16 黄金の運命
帰ろう、我が家へ。
俺は、海岸線を一人南下している。
行く道は無人の野であり、向かい風が間断なく吹きつけてくる。
歩き始めて四日。ようやく、遠方にフッチ第一城砦が見えてくる。
目的地は、俺が召喚された廃神殿である。廃神殿の周辺に、現実世界に戻るための道があるはずなのだ。
少し立ち止まり、空を見上げる。
空は一瞬間、黄金色に輝き、そしてすぐに薄紫に染まっていく。
夜がすぐそこまで来ている。
近くに宿泊施設はなく、非常に物騒ではあるが、野宿するより他ない。
ちょうど、風除け出来る窪地があったため、大きな石を椅子にして腰を落ち着ける。
短靴を脱ぐと、足の裏は豆だらけである。
腹が減った。
そこで、革袋に詰めた水をすすり、黒パンにかじりつく。
出発時に、大量の食料を失敬したため、この点で困ることはない。しかし、もう少しうまいものはなかったのだろうか。
侘しいことである。
冒険は始まりかけていた。
しかし、ここで幕を閉じる。
思い返せば、異世界に来てから今に至るまで、苦難の連続であった。
何度も何度も実力以上のものを求められ、俺は、期待に応えようと必死に頑張った。しかし、一度たりとも期待に沿えることはなかった。
もう、無理をする必要はない。
そもそも、頑張る義理もない。
今までの出来事は、すっかりと忘れてしまおう。
今の俺は自由だ。何物にも縛られない。
望まぬ戦いをする必要はないし、見栄を張って、英雄を気取る必要もない。
辛い過去など、思い返すだけ損というものである。
こうして、俺は、本来の自分を取り戻すことが出来たのである。
ところが、ふと気づくと、俺は、ここ数週間の記憶に浸っている。
獅子を描いた王国旗。こぶりなイチジクの実。月桂樹の粗末な冠。そして、エクスカリバー……。
それは、これからの俺が、二度と関わることのない物品の数々である。だからこそ、今の俺には、色あせて見えるはずである。
そう見えるはずなのに、全て艶やかに思い起こされるのである。
なんだか、この世界に、忘れ物をしている気がする。
ふと、顔を上げる。
暮れなずむ草原において、草木は赤紫色に染まり、草陰は暗黒に沈んでいる。
そして、いつの間にか、風は止んでいる。
止んでいるというのに、草葉が揺れている。
嫌な予感がする。
俺は、素早く腰を浮かせて、そのまま、観察を続ける。
目を凝らすと、草陰に溶け込んでいる人影を見出す。
その数二つ。共に、黒いフードで顔を覆っている。
奴らは体をかがめながら、俺との距離を詰めてくる。
何者なのだろうか。
俺は戦場から逃げ出したのであるから、王国兵士が俺を捕まえにきたとも考えられる。
俺はコルビジェリ軍を打ち負かしたのであるから、コルビジェリ軍兵士が俺に復讐に来たとも考えられる。
黒フード達は、剣を引き抜く。
所属も目的も不明だが、少なくとも、話合いによる解決を望んでいないようである。
だが、こんなところで、終わるわけにはいかない。俺は、生きのびて、我が家に帰還するのだ。
だったら、戦ってやろうじゃないか。
俺は、グラディウスの柄を固く握りしめる。
しかし、俺の本能が警鐘を鳴らす。
すなわち、動けば、やられる。
突風が吹き荒れ、草原を撫でていく。
注意が逸れた、その僅かな瞬間。
黒フードの一人が、不意に足を取られて、その場に倒れる。
そのまま、一息のうちに、草深いところに引きずり込まれていく。
「うぎゃああああ!」
凄まじい悲鳴が周囲に響く。
次いで、機械的な咀嚼音が聞こえる。
何が起こっているのだろうか。草丈が高く、草むらの中の様子は伺えない。
しかし、もう一人の黒フードは、既に第三の敵を視認したようである。
俺に背を向け、そちらに向かって身構える。
「神よ。邪教徒共に裁きの鉄槌をッ!」
黒フードは飛び出す。
その直前。
「ハッ、フーーン!」
大きな鳴き声を上げて、草むらの中から巨大生物がむっくりと立ち上がる。
三メートルはあるだろうか。そのうち首から上が半分を占めている。
全体的に丸みを帯びている。小さな腕は、胴体に埋没しており、見る者に愛らしさすら覚えさせる。
一見すると、巨大サボテンのようである。
しかし、唐突に頭頂部が二つに割け、巨大な口が現れる。一転して、極悪なフォルムへと変化したのである。
何だこいつは。
この異世界には、こんな人智を超えた化物まで住んでいるのか。
そんな後出しみたいなのは、やめて欲しい。この世界が、自然科学の法則から外れていると最初から知っていたなら、ここに居着くことなどなかったのだ。
黒フードは、サボテンから素早く距離を取り、再び剣を構える。
俺は、不満を心に抱きながら、しかし、何をするでもなく、その場に立ち尽くす。
そんな俺に対して、サボテンは驚くべきことに、ゆっくりと頭を下げる。
俺も、つられて軽く会釈する。
「ご丁寧にどう……」
「ビヤッ、フーーン!」
凄い勢いで怒られた。
お辞儀の時間ではなかったようだ。
「ロホロホロホロホ」
サボテンはその後、穏やかに鳴き続けている。
まるで浮遊しているかのような不自然な移動の仕方で、時に素早く時にゆっくりと黒フードに迫っていく。
ついに、サボテンが、黒フードに五メートルと迫ったその瞬間。
黒フードは、剣を下から上に切り上げる。
とはいえ、彼我の距離は剣の間合いを超えている。だからこそ、その斬撃が、サボテンの身体に届くことはない。
であるはずなのに。
「イギョギョ!」
サボテンの身体から、緑の液体がほとばしる。剣刃から風の刃が放たれ、サボテンを切り裂いたのである。
サボテンは、無茶苦茶に全身を震わせ、猛り狂い、頭を振り回し始める。
大重量の動作につられて、突風が巻き起こる。周囲の草葉が、激しくなびき始める。
黒フードは突風から身を守るために、腰を落とす。
そこで、サボテンは急に動きを止めて、想像を超える俊敏さで跳ね上がる。
空中で躍動して翻り、口の先から黒フードに向かってダイヴする。
「ハッ、フーーン!」
黒フードは、腰を落としたせいで反応が遅れる。
そのまま、サボテンの口の中に納まってしまった。
サボテンは体勢を整えることもせず、飛び込んだままの格好で、咀嚼を続けている。
その様は、ゴミ収集車が、ゴミをすり潰すかのような強引さである。
確かに、黒フードは俺に剣を向けてきた。
サボテンは、そんな黒フードを退治してくれた。となると、サボテンは俺の味方とみることもできる。
しかし、そうは思えない。黒フードの次は、俺を狙ってくる。そんな予感がしてならないのである。
サボテンが黒フードを堪能している今なら、俺は逃げられる。
俺は、強張った全身に鞭を打ち、強引に後ずさりを始める。
「ビヤッ、フーーン!」
サボテンは、瞬時に立ち上がる。同時に、首を横に振って、口から涎を飛ばしてくる。
俺は、身の危険を感じて涎を避ける。
はたして、涎は地面に接着し、音を立てて地面を溶かしていく。
俺は、涎を避けるために僅かな時間、急停止した。
その僅かな時間に、サボテンは俺の眼前にまで迫っている。
俺は全力で逃げ出したい。
しかし、サボテンに背を向けると、サボテンの涎攻撃を避けきれない。
とはいえ、後ずさりしているだけでは、サボテンに簡単に追いつかれてしまう。
ここで戦うのか。
俺は、再びグラディウスの柄を強く握る。
だが、黒フードの必殺技ですらサボテンを倒すことはできなかった。ならば、素人の俺が、到底かなうはずない。
ここに至って、俺は、ようやく絶体絶命の窮地にあることを理解したのである。
サボテンは、頭をゆっくりと回転させ始める。
周囲には、徐々に突風が巻き起こる。
先程の一連の攻撃が、今、再現されようとしているのだ。
俺が、ここで動きを止めてしまえば、俺は黒フードの二の舞である。
そこで、俺は怒りに任せて、サボテンに向かってグラディウスを投擲する。
グラディウスは空中でくるくると回転し、変則的な軌道を描く。
しかし、サボテンの頭で軽く弾かれてしまう。
俺は、手元の武器を失ってしまった。
「ハッ、フーーン!」
サボテンは、得意げに叫ぶ。
同時に、回転を止める。俺相手に、突風を巻き起こす必要すらないと考えたに違いない。
そのままゆっくりと、こちらに迫ってくる。
しかし、俺の足はぶるぶると震え、逃げることすらかなわない。
「来るなぁ!」
その叫びを合図に、サボテンは躍動する。
身体を曲げて、ずんぐりとした頭頂部をこちらに向ける。
頭頂部は二つに割れて、大きな口となる。口の中には鋭い歯が幾重にも並んでおり、しかも真っ赤に染まっている。
終わった。
ところが、俺が食われる直前。
サボテンの頭が、俺の眼前で地面に埋まる。
「ビヤッ、フーーン!」
サボテンはもがくが、体勢を取り戻すことはかなわない。
「カエサル!」
颯爽と現れたのは、カエサルである。
そして、カエサルが、サボテンの頭を押さえつけているのである。
サボテンは苦しそうに震える。
サボテンの腕は短く、カエサルを腕で払いのけることはできない。したがって、サボテンとしては、もがく以外に方法がないのである。
しかし、その程度では、カエサルの膂力を跳ね除けるには至らない。
そのままの体勢で、時が流れていく。
いつの間にか、周囲は暗くなり、月光が草葉を照らし出している。
カエサルがサボテンの頭を把持してから、どれぐらいの時間が経っただろうか。
少しずつ、サボテンの動きが弱々しいものになっていく。
やがて、サボテンは地に膝をつき、ゆっくりとその場に倒れ込む。
まるで、大きな風船が倒れるような、危機感を感じさせない倒れ方だ。
こうして、戦いは幕引きとなった。
呆気ない幕引きであった。
あれほどまでに禍々しかった化物が、何の劇的な展開もなく沈んだのである。
いや、劇的でないなどとはいえない。
そもそも、俺は、偶然にもカエサルと親しかった。
それなのに、俺は、カエサルにも黙って、王国軍から抜け出てきた。しかし、カエサルはこの広い世界の中から、偶然にも俺を見出した。しかも、偶然にも、俺が死ぬ直前にである。
その上、カエサルは偶然にもサボテンより強力であった。
つまり、偶然に偶然が重なり、俺は命を拾ったのである。
これを劇的といわずして、何というのだろうか。
俺は確信する。
どんな困難に遭っても、俺の運命は、絶対に切り開かれる。
圧倒的な幸運が、俺に微笑みかけている。黄金の階段が、俺を輝かしい未来へと誘っている。
主人公だ。
間違いなく、俺は、この世界の主人公だ!
「おっしゃああ!」
カエサルとハイタッチする。
その時。
遠くに、騎兵の姿が見える。全部で三騎である。
こちらに駆けてくるが、逃げるまでもない。こちらには、カエサルがいるのだ。負けるはずがない。
「おおい! 探したじゃないか!」
親しく語り掛けてくる。
「何者だ?」
「ハハッ、怖い顔すんなって。ヴィゴ様だぜ」
よくよく見ると、タレ目の男である。彼は、つまり、七英雄の一人である。
「……」
「こんなところで、呑気な奴だなあ」
「要件を言え!」
対して、ヴィゴは口を開くが、そこでサボテンの哀れな姿を視認する。
まじまじと見ている。
「アウグスタが、お前のことを邪なる者と戦っている、だなんて庇っていたが、まさか本当だったとはな」
アウグスタが、俺のことを信用しているはずはない。
ならば、何故、彼女は俺をフォローしたのだろうか。わからない。
しかし、その言葉に乗らない手はない。
「邪悪の化身を、成敗してやったまで」
「こいつは、暗黒教団の枢機卿だな。大物の中の大物だ」
「ふむ。そんなところか。しかし、私からすれば、雑魚に過ぎなかった」
「相変わらず常軌を逸した強さだな、お前」
「それで、君は、私を連れ戻しに来たのか?」
「皆心配している。お前が王国を見捨てたんじゃないかってね。邪なる者って奴も倒したことだし、早く戻って来てくれよ」