32 不可侵の聖域
「いいえ。初対面のあなたに話すようなことではないわ」
「そっか」
「でも心配してくれてありがとう」
「いえいえ。じゃあ、僕は戻るね。僕の魚を待っている人がいるからね」
少年は少女に別れを告げて、貧民街の方角へ歩き始める。
しかし、少女も同じ方角へ向かう。
「あれ? 君もこっちなんだ? てっきり高級住宅街の住人だと思ったんだけど」
「西の区画にある、おいしい羊肉のお店に行きたいの。少しばかり思い出があって」
「黒羊亭のことかい?」
「そうよ」
少女は少年と肩を並べて歩き始める。
少年は、貧しい格好をしているにもかかわらず、どこかしら気品がある。
少女がよく知る、魔法学院の幼きいたずら小僧達とは違った、魅力的な雰囲気を持っている。
不意にいたずら心が湧き上がる。
それは、つまらない行いをして、自身の不幸な身の上、望まぬ婚約の件を、少しでも忘れてしまいたいという気持ちから来るものなのかも知れない。
少女はひょろひょろの少年を値踏みし、挑戦的に話しかける。
「どうかしら。どっちが先に黒羊亭までたどりつくか、勝負してみない?」
幸い、動きやすい服装をしている。
対する少年は、どこまでも気が優しい。
唐突な挑戦に対して、決して拒むことはしない。
「わかった。僕、負けないよ」
返答を合図に、少女は少年を置き去りにして、恐ろしいスピードで湖畔を走り始める。
少年は一瞬呆気にとられたが、それでも気を入れ直し全力で追いかける。
結局、黒羊亭につくまで少年は少女に追いつけなかった。
「私との距離を保つなんて初めてよ。なかなか見どころがあるわね」
「ははは。こう見えて、決して体を鍛えていないわけではないからね」
二人して黒羊亭に入る。
アンリは、捕まえた魚を主人に売却し、小銭を得る。
たとえ、王子と崇められてはいても、決して奢ることはない。
率先して軍資金稼ぎに取り組んでいるのだ。
キアラはアンリに同じ卓に着くように誘う。
「ハハハ。格好悪いけれど、僕には贅沢をするお金はないからね」
「それぐらい、私が出すわよ」
「君にも悪いし、食事を摂らずに、僕の帰りを待っている友達にも顔向けできないよ」
「そう。なら、無理にとは言わないわ」
「ありがとう。どうぞ、あなたにも素敵な出来事が訪れますように」
アンリは軽く手を組んで、神への祈りを捧げる。
その後、二人はあっさりと別れる。
貧民街の最奥にある反乱軍のアジト、廃神殿にて。
屋根は穴だらけであり、しかし、そのために神々しき光が屋内に差し込んでいる。
幹部が集まったところで、ファウストが口火を切る。
「伯爵領の最北の砦に加え、山間の砦が完成すれば、拠点は2つとなります。行軍可能範囲も大きく拡大します」
今まで、自身を忠義に縛って生きてきたファウスト。
しかし、その本質は生粋の武人。
アンリ軍全軍の総指揮の任を与えられ、王国への忠義を一旦保留とし、無自覚ながらも国盗りの面白さに心躍らせている。
もう一人の武人、コルベールが続く。
「俺からも報告。新たに50人の同志が仲間に加わりました。総勢はえっと」
「600です」
ファウストが補足する。
いずれも第一級の武人ではあるが、融通の効かないファウストとちゃらんぽらんなコルベールと、その性格は大きく異なっている。
「雪解けを待って兵を動かそう。進撃ルートはどうしようか。皆の意見を聞きたい」
まずは、ファウストの意見。
「デルモナコ伯爵家は、派兵の動きを鈍らせております。加えて、先日、我軍は、伯爵の僚友である子爵を退けましたので、しばらくは子爵からの援護も期待できないことでしょう。ならば今がチャンスです。伯爵を打ち取り、アンリ様が伯爵領にて教国の復活を宣言されることを具申します。そうすれば、さらなる同志を得られ、次のステップに進めましょう」
次にコルベール。
「死に体のデルモナコを攻めるのは俺は嫌だな。それよりも、活きのいい暗黒卿を叩いておいたほうが、いいと思う」
最後にセリア。
「暗黒卿の領内には、豊かな村が多いと聞きます。彼らが仲間になってくれたなら、私達の軍資金の問題も一気に解決するかと思います。子爵領への進撃に賛成します」
アンリは、皆の意見を頭の中でシミュレーションする。
天才的な頭脳でもって、戦略・戦術を組み立てるのは、実は彼自身なのだ。
ヘルミネがぽつりと呟く。
「子爵様は、伯爵領、公爵領との境付近に新しく関所を設け、私達に対する防衛を強化するとともに、周辺の領民から富を収奪していると聞きますわ」
「なんだって! 結局、俺達と徹底抗戦する腹づもりなのかよ」
場は静まり返る。
暗黒卿には、反省していると言わせたはずなのに、その言葉は完全に虚偽であり、騙されたとして憤りを感じる者。
無意味に、アンリ軍を刺激してくるその意図を計りかねる者。
かろうじて正面衝突を回避したところを、無神経にもあちらから再び衝突して来ようとするその態度に絶望する者。
各人思いは様々。
しかし、誰の目にも明らかなのは、暗黒卿は決して尻込んではいないということ。むしろ、戦いをしたがっている。
アンリは、努めて心を落ち着け、ゆっくりと発言する。
「暗黒卿は反省をしていた。そのことについて皆はどう思う?」
「彼は、反省なんかしませんよ。そういう人間ではありません。まったく、王子はお人好しなんだから」
セリアが応える。
同席者全員がこれに賛同する。
暗黒卿の今回の行動は、ほぼ全員の不興を買ってしまったようだ。
「僕は彼のやりように怒りを覚えている。でも、彼にはとてつもない強い情熱がある。彼は方向性を間違っているだけのようにも感じられるんだ。できれば僕達に抵抗しないで欲しかった……」
コルベールが軽口を叩く。
「それは、買いかぶりだ。さっさとぶっ潰しに行こうぜ!」
ファウストは諌める。
「私は反対です。子爵と戦うのはもっと先にすべきです。彼は実力を隠蔽しています。前回の戦いを省みるに、彼の用兵術は王道ではありますが、巧みであります。不気味に感じるのです。おそらく、今までの敵と同じようにはいきません」
アンリは、大きく息を吐く。
「時間はまだある。少し考えさせてくれ」
「やっほー。今日も素潜りなんだ?」
「日課だからね」
アンリは軍資金稼ぎのため、毎日湖へ赴く。
素潜りで魚を捕まえた後、岸辺で休息し、キアラとのとりとめのない会話に花を咲かせる。
それが日課となっていた。
「私には従兄弟がいるんだけれど、彼は兄のような存在なの。彼を頼リに思っていたのに、私、その従兄弟の陰謀によって、欲望まみれの僧侶と婚約させられるのよ」
「それは酷い……」
「別に、他に好きな人がいるわけでもないし、言われたとおりお嫁さんになるのがいいことだとは思うのよ。そうすれば、苦労することなく優雅に生涯を全うできるでしょうね。でも、その代わりに籠の中の鳥のような、自由のない生活を強いられることになる。私は、今まで何のために学んできたんだろう。私の手は旦那様と手をつなぐためにあるのではないって、そう思ってしまうの」
「従兄弟を説得することは出来ないのかい?」
「彼には心がないわ」
「僕は君を救い出したいと思う」
「ありがとう」
大胆に行ってのけるアンリに対して、満更でもない様子でキアラは応える。
淑女として扱われるのは、これが初めてなのだ。
「でも、無理よ。彼は暗黒卿と呼ばれる、悪魔のような人物なの」
「暗黒卿!」
「知っているの?」
「僕には、彼の呪縛から人々を解放する使命がある」
「え?」
「諦めちゃ駄目だよ。人には誰しも本来的な役割があるはずなんだ。人に押し付けられた役割について、本当に自分がそれをなすべきなのか、考えなくちゃいけない。思考放棄してはいけないよ」
「男って、皆役割って言葉が好きなのね。まるで感情がないみたい」
「感情の赴くままに動いて、それで到達した役割が、君にとっての本来的な役割なのかも知れない。僕は君の感情を否定しない」
「そうよね! 私もそう思う。お陰様で、気が楽になったわ」
キアラは、ようやく明るい笑顔を取り戻す。
しかし、アンリには、その笑顔が弱々しいものに思えた。
「君も僕と来て欲しい。君は、暗黒卿に無理やり従わされているだけなんだろう? 彼と戦おうよ」
アンリはキアラに手を差し出す。
キアラはその手を取らず、後退りする。
「あなたは……。反乱軍の人なのね」
「君なら理解してくれると思った」
「誰にも言わないから、もうここには来ないで」
「その少女は悲しい顔をしていた。たとえ、強大な敵であろうとも立ち向かわなければならない時がある。おそらく、今がその覚悟を決める時。逃げるのではなくぶつかることで開かれる道がある。暗黒卿領内への進撃を当面の目標とする。おそらく今までで最大の戦いになることだろう。今一度、皆の力を僕に貸してくれ!」
アンリは、同志に向かって宣言する。
一同はリーダーの決定に従い、さっそく再戦に向けた準備を為すべく、各地に去って行く。
残ったセリアが、落ち込んでいるアンリの話し相手になってやる。
「どうしたの? いつも皆に元気を分け与えている君が落ち込んでいるなんて、君らしくないじゃないか?」
「少女は自分を助けてくれとは言わなかった。でも、彼女は今も、暗黒卿に様々なことを強制されて苦しんでいるんだ。どうすれば彼女を救えるだろうか?」
「……。だったら、暗黒卿から彼女を解放してあげなきゃいけない。格好いいところを見せてあげようよ。彼女は、君を待っていると思うよ」
セリアは少しばかり心を痛めながら、心にもないことを言う。
「ありがとう。悩んでいても仕方ないね。必ず、僕は彼女を保護することにするよ」
アンリはいつもの優しい笑みでセリアに応える。
アンリが去った後、ヘルミネはセリアに話しかける。
「それで本当にあなたはよろしくて?」
「え? どういうこと」
「アンリ様は誰にでも優しいお方。特に、保護対象には惜しみない愛を与える方ですわ」
「そうだね」
「わたくしはあなたの気持ちがわかりますわ。無理に笑顔を作らなくても構いませんの」
「そんなんじゃないよ」
「その気持ちは初めてのものなのでしょう。大切に思う相手が別の誰かに思いを寄せている。辛いですわよね。なのにあなたは、相手が気持ちよく使命を全うできるように、精一杯元気を振りまく。わたくしはそんなあなたを見ていられませんの」
「……。正直なところ、僕には自分の気持がわからないよ。でも、本当にそんなんじゃないから」
「アンリ様は素晴らしい方。誰もが頼りにしていることでしょう。でも、実は儚い一面もお持ちなのです。人の笑顔を見られるなら、自分は苦しんでもいいという、あなたとそっくりな一面」
生きの良い獲物を前にして舌なめずり。
ヘルミネはそんな下品な魂胆を、完璧な聖者の顔で繕い、表面だけの優しさでセリアに寄り添う。
「だからこそ、あの方を理解し、真に支えてあげられるのは、あなただけ。他の女はあの方を駄目にしてしまいますの。私から是非、お願いいたします。あの人の側から決して離れないでくださいまし」
数日後。
王都にて。
イーヴォ枢機卿とビルヒリオが密室で会話している。
守護者である聖堂騎士団の団員3人が、壁際に立ち並ぶ。
「私を愚弄するのか!」
イーヴォは激昂している。
「お声が大きいですよ」
ビルヒリオは冷たく言い返す。
「何故じゃ! あれほど親しくしておったキアラ様が! 私との婚約を断ったというのか! 何かの嘘ではないのか? 私は枢機卿なのだぞ? 枢機卿というのは、世界中でたった13人しかいないのだぞ? しかも、私はアルデア大陸では唯一の枢機卿なのだぞ? もはや、神と同一の存在と言っても過言ではない。わかっておるのか? その権威は地の果てまで及ぶ。わかっておらんのではないか?」
「ただただ、殿下に嫌われてしまったのではありますまいか?」
「嫌われた? そんなことはあろうはずがない! 私は枢機卿なのだ。嫌われる要素がどこにあろうか! むしろ、私を好きになる要素しかないわい。そうだ、気が付いたぞ! 私とキアラ様との仲を引き裂こうと画策した不届きな者がいるはずじゃ。何たる恐ろしい陰謀、神に唾するような最低の悪行を考えつくものだ」
「はぁ……。一応聞いておきますが、それは一体誰なのでしょうか?」
「それを調べるのがお前の仕事であろう? 何をぼさっとしておるのだ」
「私は、あなたの私事に協力するつもりはありませんよ」
「私事!? なんという勘違い! 私は枢機卿であり公人である。公人の私生活は全て公事に決まっておろうが!」
手がつけられない。
聖堂騎士団の一人が、低い声でイーヴォに話しかける。
「恐れながら報告します。キアラ殿下は魔法学校からレオナルディ子爵領を経由し、レオナルディ城に向かわれたそうです」
「ほう? 子爵領を? うむ? ということは、子爵領滞在中にキアラ様は何らかの影響を受けてご意思を変えられてしまわれたと考えるのが自然だ」
イーヴォは名探偵のように、腕を組みながら、机の前を行き来する。
そして、悪魔的発想にたどり着く。
「そうか、あの小僧か。あの暗黒小僧めが、私のキアラに何かを吹き込んだということよな? いろいろと便宜を図ってやったというのに、あの小僧は増長しおって。このような恩を仇で返すような、犬っころにも劣る振る舞いをし腐りおった。ぐううう。許せん!」
「少しは落ち着いてください」
別の思考に至り、唐突にイーヴォは悄然とする。
鼻水を垂らしながら、嗚咽混じりに叫ぶ。
「あの豊満な肢体を、私以外の別の者が堪能するというのか……」
ビルヒリオは呟く。
「怒ったり泣いたり。忙しいことですな。しかし、つまらない奴……」




