03 清き流れと濁った淀み
沈んだ気持ちを回復させる時間などない。
さっと切り替えて、次へと進む。
次に訪れたのは、街外れの丘の中腹。
エニシダの濃緑の葉が一面に生い茂り、羊が放し飼いにされている。
木々の合間にぽつんと小洒落た石造りの小屋が建っている。
小屋の裏手には崖から滝が垂れており、滝壺は小さな池となっている。
その小屋の浮世離れた様は、もはや庵といってもいい。
偶然にも、庵の中から一人の少年が現れる。
しかし、俺の顔を見るや否や、庵の中に逃げ込もうとする。
「君、待ち給え」
少年は、半開きの扉の向こう側から、慎重にこちらの様子を眺めている。
人見知りなのかな?
「イクセル老師に会いに来た。ご在宅かな?」
少年は慌てて頭を横に振る。
そして、再び庵の中に引っ込もうとする。
不躾ではあるが、少年の肩を掴み、さらに問いかける。
「では、どちらにお出掛けか?」
「風に逆らわず。光を追わず。されど気の向くまま。心の赴くまま」
浮世離れしている。
元サラリーマンの俺には理解の出来ない事柄だ。
「いつ戻られる? 今晩はお帰りになられるか?」
少年は頭を横に振る。
わからないということか。
「では、もし戻られたら、私、レオナルディ公爵がお邪魔したこと、明日再度伺うことを伝えてくれるかな」
「あい」
俺は、染色した亜麻のハンカチを、土産物として少年に託す。
少年は、いそいそと庵に逃げ込む。
さぁ、どうしようか。
夕焼け空の下、途方に暮れる。
イクセルはまるで仙人のような暮らしをしている。いつ出会えるかもわからない。
しかし、俺に与えられた猶予はたったの3日。
このままだと、間に合わないかもしれない。
この調子だと、ロビンもイクセルも頼ることは出来ない。
ならば、次はカタリナ……。しかし、なぁ。
かつての彼女は、姉貴風を吹かせてくることはあるが、それでも面倒見がよく、誰からも気さくに話しかけられる人物であった。
変なところで研究熱心であり、しかし、それを周囲に知られないように、とぼけたトーンで応酬する。
俺も、そんな彼女の明るさに救われることが多かった。
しかし、彼女は俺が知らない間に急変してしまった。
意固地なほどに自分の価値を誇示し、おもねる人間には猫なで声を、距離を取ろうとする人物には罵声を浴びせる。
かつての姿を知っているだけに、そのいい思い出が汚されるのは嫌だ。変質した彼女に会うのは、とにかく気が重いのだ。
もっとも、彼女の行動原理はわかりやすい。したがって、彼女を操縦するのは比較的容易。
そして、俺の崇高なる目的を滞りなく実現するためには、心を無にして、断行せざるを得ない。
翌朝。
再び、ジーナにカタリナ宅に向かわせ、訪問の予約を入れる。
と同時に、俺は一縷の望みをかけて、先にイクセルの庵を再訪する。
庵の脇に張られた池の周辺には、セリが群生している。薄緑色の花が満開だ。
その花を摘み取る細身の男が一人。働き盛りの年齢であろうに、まるで世俗とは隔絶されたような淡い印象。
俺を振り返り、涼やかに発言する。
「公爵殿かえ?」
「いかにも。イクセル殿に会いに来た。彼はご在宅かな?」
「いないねぇ」
「お戻りは?」
「さあぁて」
呆けた感じで応えるのみ。
「あなたは、イクセル殿の従者か?」
「違うよ。ただ、セリの花を摘みに来ただけさ」
「……」
よくよく見ると、彼の顔は、思い出の中のイクセルの顔によく似ている。
親戚だろうか。それにしては似すぎている。
「咲きおごる静謐の花は、僅かな日時で散りゆき、やがて実を結ぶ。そして、誰に看取られることなく枯れていく」
仙人といえば、とにかく、移ろいゆく世界をそのまま受け入れることを好む。
俺のような俗物にとって、それは、大自然の法則を受け入れてしまえる自分は格好いい、他とは一味違うのだぞ、というような自己満足にしか思えない。真に言いたいことなどまったく理解できない。
もっとも、その論調に表面だけを合わせることは、朝飯前だ。
俺は相手の意を汲んで、相手の言葉に続ける。
「だが、同じ土地にこぼれ落ちた実は、やがて芽吹き、再び花を咲かせる。無窮の時間にて、同一周期が永劫繰り返される」
「しかし、今年の命と来年の命とは別のもの。今年終わったものは二度とその花を咲かせることはない」
「はて? セリの株は越冬すると聞く。つまり、同じ株が何度も花を咲かせると」
「ホッホッホ。小さな事象をよく理解していることだ。ならば、古株であるところの時の翁からの言葉を伝えておこう。『いつか力になる。しかし、今はその時ではない。今は、新しい株を頼るがいい』と」
男はニコニコしながら、すっと小屋の中へと消えた。
煙に巻かれたような気分だ。
気を取り直し、カタリナ宅を目指す。
カタリナ宅は街中にある。
大運河に面した、商業地区の中でも一際賑やかな区画に移動する。
公会堂の隣。
その公会堂に張り合うような大きさで造られた、もはや宮殿とすらいえる建造物。
周囲の屋根が赤茶色であるところを、あえて青緑の屋根をふき、至るところに装飾が施しており、やたらと主張が激しい。
これだけでも、家主の性格が伺える。気が重い。
「で、何か用?」
現れたカタリナは、俺を一瞥し、言い放つ。
その態度は、以前俺の領内にやって来たときの、取り繕ったものとも違う。
「ご無沙汰している。この度、元帥の任を受け……」
「あ。ちょっと待って」
不自然に手の先が震えているカタリナ。
使用人に指示し、ブドウ酒を卓に運ばせ、一人嗜み始める。
室内は、物が乱雑に散らばっている。
美しい内装も台無しだ。
カタリナ自身はというと、寝起きなのか、だらしない格好に加え、不健康そうな青白い顔をしている。
やがて、ブドウ酒を飲んだことで、段々と血が通ってきたのか、震えが止まる。
突然、長い髪を後ろでくくり、後頭部をぽりぽりとやりながら、小さくあくびをする。
待たせている間、俺に顔を向けることはなく、とにかく俺に興味がない様子。
あまりの態度に、俺は少しいらっとする。
天上人である枢密顧問官様からすると、俺など地を這う虫程度、とでも言いたいのだろうか。
待て待て。俺に対して素を見せるということは、つまり、俺との関係を遠いものとは考えていないからだ。
そう、善意で解釈してやる。
「昨日、ロビン殿を見舞った。ロビン殿の件は、誠にご愁傷様である」
「兄さん? あの人も馬鹿だよね。大した能力も持っていないのに、出しゃばっちゃって。それで、致命傷を負って、そのまま寝たきりなんでしょ? 格好悪いったらないわぁ」
「使命感を持って望んだ結果だ。決して格好悪いことではない。むしろ誇りに思ってもらって大丈夫だ」
「はいはい。兄さんも君も本当につまんないガキだよ。誇りとか名誉とか、人の作った、何の意味もないものにぶら下がろうとする。大人の余裕みたいなのがないんだよね」
「私はさておき、ロビンについてはそのとおりだな」
妙にしんみりしたカタリナの物言いに、僅かにロビンへの愛着を感じ、俺はやや親しみを感じる。
こんなになっても、生来の性質は残っているのだ。
「枢密顧問官になったと聞いた。激務の合間に会ってくれて感謝している」
「はぁ? 激務? あたしをおちょくっているの!?」
突然、金切り声を上げる。
「単なる言葉の綾である」
「あんた、あたしのことを笑いに来たんだよねぇ? 英雄の癖に、こんなにだらしのない姿になってしまうなんて、お笑いだって! でも、全部あんた達が悪いの。そのこと、わかっているんでしょうねぇ? あたしが、こんなになったのも全部あんた達のせい! あんた達が、あたし達に勝手な期待を押し付けて! あの子は死んでしまった! なのに、追悼の言葉もない! どうしてくれるんだよぉ! もう、帰ってよぉ!」
その時。
突然の闖入者がやって来る。
「おや? これはどういうことですかな?」
「今日は枢機卿様とお会いする日だった……」
カタリナは先程の剣幕を忘れたかのように、ぽつんと呟く。
現れたのは、なんとイーヴォ。
カタリナは取り乱した様子で、いそいそと立ち上がり、慌てて服の乱れを正す。
その上で、愛想笑いをしながら、イーヴォに自身の隣への着座を促す。
どうやら、ダブルブッキングをしてくれた様子。
しかも、俺よりもイーヴォを優先させている様子。
「これはこれは。ご機嫌麗しく。今日も素敵なお日柄と土手っ腹ですわね」
カタリナは、甘えた声を作る。しかし、その発言内容は支離滅裂。
対するイーヴォは冷たい声で言い放つ。
「公爵殿とはどういうご関係かな?」
「まったくの無関係です。こんな人知りません」
「ほほーう。では公爵殿に尋ねる。麗しの英雄と、どのようなお話をなさっていたので?」
腰を浮かしかけた俺を、イーヴォは深い眉の下から睨みつける。
俺は面食らう。かつてないほどに激しい感情が見て取れる。
一体、イーヴォは何を疑っているのだろうか。
「ロビン殿を見舞ってきたので、その容態などを伝えておこうと思って」
「ふん。そんなこと医者に任せればよいではないか!」
何故か激怒している。
再びイーヴォはカタリナを見つめ、その真っ白な手をとって、これ以上ないぐらい堂々と金貨を握らせる。
「はわわぁ。素敵。カタリナぁ、嬉しいぃ!」
夢見心地に呟くカタリナに対し、イーヴォは言う。
「もう、一束用意しておりますぞ」
宅の上に、金貨の束が置かれる。
「あたし、あなた様のおかげで生まれ変わることができましたわ。神様のためなら何でもしますぅ」
「公爵殿は邪神の使徒。あなたは、そんな男を邸宅に引き入れてしまった。もう、この部屋には瘴気が満ち溢れておりますぞ!」
イーヴォは、金貨の束をカタリナから遠ざける。
「ごめんなさい。ごめんなさい。もう、二度とこんな男とは話しません。許してぇ」
「ええ! 賢い子です」
俺は何を見せられているのだろうか。
ただただ胸糞が悪い。
「私は一旦失礼する」
その俺の動きを静止する勢いでイーヴォは言い放つ。
「公爵殿は、貴女に従軍するよう頼みに来たのですよ」
「え? うそぉ?」
「枢密顧問官であるあなたの権威がなければ、彼は、一兵卒すら動かすことが出来ない。だから、あなたにお願いをしに来たのです」
「やだぁあ! また、戦えっていうの?」
カタリナの瞳は宙を仰ぐ。
「嫌らしいことに、あなたの威光を利用しようとしたのです。さり気なく!」
「え? ええぇぇ! あたしに媚を売って、あたしを利用しようとした! あたしの機嫌を損ねなかったか、おどおどしながら、いちいちずっと考えながら喋っていたんだぁ。あたしが笑ったら、好印象を与えられたと思って、仮面の下では気持ち悪い笑顔を浮かべていたんだぁ! アハハハ! この人、とんでもない変態さんなんですね。近寄らないでぇぇぇぇ!」
「でも、従軍したら最後、あなたは富と地位を全て奪われてしまいます」
カタリナは見る見る間に怒りの顔つきになり、オドロオドロシイ声で怒鳴り散らす。
「は? ざけんなッ! あたしのものはあたしのもの! こいつ、泥ゴーレムに作り変えてやろうかッ!」
俺は、やはり逃げるようにしてカタリナ宅を後にしたのだった。
ため息しか出ない。
何だあれは?
酒に溺れ、お金に溺れ、低俗な欲望の虜となって、しかも、イーヴォの言いなりになっている。
あんなもの、既に七英雄の一人ではないな。
しかも、イーヴォが俺に対して悪意を抱いているのは予想外の出来事だ。
一体どうしたというのだ。
悩みがあるなら、ちゃんと俺に話そうな。
ところで。
ベッドに伏せているロビン。
行方不明のイクセル。
アル中のカタリナ。
加えて、偽物のメルクリオ。
彼らに王の補佐役が務まるとは到底思えない。
つまり、枢密院の中にまともな奴など、ほぼいないといっていい。
とすると、枢密院というのは、ただの飾りではないか。
ただただ、国民からの支持を囲い込むために、七英雄の名前を持ち出した。
それは、貴族から政治参加権を奪い、強力な王権を実現するための道具。
いや、それも違う。
王に集権しているとは思えない。
これは宰相の発案ではないだろうか。
宰相の意志を通すために、枢密院という大道具を用意した。
王と枢密院が国民からの信託を受けて、国政を執り行っていると見せかけて、実は全てを宰相が操っている。それにより、宰相は、自身への集権につき、貴族や国民からの批判を逸らすことも出来る。
宰相は、当然、枢密顧問官にろくな人間が残っていないことは知っていた。
それを見越して、俺との賭けを了承した。つまり、出来レースという奴だ。
全て、宰相の手のひらの中にあるということか。
糾弾することは出来る。
しかし、宰相のことだ。その場合は、直ちに返り討ちを仕掛けてくるだろう。
そうなると、今の俺には何の後ろ盾もない以上、簡単に宰相に潰されてしまう。
ならば、この状況を受け入れつつ、密かに打開策を探るべきだ。
圧倒的不利な立場。
しかし、諦念はない。
なんせ、俺は暗黒卿なのだ。
さぁ、最後はアウグスタ。
彼女の邸宅を訪れることにしよう。




