02 スイートホーム
けたたましい鳴き声が聞こえる。
と同時に、街路樹から一羽のカラスが落下してくる。
どこか怪我をしているのだろうか。
カラスは地べたに這いつくばる。
それでも、カラスは、私を睨みつけ、身構える。
傷付き倒れた一羽のカラス。
それは何かに似ている。
カラスの儚い命は、私の手に委ねられている。
もっとも、私には、カラスを危害する気などない。
ただ、僅かな憐憫の気持ちだけがある。
私はゆっくりと手を伸ばす。カラスは死に物狂いで羽ばたく。
私の手は、カラスの血液に触れ、激しく明滅し、損傷する。
構わず、そのままカラスを抱き上げる。
しばらくして、カラスは動きを止める。
黒い羽根が無限に四散していく。
私は彼を救おうとした。
しかし、彼は彼自身の愚かな選択により、身を滅ぼしてしまったのだ。
彼は一体何なのだろうか。
それは、多くの愚者が群がり、その欲望と野心により運営される得体のしれないもの。
まさに、この異世界を表徴している。
そして、その結果、世界は理不尽に満ちているのだ。
ならば、多少の犠牲を払ってでも、誰かが、堅固な意思でもって、この世界をさっぱりさせねばなるまい。
大きな音が聞こえる。
俺は覚醒し、体を起こす。
間近から聞こえるじゃらとじゃらとした音に驚き、周囲を見渡すと、幾本もの鉄鎖が身体に巻き付いている。
愛用の手袋も靴も失われ、獣じみた手の平や足先が丸見えになってる。
「大渓谷まで、お主を追って来たようじゃな」
声の主を探す。
周囲は岩壁で覆われている。その形状は極めて無秩序。
どうやら、ここは洞窟の中らしい。妙に暖かい。
薄明りの下、岩壁にもたれかかるやせ細った老人がいる。
何やら、岩壁を掘って、抽象画を描いている様子。
俺は、仮面の位置を整えるべく、自分の顔面に手をやる。しかし、そこに仮面はない。
「誰が私を?」
老人は、現在地を大渓谷と言った。
俺は、人も寄り付かない僻地で目を覚ましてしまったということだ。
一体、そんな辺境に、誰が俺を追いかけてきたというのだろうか。
何の前触れもなく、再び巨大な衝突音が聞こえる。
洞内の入口は鉄の扉がはめ込まれており、この鉄の扉を外側から破壊しようとしているのだろう。
「愚かなる昏き影、と言えばわかるか」
わからない。
「何のために?」
「心当たりはあるだろう。しかし、安心せい。そこの扉は、一刻はもつ。それ以上は保障はせんがな」
そのまま老人は黙りこくって、作業を続ける。割と緊急事態であるはずなのに、悠長なことだ。
俺は、俺で洞窟の中を注意深く観察する。
鉄門とは間逆に、洞窟の奥へと通じる二つの道がある。
「お主は、今ここで選択をせねばならぬ」
老人は手を止めることなく、威厳のある声で俺に声をかけてくる。
「貴方は、この道の行き先を知っているのですか?」
「左の道は、ガルダ島へと通じている」
聞いたことがある。
確か、大渓谷は、海底の地下水道で西の島へと通じている。
しかも、西の島には悪魔が封印されているという。
そんな島に向かうのはまっぴらごめんだ。
「では、右の道は?」
「ワシにはそのような道は見えん。じゃが……」
老人はようやく手を止める。
そして、右の道を一瞥して、何の関心も見せずに言い放つ。
「お主は期待された役割を全うし、遂に、本来いるべき場所へと通じる道が開かれたということであろう」
それはつまりどういうことだ?
まさかとは思うが、俺が元いた世界に戻ることが出来るというのか?
俺を、しみったれた役どころに拘束し続けた、このくそったれな異世界から離脱する。
ああああ、もはや思い出したくもない過去の話だ。
もっとも、溢れんばかりの知能でもって、異世界に富を創造し続けた俺に対し、原住民どもからの感謝の言葉が皆無だったのは、真に腹立たしい。
しかしだ。
約3年ぶりに、我がスイートホームに帰宅できるというのだ。
まずは、湯船につかり、異世界で蓄積した疲労をさっぱりさせる。
伸ばした手足は、無論、鳥の足から人間の足に戻っていることだろう。
そして、苦いコーヒーを片手に、甘いフレンチトーストに食らいつく。用意するのは、砂糖の触感までする、糖分過多な一品だ。
もっとも、俺は無断で長期欠勤をしてしまった。上司からの怒号は必至だろう。
しかし、それがなんだというのだ。命まで取られるわけではない。事情を説明すれば、精神状態を疑われることはあるだろうが、解雇まではされないだろう。
むしろ、行方不明になっていた優秀な人材が戻ってきたとなれば、歓迎会まで開催してくれるかもしれない。
そうなると、アフター5は、課内で飲み会に行くことになる。新支店の近くには魚のうまい店があったはず。
今晩は、刺身の船盛で日本酒をあおるか。
おや、飲みすぎるな、だと?
いやいや、今日だけは特別ってやつよ。
酔っぱらったら、酔いがさめるまで、駅のベンチでボケっとしておけばいい。誰も、俺を襲うなんてことにはならないからな。
明日以降も、恒久的に続く平和な世界を満喫し、平穏な日常の中に、些細で月並みな幸福を見出し、年を重ねてゆく。
俺は、それでいい。それが唯一の選択肢であり、それが最善であり、それが俺の運命だったのだ。
それが、それが、きっといいことなのだ……。
「ガルダ島には、悪魔が封印されていると聞いたことがありますが、ご存じですか?」
「真実が封印されている、と訂正せよ。そして、その封印が解かれる日は近い」
「封印が解かれると、この世界は滅ぶのでしょうか?」
「強すぎる力は、世界の崩壊を招く。しかし、そこに超越者がいれば、結論は異なる。その強すぎる力を利用し、逆に世界は長きにわたる安寧を得るであろう。それはさながら、帝国の輝かしい歴史を繰り返すが如く」
「超越者ねぇ……」
俺は、つい、小馬鹿にしたような発言をしてしまう。
こんな世界がどうなろうが知ったこっちゃない。むしろ、俺に過酷な運命を与え続けた愚かな世界が滅ぶのは、いい気味ですらある。
そうだ、何も考える必要はない。
俺は、ただただ、右の道を選べばいい。
思わず、自身の黒の指輪が目に入る。
慌てて目を逸らす。
これは、禍々しいものだ。不吉で危険なものだ。俺が持って帰っていい代物ではない。かといって、その辺に捨て置くわけにもいかない。
あるべき場所へ返さなくてはならない。
老人は破顔し、続ける。
「やり残したことがあるというのか」
「ある物を託されました。持つべき者へ引き渡さなくてはならない」
「ワシのような凡人には、理解できぬ選択だ」
「妙な使命感です。私にも理解できません」
「4つの外道鉄門をくぐり抜けた先に、かの地は存在する。そこには神秘が潜んでいる。注意深く観察し、考察せよ。さすれば、求めるものに尋ねあたるであろう」
「まだ行くと決まったわけでは……」
「これを持っていくがいい」
老人は小袋を2つ投げてよこす。
俺は、空中でこれをキャッチし、中身をあらためる。
一つの麻袋には、豆が30粒程度入っている。
もう一つの袋は、動物の胃袋で出来ており、中身は水だ。
俺は急いで顔を上げ、老人を見る。
しかし、そこに老人の姿はない。
ただ、白骨化した人体が、まるで長年の責務から解放されたかのように、安らかに石壁にもたれかかっている。
そして、その側の壁面には、小人達にあらゆる恵みを与える、巨大な7人が描かれていたのであった。
次第に、鉄門を叩く音が激しくなってくる。
早々にこの場を立ち去らねばなるまい。
とはいえ、長旅になるかもしれない。準備は万全にしたいが、愚かな昏き影という奴に入口は塞がれている。
ならば、ここで準備を整えるしかない。
洞窟内に、使える道具はないだろうか。
鉄鎖が床に散らばっている。
地面には、黒い鉄剣、エクスクルジオが突き刺さっている。
まだ使用できる長い鉄鎖を回収し、胸から腹にかけて幾重にも襷がけする。その上で黒剣を背負う。
それ以外には、何もない。出立だというのに、とても心細い。
俺は、再度、右の道を見る。
薄暗い洞窟の中で、僅かに暖かな光を感じたように思う。
ゆっくりと視線を戻す。
そのまま、俺は二度と右の道を振り返ることはなく、左の道、悪魔が巣食うガルダ島への道に歩を進めたのであった。
地下水道はおそらく人工的に作られたものなのだろう。
一定の幅を保ったまま、どこまでも先へと伸びている。
しばらく進むと、巨大な黒い鉄門が行く手を阻む。
しかも、その鉄門は普通じゃない。上部には、大きな両目が付いており、俺の動きに合わせて、目玉が動く。
俺をその眼力で射殺さんばかりに睨みつけており、すこぶる不気味だ。
どこかから、声が降りかかってくる。
「覚悟せよ。覚悟せよ。我々は見ているぞ。お前の過去を。お前の未来を。お前の振る舞いを。お前の性情を。お前の魂を。死なば魂まで食ろうてやろうぞ!」
しかし、何の危害も与えることなく、怒号と共に自動で開いていく。
開かれた先は、全面つるつると濡れた岩肌で覆われており、かつ、人工的な気配を失っている。
天井からも地上からもタケノコ状の岩が伸びている。
中には、異形にまで変形し、まるで優美な観音様のような、しかし単なる岩が、その存在を主張している。
まさしく、鍾乳洞だ。全体的に、妙に赤く発光している。
おそらく、地下水道の一部は、鍾乳洞を利用しているのだろう。
とにかく、つるつるとしており、手で捕まる箇所もなく、歩きにくい事この上ない。
さらに進むと、洞窟の中央に、まるでラフレシアのような巨大な台座型の岩が鎮座している。
台座は、緑色の蛍光色にライトアップされている。まるで、現代の照明設備が設置されているかのよう。
新種の菌類でもいて、そいつが発光しているのだろう。
俺が、台座に近づくと、台座の上から一斉に羽虫が飛び立つ。
気持ちが悪くなるぐらいの数だ。
飛び去った後には、半分腐った1mほどの巨大な化物ネズミの死骸が転がっている。損傷は激しく、あばら骨まで見えている。
しかし、妙に頭骨が大きい。体の半分は頭部なのだ。
なんだ、こいつは。
こんな巨大生物が、過酷な環境である洞窟の中で、生きていたのだろうか。何を食ったら、こんなにでかくなるのだろうか。
そもそも、どうやって歩行していたのだろうか。
それとも、死後、何らかの作用によって、頭が肥大化したのだろうか。
まだ見ぬ世界にはまだ見ぬ危険が潜んでいる。決して油断していたわけではない。
それでも、幻想的な光景に出会い、どうでもいい思考を巡らしていた。
「みょーーん」
奇妙な音がする。
洞窟内の食物連鎖の頂点にいてもおかしくない、でかネズミ。
そいつのはらわたは、明らかに何かに食われた形跡がある。
危険が近い。
「キェアアアアアアアア!!」
激しい鳴き声が、洞内に響く。
反響のせいで、絶望的なまでに、敵の位置を把握するのが遅れる。
俺の腹から、鋭い爪が飛び出てくる。背中から腹部にかけて激痛が走る。
頭上には、天井に張り付いた巨大な毛むくじゃらな蜘蛛。
その一本。ピッケルのように鋭く、そして、ヌラヌラ輝く足が、俺を貫いていた。




