絵は創るものなんです
この世は美しいもので溢れている。美しいものは、常に色鮮やかである。色には、ひとつとして同じものはない。例えば、同じ赤色のように見えるものでも、黒色が混ざった赤色、白色が混ざった赤色、ワインレッドと呼ばれる赤色もある。黒色が混ざった赤色の中でも、黒色が何パーセント混ざった赤色、黒色の上から塗りつぶした赤色など、有するものを挙げだしたらキリがない。そして、そのどれもが美しいものなのである。
美大に通う私は、今日もキャンバスに色を塗り続ける。青色の背景に、不規則に黄色の丸を落としてしく。端から見たら、これは何の絵か、なんて到底分からないだろう。だが、それでいいのだ。絵なんて結局そんなもので、意味も無しに色を塗って、例えそれが何にでもなくても、私が「それ」と名付ければ、その絵はたちまち「それ」になる。絵を観るものは「それ」と認識し、「それ」についてああでもない、こうでもないと感情を持つ。絵は言わば新発明なのだ。新しいものが生まれたら、それに名前を付ける。人類が今まで繰り返してきたことと同じ。私は絵を創っているのだ。
ただ、私は何の意味も無しに色を塗ったりなどしない。美大生とは言えど、絵を創る者、プロの端くれとして、ぞんざいな気持ちで絵は創らない。私は、確かな気持ちを、意味あるものを創り続けている。
そんな偉そうなことを言っておきながら、私が美大に進学した明確な理由はない。勉強もある程度できた。進学校で学年10位以内と言えば嫌みだろうか。ただ、私にはやりたいことがなかった。私より順位の高かった子たちは、弁護士にだの、医者にだの言っていた。その職業を私にも当てはめてみたが、どれもこれもしっくりこない。今思えば、やりたいことがなかったので、当てはまるはずがないと言えば当然なのだが。
私は絵を描くのが下手だった。美術の成績はいつも悪かったし、錯覚でも上手いと思ったことは一度もない。ただ、絵を創ること自体は好きだった。学校で習うものは、人物画であったり、風景画であったり、デッサンであったので、それが向いてないだけなのだ。自分の想いを、感情を写すのであれば、それは私の得意分野である。配布されたプリントの裏紙をキャンパスに、私は私の心を写しこんだ。それを進路面談で見せつけ、美大に行きたいと告げたときの先生の顔は忘れられない。先生は驚きの感情であったのだけど、私には感銘の感情に思えた。その表情を絵にし、卒業式で渡したときにそう打ち明けられた。
「良い絵ですね、何をイメージして、描いているのですか?」
突然、後ろから声をかけられ、驚きを隠しながら振り返る。私に降りかかった声は、数多の障壁を乗り越え、直接脳内に話しかけているような、恐ろしくクリアな低い声で、不意をつかれたことを悟られたら相手の思う壺、そんな風に思ってしまったから。
声の主は教員である福岡であった。私とは直接関わりは無いが、長身のわりに不健康なほど痩せていて、肩まで伸びた長い髪から覗く涼しげで細い目が印象的であり記憶していた。
「これは、課題です。『将来の自分』といったテーマで」
先生は、「ほう」とか「ふむふむ」とか、関心したような相づちをうつ。
「ずいぶんと抽象的な絵ですねえ。これはあれですか、自分のイメージを絵に写している、といった感じですか?描くというよりは」
「えっ」
思わず声をあげてしまい、すぐさま口を塞いだ。しまった。驚きを見せたら、先生の術中通りになってしまう。ただ、誰も理解を示そうともしなかった私の絵の創り方を、いとも簡単に見抜いてしまった。芸術家かぶれと嘲笑われた、私の絵を。
「どうして、そう、思うんですか?」
「うーんとねえ、君の絵は、君と同じ色なんだ。君と同じオレンジ色。だから、この絵も君かなと思って」
意味がひとつも分からなかった。私の絵の色?私の色?どういうこと?
「先生、私の絵、オレンジ色なんて使っていませんよ」
「あー、そう言う気持ちも分かるよ。でもね、見えるんだ。この絵が持つ色が。それがオレンジ色。そして、絵に向き合っていたときの君も、同じオレンジ色」
「先生は、色が見えるんですか?」
「うん、見えるよ。今の君は白みがかった黒色、灰色に近いね。疑っているときの色だが、本心を突かれているので若干の納得感もある。ちなみにオレンジ色は…」
ちらっと腕時計を見て、「うわあ」とか「しまったあ」とか言っている先生は妙に奇天烈であった。ジャケットから覗く、細くて白い腕がそれを物語る。
「ごめん、次、講義なんだ。続きは今度。あ、ってか、良かったら4限終わったら僕のゼミ室に来てよ。気になるでしょ?続き」
いたずらに笑う先生。確かに気になるので頷く私。それを見て、子供のように喜ぶ先生。
「決まりだね。じゃあ、4限後で。えーと…」
「人見です。人見美歌。またね、先生」
大きく頷き、手を振りながら走り去っていく先生。今、私の色は、おそらく白みがかった黒色ではない、何かに変わっている。たぶん、真っ黒だ。