第二十九話 醒
『対刀・鳳翼天翔』の刃の切っ先がリリスの喉元を掠る。リリスは佐々波が繰り出す太刀を軽い身のこなしで避けていた。ツインテールに結ったリリスの黒髪が動きに合わせて揺れる。軽やかなその動きはまるで彼女が無数の刃と舞っているようだった。
佐々波の刃を避けながら、リリスも負けじと『魔女の麻薬』を撒き散らす。その粉末をすかさず『鳳翼天翔』の風属性により吹き飛ばす佐々波。二人の戦いには終わりが見えなかった。薄暗い広間には二人の足音と荒い息が木霊するばかりである。
二本の刀を両手に握り、佐々波は数メートル先のリリスを睨みつけた。傷一つ負わず余裕の笑みを浮かべるリリスを横目で見ながら小さく舌打ちする。麻薬を使ってくるリリスに対し接近戦は危険なのだが、佐々波の持つ『鳳翼天翔』は短刀だ――リリスに接近しないと仕留める事は出来ない。
(時間かかっちまうな……逃げるにしても扉は閉まってやがるし、マジで面倒かも……)
視線だけ動かし、螺旋階段の踊り場に佇む黒いローブの男を見遣る。リリスはあの長髪の男を“サタン様”と呼んでいた。サタンとは、黒の国の国王を務めながらもこのノワール魔導衆も率いている権力者だと団長の縹から聞いたことがある。先ほどから微塵も動かず、こちらの戦いをじっと見下ろすだけの男。ただ佇むだけのその様子にどんな意図があるのか、翡翠色の加虐的な瞳からは汲み取れない。
「ちょっとお! サタン様を気安く見つめないでよ! この金髪トゲ頭!」
すかさずリリスの麻薬が舞い散ったので避ける。
「だ、誰も見つめてないっつーの! どうせあんただってまともに相手されてないんだろ!?(知らないけど!)」
「なっ……なんですって!?」
何気なく口に出した佐々波の言葉に反応するリリス。今まで余裕の笑みを浮かべていた顔を真っ赤にして怒りをあらわにしている。麻薬の命中率も曖昧になっているようで適当に撒き散らすだけだった。魔導衆のメンバーは年齢という概念のない悪魔の魂が人間の器を借りているものらしいが、リリスの気性の激しさ、危うさは人間臭いところがある。その見た目のまま、十代の少女のような怒り方だ。どうやらリリスは短気のうえ、感情に左右されやすいらしい。それを知った佐々波はニヤリと笑ってリリスから飛び退き間合いを取った。
「あっ、やっぱり図星か」
「うるさいうるさい! アタシを何だと思ってるのよ、アタシはサタン様の側近なんだから!」
佐々波が距離を取ったことでリリスも一歩後ろに下がる。二人の乱れた息遣いがホールに響いていた。佐々波は続ける。感心したような声色をわざと出した。
「へぇー、側近か。そりゃ昔っからの付き合いなんだろうな」
「フンッ。当たり前じゃない。レヴィアタンやローズよりも昔からここにいるのよ。そうよ、ベルフェゴールよりも、あのルシファーよりも前からサタン様にお仕えしてるんだから……! それなのにアタシがレヴィよりも役立たずだなんてルシファーが言うから……!」
もはやリリスは佐々波のほうを見ておらず、黒く塗られた床をじっと睨みつけていた。それをにやにやと見つめる佐々波。さらに彼はリリスに会話を促す。
「レヴィって奴よりも役立たず? レヴィっていうのはそんなに凄い魔術師なんだな」
「ちっとも凄い魔術師なんかじゃないわよ! あの子の邪眼は努力や鍛錬で培われたものじゃない。アタシの方が何倍も努力してこの麻薬を作ってるのに……――!」
そこまで言ったとき、リリスはハッとして顔を持ちあげた。真正面にいる佐々波は人懐っこい笑みで歯を見せて笑っていた。じわりと嫌な汗がリリスの背を伝う。そんなリリスの様子を一瞥すると佐々波が言った。
「へぇ、そっちには邪眼を持つ魔術師がいるのか。なるほど、俺らの内部情報が黒の国に筒抜けだったのはその“レヴィ”って奴の邪眼が原因だったんだな」
なるほどな! ともう一度明るく笑う佐々波。リリスは「しまった」と青ざめた。感情に任せて愚痴を零した結果、こちらの情報を与えることになってしまった。佐々波が戦闘を中断して話を振ってきたのもそれが目的だったのかとようやく気付かされる。
しかもレヴィアタンの邪眼が持つ千里眼の力は、魔導衆の行動の主軸になっている。知られたら一番危険なものだった。なんという失態。敬愛する主になんと謝罪すればいいのだろう。絶望的な気持ちでリリスは階段の踊り場に佇むサタンを仰ぎ見る。エメラルドの瞳と視線が交わった。いつもと同じ、美しい輝きの中にも酷薄な光を宿す眼差し。しかし今は普段より一層闇を纏い、見えない刃を突き付けられているような気がした。その瞳に見下ろされて、リリスは足元から首筋まで針で突き刺されているように動けなかった。
佐々波も動かない。誰もが微塵も身動きをしない、そんな時間がしばらく流れた。やがてその空気を破るように響いた足音。
螺旋階段の影からフタバが飛び出してきたのはこの時だった。
<第二十九話:醒>
水を打ったように静まり返る玄関ホールに男の柔らかいテノールが響く。歌うような響きを持った声だった。
「Enchante、ようやく会えたね、井上フタバ君」
リリスと佐々波の攻防をただ眺めていただけのサタンが初めて口を開いたのだ。初めて耳にするサタンの声に佐々波は戸惑いを覚えた。あんなに残忍な瞳で人を見下ろすのに、その声はひどく嫋やか
で紳士的だった。
サタンに声を掛けられたフタバは石のように固まっている。どうしてここにいるんだ。本部にいたはずだろう。この屋敷は魔術が施されており侵入出来ないはずなのになぜ入ってこれた。その手に抱える武器は何なんだ。――いろいろ問いただしたい事があったが、正面のリリスが攻撃を再開してきたので佐々波はふたたび神器で攻撃をかわす。
「――っ、とにかく逃げろ! フタバ!」
両手に持つ短刀『鳳翼天翔』を振りかざしながら佐々波が叫ぶ。その声にびくりとフタバの肩が震え、ようやくサタンから目を逸らすことが出来た。
「さ、佐々波さん……」
「こんなとこで何やってんだよ! お前っ、っ、まどかさんが心配すんだろ!」
「佐々波さぁん…………!」
本当に何をしているのだろう。必殺技があるわけでもないのに、武器ひとつでこんな所に飛び出してきて。勇気を出していざ飛び出してみても震えているだけではないか。もうどうすればいいのか分からなくなってフタバは瞳を潤ませる。さらに佐々波から発せられた“まどかさん”という言葉に反応してしまい、余計に泣きたくなった。
(助けて姉ちゃん、やっぱりオレじゃ佐々波さんの助けになれないよ)
喧嘩したまま別れてきてしまった。まだ怒っているだろうか。心配なんてしてくれているだろうか。分からない。離れていては何も分からない。ここへきてようやくフタバは、自分が一人ぼっちで無力という名の闇に囚われていることを知った。悔しくて涙が込み上げてくるが唇を噛んでそれを耐えた。足は相変わらず震えたまま動かない。進むことも逃げることも出来なかった。
「クソ……っ、フタバぁ! 逃げろ、……って、言ってんだろー……がっ!」
佐々波は疾風を纏う『鳳翼天翔』でリリスの麻薬を吹き飛ばしながら応戦している。彼女の攻撃を避けながらもフタバの方を何度も見遣っていた。こんな状態では隙だらけだ。そう察した佐々波はリリスから繰り出される麻薬と剣の攻撃の合間を見計らって、フタバの元へと走りだす。リリスも後を追う。
背丈ほどもある鉾をしっかりと抱えて動けないでいるフタバの元に駆け寄った佐々波は息を切らしていて、切羽詰まった表情だった。怒りとも焦りともとれる彼の顔をフタバは初めて見た。
「さざなみさぁん……! ごめ、ごめんなさぁい。おれ、おれぇぇぇぇ……」
「馬鹿、男が泣くなよ」
ごめんなさい、オレ、佐々波さんの邪魔になっただけだった。そう言いたかったが言葉にならず消えていった。ついに頬を伝ったフタバの涙を見て、佐々波が表情を崩して笑った。フタバの目線に合わせて佐々波がしゃがみ込み、いつもの飾り気のない笑顔に安心したフタバの涙も止まる。佐々波の白い手袋をした手が伸びて、フタバのぼさぼさの頭をくしゃりと撫でた。その大きな手のひらの感触にフタバが顔を上げた。佐々波が困ったように、でも優しく笑っている。
しかしフタバは気付いてしまった。佐々波のすぐ背後にリリスが立っていることを。彼女の手には短い剣が握られていて、フタバの目の前でその剣が高く掲げられた。切っ先が佐々波の背を狙っている。
一か月ほど前、白の国の市場で佐々波がリリスから姉を庇い負傷したときの記憶が脳裏を巡った。また自分のせいで彼が傷付くのか。今までと変わらず教団の本部で守られながら生活し、戦地に赴く団員を見送りながら何も得られない日々をこのまま過ごしていくのか。恐怖と緊張であいかわらず震えは止まらない。耳が熱く脈を打ってるのがわかる。
(た、助けるんだ、オレが……!)
もう見ているだけは嫌だ。そう考えたとき、フタバは無我夢中で佐々波の腕にしがみ付いて叫んでいた。
「巡れ――時鉾『邂逅』!」
腕の中の鉾が震えて竜巻のような風がフタバと佐々波を包んだ。身体が圧迫され、地面がうねりを上げている。リリスが二人の周辺から飛び退いたと同時にそれらはなりを潜めた。屋敷内に静寂が戻った時、フタバと佐々波の姿はもうどこにも無かった。
< 2 >
この屋敷内では珍しいことに、階段を降りて来る性急な足音。ランプに灯された明かりが揺らいだ。革靴の音を響かせ階段を駆け降りてきたのは二人の男だった。髭を蓄えた中年の男と赤い長髪の優男。二人とも年齢こそかけ離れているが似たような燕尾服を纏っていた。
その二人の男が玄関ホールに降りてくる途中で、階段の踊り場にいたサタンが動き出す。降りて来る二人と擦れ違って螺旋階段を静か登って行ったのだった。二人の男はそれに構わず玄関ホールに降りて来ると茫然と立ったままのリリスに近づく。
「ローズから聞いたぞ、リリスよ。説明しろ。なぜ井上フタバが屋敷に侵入し、また消えたのか」
威圧感を放つ低い声で淡々と言ったのは髭の男だ。名をルシファーという。魔導衆のメンバーでも最年長の男だ。最年長といっても彼ら悪魔の魂は歳を取らない。器である人間の身体を“借りている”ので外見だけが歳を取るのだ。借りている器の年齢――『外見年齢』での最年長がルシファーなのである。実際に生きているのはリリスの方が長いくらいだ。
ルシファーの質問にリリスは答えない。悔しそうに唇を噛んで眉を寄せている。
「本当にどういうことー? 俺がせっかく時間かけて屋敷全体に魔術かけて侵入不可にしたっていうのにさ。どうやって侵入したわけ?」
赤毛の男がわざとらしくため息を吐いた。
「まさかお前が描いた魔法陣に欠陥があったのではあるまいな?」
「うわっひでー! ルシファーだって知ってるだろ? レヴィちゃんが“視た”報告受けてからすぐに描いたんだぜ。そりゃもう半日がかりでさ……。組んだワードだって絶対間違ってない」
俺を見くびっちゃ困るよ、とくすんだ赤髪を揺らして笑う。彼に続いてようやくリリスが口を開いた。心底落ち込んでいるような、沈んだ声色だった。
「ええ、癪だけどアンタの魔法陣は正常に作動していたわよ、ベルフェゴール。実際に井上フタバ以外は屋敷に侵入出来なかったんだから」
視線を合わせずに言うリリス。ベルフェゴールというのが赤毛の青年の名前だ。彼の一番の特徴は腰まで届くくすんだ赤い髪である。濡れ羽色の燕尾服と見事な色の対比を成していた。年齢の割に大人っぽく見える落ち着いた端正な目鼻立ちで、口は開けずに口角だけを持ちあげる笑い方をする青年だった。
「魔術を破って侵入するなんて、魔術の対である神の力を使わなきゃ無理だぜ? まさかあの小さい少年がそんなこと出来るわけ――」
「それが出来たってことよ。アタシ目の前で見たもの」
「……はぁ?」
「だから井上フタバが神器を使ったって言ってんのよ! 何度も言わせないでよね赤毛淫魔!」
感情の高ぶりをあらわにするリリスを咎めるように、ルシファーがぴしゃりと言う。
「リリス、貴様は理路整然とした説明が出来ぬのか。詳しく説明しろと言っているのだ」
そう正論を言われてリリスは小さく舌打ちした。悪魔としてはリリスの方が長く生きているものの、ルシファーの方が知識や教養もある。器としている人間が高齢のせいか。そのことがリリスの癇に障るのだ。厭味ったらしいルシファーの態度に腹が立つものの言い返せないことが事実であった。
「井上フタバが持っていた神器、見覚えがあったわ。井上フタバの身長ほどの大きさがある鉾。で、アイツは言ったわけ。『巡れ、時鉾・邂逅』ってね」
苛立ちを隠さず告げられたリリスの言葉にルシファーが反応を示した。きつく眉根を寄せていた顔つきが驚愕のものへと変わる。
「時鉾“邂逅”だと? それを井上フタバが使っていたというのか」
「だからそうだって言ってるでしょ。実際に発動呪文を唱えて、神器が発動したわ。でもアイツら教団の連中が持つ神器ってのは、持ち主が呪文を詠唱することでやっと発動するんでしょう? まさかあのチビの井上フタバが自分の神器を持ってるってこと? こんなことレヴィだって透視してなかったし……」
リリスの言葉をルシファーは止めた。その闇色を宿す瞳が興味深げに揺らいでいるのをリリスは見た。
「井上フタバが使用していた神器、時鉾『邂逅』はかつて東條喜一が所持していた神器だ」
「通りで見た事あると思ったわ」
「へぇー、東條喜一が死んだあと神器は処分してなかったのか」
ベルフェゴールが他人事のように頷いている。一方ルシファーはひとり、顎鬚を摩りながら考え込んでいた。その視線は大理石の床に落ち、常に物憂げな眼差しは爛々と光っていた。
「持ち主の息子が発動させることが出来たというのか。こんな前例聞いたことがない。いやしかし――井上フタバが神器を使用出来たというのなら――……」
「出来たというのなら?」
リリスが先を促す。するとルシファーが顔を持ち上げてリリスのほうを見遣った。口角を僅かに上げるだけの小さな笑みを溢す。
「サタン様はさぞお喜びになるだろうと思ってな」
< 3 >
ノワール魔導衆の屋敷は塔の造りになっている。長く続くらせん階段が行き着く先である最上階には、たった一つの部屋しかない。その部屋に家具はほぼ皆無といってもよく、広い机と天蓋に包まれたベッドがあるだけだ。常に薄暗いその部屋の明かりは壁の赤いランプのみである。古い木で作られたテーブルの前に腰掛ける男がいた。背後の巨大な窓にカーテンは無い。月光を背に受けて微笑む男こそ、ノワール魔導衆を率いる一級魔導士のサタンである。
黒いローブを脱ぎ捨てた彼は、やはり同じ黒色の燕尾服を着ている。肌の色は驚くほど白いのに床まで到達している長髪は光を反射する濡れ羽色。黒一色に彩られた彼の容姿で唯一、その瞳だけがエメラルドを思わせる美しい緑色だった。
黒の皮手袋に包まれた右手が分厚い本のページを捲くっている。その表情は穏やかで、何も知らぬ者が見れば若くして上品な振る舞いをする紳士である。
「ねぇサタン様ぁ~。フタバくんだっけ? びっくりしたねぇ、いつの間に屋敷のなかに侵入してたんだろ? ベルベルの魔術を破ってきたなんて凄い男の子だねぇ~」
そんな彼の椅子に寄りかかってしきりに話しかけている小柄な少女がいた。黒い服を着ている魔導衆一同のなかで唯一明るい乳白色の衣装を着ている。胸元だけを隠す上半身の服とホットパンツ、太ももまで覆うロングブーツという露出の多い服だ。セミロングの髪色も珍しい銀髪で、月明かりに照らされ輝いている。なにより特徴的なのは少女の髪からは大きな猫耳が飛び出しており、ホットパンツの臀部からは同じく白色の猫の尾が垂れていることだ。少女は人間の獣が混じった幻獣という生き物なのである。
少女の首には明るい珊瑚色のリボンが巻かれ、鈴が付いている。少女がよく動くため、その鈴も忙しく鳴り続けていた。その鈴の音に掻き消されてしまうほどの落ち着いた小さな声でサタンが答える。
「ああ、本当に凄い男の子だ」
「そうだねぇ。あんなに小さいのに敵の前に飛び出てくるなんて感動しちゃった!」
幻獣の少女はまさしく猫のように喉を鳴らしながら、サタンの後頭部に愛しげに頬を擦り合わせた。
「ねぇサタン様ぁ。ローズのこと褒めてくれるっ? 言われた通り、陽炎っていうキモノの師団長さんを足止めさせたんだよ。サタン様の言うことちゃんとできたんだよ!」
「ああ、良い子だねローズ」
そう褒めてやるとローズがとろける様な笑顔で喜びをあらわにする。まるで幼い子供のようだがローズはリリスと外見年齢はそう変わらないのである。
「サタン様ぁ、あの男の子消えたまま逃がしちゃって良かったの~?」
「ああ、収穫はあったのだからね」
サタンは相変わらず本のページを捲り続ける。読んでいるのでは無い。目的のページが現れるまでひたすら捲り続けるのだった。そのページを捲る繊細な指先の動きにもウットリして見入っているローズ。
「しゅーかく? ああでも、サタン様なんだかとっても嬉しそう!」
その言葉にサタンは手元の本に落としていた視線を上げた。すると無意識のうちに口元が緩み、目尻も優しく垂れていたことを自覚したのだ。そうか、私は喜んでいるのか。何に喜んでいるかなど問うまでも無かった。井上フタバが父の遺した神器を持って現れ、あまつさえその神器を発動させたという事実にサタンは喜びを感じていたのだった。
「そうだ、私は嬉しい……。再びあの男に会えたような気分にさせられる」
彼は笑った。美しさを際立たせている、上品で、息をのむほどの残忍な光をその瞳に秘めた笑み。それはこの暗いだけの部屋で神々しくローズの瞳に映った。変わらず後頭部に擦り寄ってくるリリスの頬をそっと撫でてやる。それこそ猫の毛並みを整えてやるように。
「ローズ、今はひとりになりたい気分なんだ。自分の部屋に戻ってくれ」
「はぁいご主人様」
ニッコリと可愛らしい笑顔を残してローズはサタンから離れる。常に飛び跳ねるようにして軽快に移動するのは彼女の癖らしい。長い尾が左右に揺れていた。元気よく手を振りながら扉から出て行く。沈黙が部屋に戻った。サタンは椅子を回転させ、巨大な窓から外を眺める。カーテンが無い窓からは月光が惜しみなく注がれていた。屋敷の最上階にあるこの部屋からは黒の国の街がよく見下ろせた。が、街には明かりひとつ灯っていなかった。街があるのかどうかすら分からない。光はおろか音や匂いすらない。感覚という感覚が飲み込まれていくような深淵の闇が広がるばかりだった。
サタンは再び机に向き直り、ページを捲っていた本に視線を落とす。古く黄ばんだ本。ちょうど開いていたページの右端に手書きで書き込まれた跡がある。ページの内容に補足をする言葉だった。それを愛しげに指先でなぞるサタンはヒスイ色の両目を細めてもう一度微笑む。それは天使とも悪魔ともいえる笑みだった。
<第二十九話「醒」・終>
サブタイトルの「醒」はフタバのことです。勇気を奮って行動できたことや、神器を自ら発動できたことを指しています。
全体的にはノワール魔導衆の描写が多いのですが、29話で一番の山場がフタバの描写なのでこのサブタイトルに。
佐々波さんは完全にフタバの兄ちゃんポジションです。
サタンが言う『Enchante』はフランス語で「出会えて嬉しい」。
以前からリリスやローズが口にしていた『ウィ・ムスィ』もフランス語。
ベルフェゴールの魔術の『魔法陣』もフランス語で「時計」。
フランス語を黒の国の言語として扱っています。
ついでに言うと赤の国(縹の出身地)はドイツ語圏として扱っています。
赤の国にいるときの縹の名前「ヴィクドール」や兄の「アルベルト」はドイツ人の名前から選んでみました。
言うまでもなく白の国は日本をイメージ。