第三十話 嘘
「……その東條さんの神器のことや、なんでお前がここまで来たのかってこと、色々問い詰めたいけど詳しくは聞かない。お前だって分かっていないと思うからな」
佐々波はそう言いながらフタバの頭をぽんっと撫でた。その手の暖かな温度にどうしようもなく安心して、フタバはまた涙を堪えるのに苦労することになってしまったのだった。
フタバはノワール魔導衆の屋敷内で、佐々波の腕を掴んだまま時鉾『邂逅』の地属性を発動させた。フタバには地属性の効果が未だ分かっていなかったのだがどうやら空間移動を可能とするらしい。その結果閉ざされた屋敷内からフタバと佐々波は脱出出来たのである。二人が唐突に現れたものだから、屋敷の外にいた陽炎や草音、そして団員達はひどく動揺しているようだった。説明を求める彼らをやんわりと抑えて冒頭の台詞を言ったのが佐々波である。
屋敷の外はすっかり陽が落ちており辺りは暗かった。本部にいるはずのフタバがなぜここにいるのか、なぜ佐々波が屋敷内から脱出できたのか――団員達は同じ疑問を持ちながら帰路に着くこととなった。
「フタバ君……。一つだけ聞いていい? ……そ、その、お姉さんは本部にいるの? 君がここに来ていること知ってるのかしら?」
弱弱しく言うのは第八師団長の月本草音だ。一行の先頭を行く佐々波の後ろを陽炎と隣になって歩いている。フタバはその草音と陽炎に挟まれるようにして歩いていた。
眼鏡ごしに見える草音の瞳が不安げに揺れていた。彼女の気弱な態度はいつもの事なのだが。フタバは未だ晴れない気持ちのまま答える。
「一応姉ちゃんには言ってきたけど反対されたから――そのまま飛び出してきちゃったんだ。だから姉ちゃん、怒ってると思う」
「……そ、そうなの。でも君はどうして」
そこまで言って草音は止めた。先ほど佐々波から告げられた『詳しくは聞かない』という言葉を思い出したのだった。気まずそうに俯く草音の横では陽炎も何か言いたげにフタバの方を見下ろしていたが、結局何も口にすることは無かった。それがフタバにとっては有難いことでもあったのだが、それと同時に申し訳ない気持ちでいっぱいでなかなか顔を上げることが出来なかった。
<第三十話:嘘>
彼ら一行が白の国に帰還したのは夜もすっかり更けた頃だった。おそらく日付も変わっているだろう。夜風が冷たく黒の国とは比べ物にならないくらいの寒さだ。フタバは白い息を吐きながら空を仰ぐ。音無き暗黒の世界のなかで、歌声を響かせるかのようにまばゆく光を放つ星々があった。そこでようやく無事に本部へ帰還できたことを実感する。佐々波が百人余りの団員達に各々部屋に戻りきちんと休息するよう指示していた。解散指示を受けた団員達はフタバの方を気にしながらも寄宿舎のほうへと戻っていく。
呆然と指示を待っていたフタバのもとへ佐々波が近寄ってくる。その後ろには陽炎と草音も居た。
「フタバ、とりあえず団長のところへ行って来い。俺も行くから」
「え……」
「お前が黒の国へ行っていたこと、団長はもう知ってる。既に団長室には早乙女がいて一部始終を話してくれているらしい」
「早乙女さんが!?」
そういえば早乙女の事をすっかり忘れていた。ノワール魔導衆の屋敷内へ共に侵入して以来、姿を見ていなかったのだ。内密な計画だと言っていたのに自ら団長のもとに行っているとはどういうことだろう。そもそもどうやって一人であの屋敷から脱出してきたのだろう――謎な部分ばかりだったが今はそんな事を考えている場合ではない。
これからあの末恐ろしい団長のもとへ行かなくてはならないのだと知ったフタバは顔を青くさせる。勝手に神器を持ち出し黒の国へ行っていたなど、怒鳴られるだけでは済まないだろう。教団で世話になっているだけの自分がひどく自分勝手な行動をしてしまい(早乙女の誘いがそもそもの発端なのだが)、これは本格的に追い出されるのではとも思う。
今にも卒倒しそうなフタバの様子を察したのか、佐々波が無邪気に笑った。
「ダイジョーブだって! いざとなれば俺がフォローしてやるから。まぁお前の行動は決して褒められるものじゃないけど俺も助けられたわけだしな」
その言葉に幾分が安心を得てフタバの口元が緩んだとき、佐々波の笑顔がいたずらっぽいものに変わった。
「でも覚悟はしとけよな! 早乙女との話し合いでちょっとは落ち着いてると思うけど、団長がブチ切れたらマジ手の付けようがないくらい大暴れするかんな。ちびんなよ」
「………………はい。」
それこそ男だ! とフタバの背をばしばしと叩く佐々波。やけに明るい佐々波がフタバには理解出来なかった。背を押されるままに玄関ホールへ入り右の廊下を曲がる。この廊下は団長室にのみ続いているL字廊下だ。フタバはここを恐怖の廊下として認識している。重い足取りで廊下を歩くフタバの後ろを佐々波、陽炎、草音が付いて来る。やがて鷲の装飾が成された団長室の扉が現れた。室内から声は聞こえない。その静けさが余計に恐ろしかった。
いざ入室しようとフタバが扉に手を掛けたとき、佐々波が陽炎と草音に廊下で待つよう指示をしていた。結局団長室に入るのはフタバと佐々波の二人だけとなる。僅かに開けた扉から室内を覗こうとするとその前に中から「入るなら早く入れ」と縹の鋭い声が飛んできたので、涙目になりながらも思いっきり扉を開けて身体を滑り込ませた。
部屋のなかにはいつもの執務机にどかりと座った縹と、応接用のソファに腰を下ろした早乙女の姿があった。縹が早乙女に詰め寄って怒鳴り散らしているのではないかと予想していたフタバにとって、その落ち着いた室内は意外な光景だった。後ろで佐々波が扉を閉める音がした。喉を鳴らして唾液を飲み込み、もう一度縹の顔色を窺うと、奇妙なほど落ち着いて椅子に座っている。
「……全て早乙女から聞いた。」
縹が瞳を伏せつつ静かに言う。それはフタバが想像していた怒声とは程遠いものだったが、煮え返るほどの怒りをどうにか理性で抑えているかのような、喉からどうにか絞り出している声である。つまりは縹が内心とんでもなく憤慨しているということがフタバにも分かった。あまりの怒りに怒鳴り散らす事すら通り越し、むしろ落ち着いてしまった――そんな感じである。
「まず、なぜ東條さんの神器を勝手に持ち出した? おい早乙女、お前がどうやって『邂逅』の在り処を知ったのかまでは問わねぇ。問題はなぜ井上フタバに使わせた? お前の目的は何だ」
それはフタバも疑問に思っていたことだった。縹が執務机から離れ、ソファに座る早乙女に近づく。革靴の足音が静かに響く。フタバにとってこの静寂が今は恐ろしかった。
「私の目的……? 簡単なことです、団長殿。東條喜一の息子たる井上フタバ君を氏の“後継ぎ”に仕立てたいのですよ」
「はっ!?」
そう声を上げたのはフタバと佐々波だった。縹はというと、ソファに座る早乙女をじっと見下ろしているだけだった。彼は言葉の無意味さを語るかのように黙っていた。
早乙女は血色の悪い唇をいびつに曲げながら続ける。
「神から与えられた神器というものは、所有者本人にしか扱えない。たとえ血を分けた親兄弟といえども同じ神器を二人の人間が使用出来ない。……そうでしょう? 私は神器を持っていないので詳しくは存じませんがね。しかし私は確信していた。井上フタバ君ならば父の遺した神器を発動させることが出来るとね」
「―-その確信はどこから出てきたんだ」
「私がそう確信した根拠はひとつだけ。井上フタバ君が氏の息子であるという事実。それだけです」
縹は獲物を狙う豹の如き鋭い金色の眼光で早乙女を射る。その視線に臆することなく笑みを浮かべる早乙女。早乙女は縹を恐れるどころかむしろ嘲笑っていた。それに気付いた佐々波は慌てて口を挟んだ。
「ちょっ、ちょっと待て早乙女! フタバが東條さんの息子っていうだけで神器が使えるんなら、まどかさんはどうなるんだよ? あの人も東條さんの娘じゃねーか!」
それに早乙女は声を上げて嗤った。それに佐々波たちは驚きを隠せず動揺する。何しろ早乙女が声を発して笑うなど初めてだったからである。一同が唖然と早乙女を見つめていると、いや失敬、と詫びて早乙女はもとの顔つきに戻った。
「井上まどか……かね? 彼女では話にならん。この井上フタバ君ではなければ東條さんの後継ぎにはなれぬのだよ」
「それじゃあさっきのお前が言った根拠と矛盾してねーか? 東條さんの子供である事実が、神器を発動出来るたったひとつの根拠なんだろ?」
「とにかく井上フタバ君ただ一人にしか出来ない事だ」
そう断言されては返す言葉もなく、佐々波は力無く肩を落とした。
フタバと佐々波は早乙女と向かい合ってソファに腰を下ろしている。静かな革靴の音が彼らの座るソファを一周した。縹である。普段は滅多に執務机から移動しない縹が足を止めることなく歩き回っていた。その様子から、冷静を装う縹が必死で怒りを抑えているのだと佐々波は悟った。
ピタリと縹の足音がとまる。彼は蛇のような目つきで早乙女を睨みつけた。
「井上フタバを東條さんの後継ぎにするだと……? お前、それはこのチビに東條さんの神器を与えて戦争に駆り出そうっていうのか? ああ?」
そう言う縹はまだ冷静さを繕っている。いつもは自分勝手に怒鳴ったり機嫌悪くしたりする人間が、ここまで落ち着きを装えたのかと佐々波は感心してしまう。
早乙女が笑った。
「まあ、最初はそういうことになるでしょうな。しかし私の言う後継ぎとは――」
「ふざけんのもいい加減にしろ!」
雷鳴の如く低い怒声が団長室に響き渡った。室内の静寂を破り、重力が空に跳ね返るようなその怒鳴り声を耳にするなり佐々波は「あーあ……」と苦笑する。煮え返る怒りをどうにか隠していた冷静という名の皮がついに剥がれてしまったらしい。フタバといえば、過去最高ともいえる縹の怒鳴り声を直に聞いてしまい、卒倒しそうなほど青ざめていた。
激昂して顔を真っ赤にする縹が、早乙女の着物の襟刳りを鷲掴みにして彼を無理やり立たせる。縹の金色の瞳が殺人鬼のようにギラギラと光っていた。
「もう勘弁ならねぇ! てめぇは即退団だ! 井上フタバに武器を持たせて戦争に出させるだと!? 東條さんはそんなこと望んでねえ……東條さんは子供に迷惑かけねぇように自殺したんだ! それをてめぇは……!」
「東條喜一が死んだ理由が子供に迷惑をかけないため? はて本当にそうなのでしょうか、団長殿」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ! 今すぐ出て行け!」
今にも殴り掛かりそうな縹の様子を見て、さすがにマズイと察した佐々波が縹と早乙女を無理やり引き離す。
「はいはい団長! 落ち着きましょうね! 気持ちは分かりますけど早乙女をすぐに退団させるわけにはいかないですって。団員の入退団は師団長との会議で決めなきゃっすよ!」
縹はいつもの堂々とした態度とは打って変わりひどく興奮していた。それに対し早乙女は相変わらず涼やかで、縹に掴まれて乱れた着物を直している。側近から制止されようやく落ち着いたとみえる縹はたった一言、絞り出すように呟いた。
「……早乙女はしばらく外出禁止だ。俺が許可するまで地下牢で過ごしてもらう」
そう言われても早乙女は目元の筋肉すら動かさず、亡霊の如き眼差しで縹をじっと見ているだけだった。佐々波が事態の収束に安堵のため息をこぼしている。その横でフタバは、自分にはどんな罰が下されるのだろうかと怯えていたが、縹は早乙女の軟禁だけ指示するとそれっきり口を開かなかった。それはフタバに安心を与えたのと同時に早乙女に対する罪悪感も与えた。内密に黒の国へ向かうことを提案したのは早乙女だが、最終的にそれに頷き黒の国へ行く意思を決めたのはフタバ自身だったからだ。それなのに罰を受けるのが早乙女だけだというのは、フタバにとって心苦しい。しかし例によってフタバは縹に意見することなど出来るはずもなく、佐々波に連れられるまま団長室を辞したのだった。
< 2 >
明日は雪かきも雑用も頼まないから部屋で休んどけな、と言われつつ佐々波と別れ、フタバは寄宿舎の部屋に戻ることとなった。彼の気配りの良さはさすが団長補佐を務めてあるだけある。フタバは彼の気遣いに感謝しつつ、すっかり夜の帳が下りた時刻、自室の扉を開けたのだ。と、扉を開けて部屋の明かりがフタバを照らすにあたってフタバは大事なことを思い出した。
(姉ちゃん……)
フタバは姉のまどかの反対を押し切り本部を飛び出していったのだ。つまり二人は喧嘩中である。そのことをすっかり失念していたフタバは、心の準備のないまま自室の扉を開けてしまったのだ。
日付も変わった真夜中だというのにフタバとまどかの部屋にはランプに明かりが灯り、煌々と光を放っている。そんななか、ベッドにまどかが腰かけていた。パジャマ代わりにしている着物(桜月が提供してくれたものだ)を纏っている姉はフタバが姿を現わすと項垂れていた頭をバッと持ち上げた。
「フタバくん!」
今にも泣きそうな表情の姉が駆け寄って来る。扉を開けたまま立ちすくんでいたフタバはようやく我に帰り、後ろ手で扉を締めた。それと同時にまどかの腕が伸びてきてフタバの小さな身体を覆うように抱きしめる。開口一番で怒鳴られるかと思っていたフタバは驚いて身体を強張らせた。それにも構わずまどかはしゃがみ込み、フタバの肩に頬を押しつけてぎゅうぎゅうにフタバを抱きしめている。言葉は何も発されない。あまりに強く抱きこまれているため、フタバが「姉ちゃん苦しいよ」と訴えるとゆっくりとまどかは弟から身体を離した。
まどかがしゃがんで膝立ちになっているため、ちょうどフタバの視線はまどかと交わった。真正面から見た姉の顔は怒っているというよりひどく悲しげで目元は赤く、ウェーブの髪もボサボサで、まるで子供が大泣きした後のようなありさまだった。
「フタバくん、ほんとにフタバくんだよね……?」
存在を確かめるように、まどかの手のひらがフタバの頬をなぞる。
「姉ちゃんごめん、俺――」
パンッと小気味よい音が部屋に木霊した。フタバは己の左頬を手で押さえる。じんじんとした痛みが頬に広がっていった。まどかに撫でられていた左頬は次の瞬間、彼女に叩かれたのだった。
慌てて姉を見ると、まどかは未だ泣きそうに顔を歪めていた。それがフタバには悲しくて胸を締め付けられた。どうせなら怒鳴られるほうが良かった。姉のこんな悲しげな表情、見たくなかった。
「ねぇ、どれだけ心配させれば気が済むの? フタバくん、自分が何してるか分かってる? あなた戦争に巻き込まれてるのよ。ゲームやアニメの話じゃないわ。本当に死んじゃうのよ! ひ、一人残されたお姉ちゃんの気持ちも考えて……フタバくん……わ、私死にそうなくらい心配したわ。ねぇ、フタバくん……二人きりの家族でしょぉ……」
ついにまどかは子供の様に声を上げて泣き始めた。フタバも泣きたくなってふにゃりと口元を緩めたが、どうしてだろう、涙は出てこなかった。ただごめんなさい、と謝ることしか出来なかった。
「お父さんの自殺の謎が知りたいフタバくんの気持ちも分かったわ。だから――これからは私も一緒に行くから。フタバくんが危ない場所に行きたいっていうのも止めないけど、私も一緒に行くからね。だってフタバくんを守れるのは私だけだもん。」
「姉ちゃん――」
その言葉にフタバは頷けなかった。なぜならフタバは父の秘密を知るための行動に姉を巻き込まないことを決めていたからだった。早乙女が言うように、これから自分が戦争の渦中に巻き込まれていくのは幼いフタバにだって分かっている。しかし姉のまどかまでそれに巻き込みたくなかった。いつまでも天真爛漫で明るい姉でいてほしいのである。だからフタバはまどかの言葉に頷くわけにはいかなかった。まどかまで戦争に巻き込ませたくない。二人一緒にもとの世界で帰るのだ――それがフタバの一番の望みなのだから。
そのためにはこの場を切り抜けなければならない。フタバは唾を飲み込んで、はっきりと言った。
「分かった姉ちゃん。もう勝手なことはしないよ。どこかへ行く時は姉ちゃんに言うから」
そう告げた途端、まどかは喜びの声を上げてふたたびフタバに抱き着いた。
フタバは心の中で何度もまどかに謝った。はじめて姉に嘘をついてしまったからである。今回のように黒の国絡みで行動することになっても、自分は決してまどかには言わないだろう。まどかはフタバを守ると言っていたけど、フタバだってまどかを守りたいのだから。
(ごめん姉ちゃん……もうオレは、前のように姉ちゃんについて行くだけの可愛い弟じゃいられないんだ)
窓からのぞく月が嫌味なほど清廉な光を放ちフタバ達を見下ろしている。嘲り嗤うような月に嘘を責められている気分になった。しかし先ほどまどかに告げた言葉ははじめて口にした嘘とは思えないほど自然にフタバの唇から出ていき、また、ごく自然にフタバの胸中に収まったのだった。
<第三十話「嘘」・完>