな話だ」
「私達には、その是非を判断する権限がありません」
「それは耳障りのいい言葉だ。しかし」
「神の意志です」
「人の意志だ」
「神託を信じないというのですか?」
「取り繕ってはいけない。決定する責任から逃げてはならない。元老院が神託に仮託して、今後の方針を決定しているだけだ」
「元老院ではなく、最高神祇官です」
「同じこと。我々が今後を決っするのであって、神が決めたことに、ただ従うという無責任な考えは許されない」
レギナは、形のいい唇をかみしめる。
「今、人々は救いを求めています」
「彼らの小さな欲望を満たすことに意味はない。そして、皇帝は、今まで大きく間違えたことがない。今回もきっと、彼らのあるべき道を示すことだろう」
「私もかつては彼女の事を超越者であると考えていました。でも、私には、もう彼女の事がわからないのです」
「誰がこの世界に繁栄をもたらした?」
「わかってはいるのです。ですが、彼女はもはや得体の知れない存在……」
「彼女は人間だ。笑いもすれば怒りもする。小さき時分には、泣いたこともある」
「彼女は、自分だけを絶対的な価値として、他者を切り捨てるのです」
「広く、そして先を見据える視点。秩序を構築する能力。彼女の持つそれらの能力こそが、富国の源泉である」
ジガは意外にもアウグスタをかばっている。
もとはと言えば、ジガがアウグスタの力を信じて、彼女を英雄に仕立てあげたのである。
義理があるのだろうか。感傷に浸っているのだろうか。それともある種の信仰なのだろうか。
「誰が、望んで管理されるだけの存在でいたいと思いましょう?」
「それは、まさにゼノン教の考えだ。彼らは、権力者から自立するための虚構を作って見せた」
「権勢に無批判であることは、文明の衰退をもたらします」
「ゼノン教は、既存の権威を認めない。ゼノン教を容認すれば、既存の神話に取り込まれた英雄達と、真っ向から争うことになるのだぞ」
「既に、人々の心に英雄への尊敬の念はありません。大事なものは別にあるのです」
沈黙が訪れる。
しばらく後、ジガはぽつりと呟く。
「貴方とて、父上と戦いたくはなかろう?」
レギナは意図してこれを聞き流し、強く言い返す。
「今、各地で未曽有の規模の反乱と災害が起きています。皇帝は旗下の1万とともに帝都を離れ、反乱分子の討伐にあたっています」
「帝都を制圧する気か?」
「絶好の機会です。これを逃せば、二度とチャンスは訪れないでしょう」
「しかし、その1万は古代人の魂を縫い付けた殺戮兵器だ。衝突すれば、たとえ、メルクリオから引き継いだ貴女の裁定兵団でも無事では済まないだろう」
「ラケデモンも動きます」
「英雄ロビンが皇帝を裏切ると?」
「前線のロビンに代わり、現在、ウルバヌスがラケデモンを掌握しています」
「裁きの雷の再充填が済めば、勝ち目はないぞ」
「だからこそ、今なのです」
「話し合うべきだ」
「力なき者に、交渉する権利はありません」
「だとしても、権力の空白は、混沌を招く」
「そのために、用意は周到に済ませております」
「失敗すれば、後世において、貴女は神に歯向かった悪魔と呼ばれることだろう」
「無論、最初から覚悟はしております」
レギナは立ち上がる。
「なりましょう! 私が!」
既に、悩み抜いた上での決断なのだろう。
その言葉に迷いはない。
「第二代皇帝にッ!」
大きな軋みに直面し、それでも、偉人達は歯を食いしばりながら、歴史の歯車を旋回させていく。
俺の眼前で行われていた事柄は、そういうレベルの出来事なのだ。
しかしながら、カトーは、そして、俺は、何も期待されず、何もしない。
「一つ頼みがある」
人気のない街角。
俺の胸中を見透かしたのか、さりげなくウルバノは俺に話しかけてくる。
「アウグスタは瞬く間に戦乱を鎮め、今、アグリオンにてくつろいでいる」
「私は、その件には関わりたくないのです」
「彼の地へ向かってくれ」
「何故、私が?」
「答えは、きっと君の心の内にある」
「理解できません」
「次代皇帝の話は聞いたのだろう?」
「ええ、まぁ。私には関係のない事ですが」
俺の態度を、ウルバノは嗤っている。
「もう一つ言っておく。混沌の元凶はゼノンにある。そのゼノンを、私は先ほど収監した」
「何故、そのような情報を私に?」
「君の振る舞い次第で、君はアウグスタに重宝されることにもなる。それは、君のその無駄に長い人生の中で、最も栄えある瞬間になるかもしれない」
「私に、彼らの事を売れと言うのですか?」
「それも選択肢の一つだと言うことだ」
「貴方は、次代皇帝に協力すると聞きましたが?」
「それこそ、君には関係のない話だ」
この男の考えることは全く理解できない。
ただただ、純粋に狂っている。
「君の働きにより、この先もずっとずっと続いていくことだろう。君が主人公ではない、素晴らしい世界がな」
「私は、アウグスタの配下ではありません」
「では、何だ?」
「それは……」
「彼らの跡を継ぐに足る英雄か?」
「……」
「英雄であると、アウグスタに認定して欲しい。そうしてくれさえすれば、彼女に今一度忠誠を誓うこともできる。期待に見合った働きもするだろう。そういうことだな?」
「私は……」
「アウグスタの付属物だ。無理をしなくてもいい」
俺にはわかる。
ウルバノは、俺の精神を逆なでし、反発させて、俺の行動を操ろうとしている。
しかし、ウルバノの言葉に誤りはなく、そのとおりだ。
だが、それが何だという? そもそも、俺が英雄である必要などない。
権力者の傘に入り、しがない余生を謳歌できれば、それでいい。
「それでも、アウグスタは君を信用している」
ウルバノは俺の肩を掴み、声音を落としてなおも話しかけてくる。
「彼女と交流があったのは、遠い過去の話です」
「アグリオンの皇帝の間には、黒棺が安置されている」
「黒棺?」
「棺内には秘宝が納められている。その秘宝は、所持者に大人類の偉大な力を分け与えるものだ」
黒棺に心当たりはある。
だが、それがどうしたというのだ?
「そして、それもまた、選択肢の一つだということだ」
次の瞬間には、どことなく見覚えのある城に移される。
窓から見える城壁、街並み、そして円錐形の地形。これはまごうことなくアルデア城。
もっとも、城の西に広がっているはずの海洋はなく、茫漠たる大地に、立派な運河が引かれている。
「結局、世界は球形でできているようだ」
「それが正しければ、大陸の西から出航した船は、いずれ、大陸の東岸にたどり着く」
「その前に、大陸の西には更に別の大陸があると、そう報告を受けている」
「余の知らぬ世界があるというのだな」
談笑が聞こえ、振り向くと、廊下の向こう側からこちらに6人が歩いてくる。
一目見ればわかる。その圧倒的な存在感は、彼女たちこそが英雄であることを証明している。
「彼の地には、砂糖を噴き出す楓が繁茂しているそうだ。実際に、その苗木を貰った」
「それが真ならば、食事に彩りも与えられるというもの」
「運河の南側が空いている。大々的に栽培してみせよ」
「この地は交易の要衝でもある。各市の外縁にあったため今まで放置されてきたが、新しく都市を設けるべきであろう」
「しかし、先の変事で勤労者の数が減った。まずは、彼らの数が以前のレベルにまで回復してからではないか?」
変事というのは、一揆の事を言っているのだろう。
反逆者を殺戮した癖に、まるで、他人事のようなことを言っている。
しかも、それを咎める英雄もおらず、ただただ浮世離れした会話を続けている。
ふと、暗い感情が頭をもたげてくる。
結局、彼ら天上人には、民衆の怨嗟の声など届くこともない。
ただただ、遠い世界、遠い未来を見つめて、如何にも立派な会話を楽しんでいるだけなのではないか。
もっとも、俺は、この場で彼女らを批判できる立場の人間ではない。
「陛下!」
俺は勇気を振り絞り、目の前を通り過ぎようとするアウグスタを呼び止める。
アウグスタは俺を一瞥し、そのまま過ぎていく。
もはや、俺の声は届かないのか……。
「しばらくぶりだな」
アウグスタは、いつの間にか俺と対面している。
その姿は、帝国創設の時から何ら変わることなく、ただただ覇気に満ちている。
「お耳に入れたいことが……」
アウグスタは俺を一室に招き入れる。
意外なまでの俺に対する気遣いに、やや安堵の念を抱く。
「余の留守中に変わったことはあったか?」
顔を上げて、アウグスタの様子を伺う。
能面に静かな双眸。
しかし、何かが異常である。
俺は理解する。
その双眸は俺を見てなどいないのだ。圧倒的な高みから、俺の心を見透かしている。俺の心を通して、じっくりと帝都の現状を観察している。
眼前の化物は、その存在感を膨らませ、やがて空間を支配する。体の端から炭化していく感覚を得る。
得体のしれない恐怖感で、俺はまともに回答することもできない。
「その。腰痛が……。ジガ殿の」
「……」
何故だかわからない。
しかし、俺は楽になることを選ばず、あえて真実を隠ぺいした。
返答はない。
しばし、沈黙が訪れる。
「アッハッハッハ!」
見上げると、アウグスタは屈託なく笑っている。
その無防備な姿は抗えないほどに魅力的だ。
誰からも尊敬されてきた英雄の中の英雄。
力だけでなく、その人柄でも、多くの人々を魅了し続けてきた。
その理由は、確かに、彼女に会えば理解できるものだ。
「ネアの盾も老いたものだな。若い時分にはよく殴り合いの喧嘩をしたものだが」
「陛下に喧嘩を売るなど、恐れ多い……」
威圧から解放され、俺は注意深く周囲を観察する。
ウルバノの前情報どおり、そこには黒棺が無防備に横たわっている。
あれは、ネアの神殿に安置されていたものであり、アウグスタが秘宝を取り出した箱でもある。
「ジガと貴方と私。そして、神殿。あそこには、幼年期の暖かな思い出がいっぱい詰まっている」
アウグスタは眼差しを深くする。
そんな普通の仕草を見ていると、ふと、一つの仮説が浮かび上がる。
彼女もまた悩める一人間。
自然体の姿と求められる姿を天秤にかけ、結果として、求められる姿を長きにわたって演じてきたのだ。
そして、それは、おそらく彼女が秘宝を飲み込んだ時に、決定づけられたもの。
ネアの意志。
そんなものは虚構……。
安堵が心をよぎる。
と同時に、大きな喪失感が俺を襲う。
最果てまで踏破し、時間を遡行してまで求めた結果が、このようなつまらないものだった。
結局、超越者など存在しない。
ところで、彼女に超越者であることを求め、押し付けたのは、誰であったか?
紛れもなく、俺だ。
カトーではなく、あれは俺自身であった。
ならば、俺が彼女を救わなければならない。
アウグスタはいささかも顔色を変えることなく、言葉をつなぐ。
「反乱の首謀者はジガだな?」
一瞬遅れて、俺は、アウグスタの双眸がいささかも笑っていなかったことに気付き、体を硬直させる。
そして、その双眸は既に、俺の心中を読み取り終えている。
「いえ」
僅かな返事の遅れは、肯定と同じだ。
彼女は隙を見せ、その隙に嵌った俺は愚かな甘い情動にほだされた。
それが、命取りとなった。
ここに至ってようやく理解する。
得体のしれないこの恐怖感は、彼女のあり様が人間とかけ離れていることにある。
彼女には、情動や偏向など一片たりとも存在せず、もはや無機質ですらある。
善悪すら超越して、全ての事象を無感動に摂取し、支配し、世界を旋回させ続けている。そして、そのように為すべきことを当然のことと考えている。
つまり、俺は、彼女のことを理解できないことを理解したのである。
彼女は本物だ。
「何を笑っている?」
俺が?
「陛下!」
部屋の外から近衛兵が声を掛けてくる。
「ウルバヌス王が、謁見を求めています」
測ったような素晴らしいタイミング。
アウグスタは、俺を睨んだまま、部屋の扉に向かう。
「しばし外す。ここで待っておけ」
アウグスタが部屋の外に出た途端。
俺は、その場に崩れ落ちる。
情けないことに、彼女と対峙し、極度に緊張していたようだ。
だが、俺は有象無象の代表。だから、これでいい。
ところで、眼前には、黒棺がある。
静かに安置されている。
しかしながら、まるで風船のように、その存在が膨張していくような錯覚に陥る。
仮に、俺が手をかけたところで、絶対に開くことはない。
なぜならば、あれは、アウグスタを認証して自動的に開かれる代物だからだ。
超越者ではなく、古代人でもない俺を認証するはずがない。
そして、絶対に開かないものを、本当に開かないか試してみるというのは、犯罪ではない。
何ら危険性のない行為であり、犯罪の要件に該当しないからである。
だから、俺のこの行動に何ら問題はない。
俺は黒棺に向かい、躊躇なく手をかざす。
すると、驚くべきことに、黒棺は緑色に光り、ゆっくりとその上蓋が開かれていく。
そうであっても、俺のこの行動に何ら問題はない。
なぜなら、開くはずのないものが開いてしまったのであるから、故意はないからだ。
しかし、眼前に見える9つの貴石を前にして、俺は固まる。
俺は、この先の行動を決めねばならない。
この貴石を、アウグスタが所持すべきか、レギナが所持すべきか。
どちらが所持するかによって、両者の力の均衡はどちらにも傾きうる。
だが、これは俺の意志で決めていい話ではない。
これは、過去の人物の物語なのだ。
ゼノンの話によれば、現在、帝国創設から千年が経った頃合いである。
以前にかじった歴史の話からすると、間もなく帝国は滅亡する。
だとすれば、アウグスタは力を奪われたとみるのが自然だ。
つまり、レギナがこの貴石を所持したのが正史だろう。
だが、カトーがそんな事をする人物なのか?
俺は自我を発揮することなく、カトーの意志を正確にトレースしなくてはならない。
しかし、既に、カトーは有象無象でありながら、たいそれた任を受けてしまっている。
安全地帯から、超えてはならないラインを遥かに飛び越えて、空中を舞っている。
一体、どこに着地せよというのだ?
彼は、この閉塞した世界にどうあれと願ったのだ?
「警備長か?」
足早に部屋から離れようとする俺に対し、女性の近衛兵が声を掛けてくる。
「ヒ!」
「どこへ行く?」
「いえね? 少しばかり……その、腹を悪くしてしまいましてねぇ……。お恥ずかしいッ! その……、このような荘厳な場には慣れない身でして……はぃ。あぁ、陛下には、その何卒よろしくお伝え願えますかね」
「首尾よくやったようだな」
城を出たところで、更に呼び止められる。
「ヒ!」
「あからさまに怪しいな」
「何の事ですかね」
「入手した秘宝から人造人間を作る。対英雄戦の要になるだろう」
9つの貴石から9人の人造人間。
「何も見ず、何も聞かず、何もしない者よ。後は私に託すがいい」
「……」
「どうした?」
「渡さない……」
「は?」
「俺は違うッ!」
「狂ったか?」
もし、俺の行動が間違っているというのなら、止めてみるがいいさ。
「全て俺のものだッ!」
俺は懐から赤い貴石を抜き出し、これに食らいつく。
「ファッファッファッファ!」
嚥下する直前。
笑い声が聞こえてくる。
遥か遠く、おそらく城の向こう側からだろう。
幾重にも笑い声が重なり、反響し、激しく耳障りな不協和音となって襲い掛かってくる。
俺はカトーから引きはがされ、動けなくなり、その場に留まる。
カトーは何事もなかったかのように、9つの貴石をウルバノに手渡す。
世界は停滞し、やがて、動きを止める。
と同時に、まるでブレーカーが落ちたかのように、世界から光が失われる。




