第二十六話 黎
「お姉ちゃんそんなのぜったい許さないからね、フタバくん!」
「でも……」
言いかけた言葉は、まどかの強い声に遮られた。
「だめって言ったらだめなの! 前だって縹卓之介に命じられて黒の国へ行かされたっていうのに、今度は“あの”不気味で超怪しい早乙女さんとこっそり黒の国へ行くなんて! 危険すぎるじゃない! ぜったい許さないんだから!」
これから黒の国へ行く――と、フタバは姉のまどかに告げた途端に反対された。まどかはフタバ以上に早乙女に対して嫌悪感を抱いている。幽霊を連想させるあの風貌が生理的に受け付けないのだそうだ。まどかが憤慨するのも無理はない。
しかしフタバは、姉のまどかが怒ることもある程度予想していたのだった。たいしてうろたえもせずフタバは答える。
「オ、オレだってあんな不気味な人と一緒に黒の国に行くなんて嫌だよ。でも、だって……早乙女さん、“この世界”で生きていた頃の父さんを知っているみたいなんだ。もっと早乙女さんから話を聞きたいんだよ!」
「話を聞きたいだけなら教団でも出来るわ。黒の国へ行くなんて――」
「あの人、オレが黒の国へ行って戦争の様子を見ることに意味があるって言ってたんだ……」
最後の方は心もとなく、消えるような声になってしまった。フタバはおそるおそる姉の顔色を窺う。まどかの顔を見上げるとその顔は今にも泣きだしそうだった。
<第二十六話:黎>
“姉ちゃん、”と声をかける前にまどかが口を開いた。その声は泣きそうに震えていたが、まどかは泣いていない。怒りのあまり声が震えているのだろうか……。
「フタバくん、そんなにお父さんの事が知りたいの? そんなにお父さんが大事なの? もうお父さんは死んじゃった人なのに、何をそんなに知りたがる必要があるのよ?」
「姉ちゃ――」
「私はフタバくんが一番大事。フタバくんが危険な場所に行くなんて耐えられないわ。たとえお父さんの生前が知りたいっていう目的があったとしても……私には“そんなこと”たいして大事だとは思えない。はっきり言って、お父さんよりフタバくんの方が大事なの! 分かってちょうだい、フタバくん……」
フタバは何も言えずまどかを見つめていた。まどかは相変わらず悲痛な表情で、泣きだす前とも、怒りだす前ともとれる顔だった。いつもは穏やかな口調でゆっくりと話すまどかが、今回ばかりは棘のある声色だった。
(姉ちゃん、そんなにオレのこと心配してるんだ……)
フタバは俯いて紅色のシックなカーペットに視線を落とした。まどかがもともと自分の事をよく心配してくれているのには気が付いていたが、父よりも大事に思ってくれていたとは。
突然異世界にやって来て、姉弟が離れ離れになる不安はフタバ自身にもある。しかし、フタバはどうしても父である東條喜一と自分の関係を知りたい。それは早乙女が言っていた“東條喜一の息子なら、必ず戦争に駆り出される”という言葉の意味を知りたいということでもあった。
フタバは幼いながらにも感づいているのだ。自分達が千年王国に呼ばれた理由は父親に関係があるのだと。それならば、すでに亡き父親に関しての謎を全て知らなければ元の世界に戻れない。戦争に首を突っ込むのは危険だと分かっているが――早乙女の言う通り戦争に関われば、父親の事と、自分達が呼ばれた理由を知ることが出来るはずだ。
「オレだって姉ちゃんの事は大事だけど、父さんの自殺の謎を解かないと元の世界に戻れないと思うんだ!」
「そんなの――そんなの嘘よ。お父さんが死んじゃった事と私達が関係あるわけないじゃない! お願いだから黒の国へ行くなんて辞めて! フタバくんが戦争に巻き込まれて死んじゃったら……私……私……!」
もはやまどかのそれは叫び声だった。必死でフタバを止めようとしている。まどかの思いはフタバにも痛いほど伝わってきたのだが、フタバも幼いとはいえもう十二歳――立派な意思がある。姉の懇願にただ従うというわけにもいかない。
「それでもオレ――」
フタバは俯いたまま、まどかの顔を見ることなくしばらく黙っていたかと思うと、急にまどかに背を向けて駆けだしたのだ。二人の部屋の扉まで駆け寄ると、扉の横に立て掛けてあった“あるもの”を手にとる。フタバの身長ほどもある細長いそれは白い布に隠されていた。それ今朝、早乙女に渡された『時鉾・邂逅』である。白の教団の師団長のみが持つことを許される、“神”から与えられた特別な神器。この『邂逅』はフタバ達の父、東條喜一が生前愛用していた鉾型の神器なのだ。それを握りしめるとフタバは再びまどかの方を向いた。
「ごめん姉ちゃん! オレ、父さんの謎を残したまま元の世界へは戻れないんだ!」
はっきりと言い放つと、フタバは姉の顔色を伺うこともなく部屋を飛び出していった。
「フタバくん! 待ちなさい!」
まどかが叫んだ時には、すでに部屋の扉は閉ざされていた。フタバが寄宿舎の廊下を駆けていく音が聞こえてくる。その音を茫然と聞きながら、まどかは佇んだまま動けないでいた。
昔から姉の自分によく懐いていて、豪快な自分とは反対にやや臆病なフタバ。自分の背に隠れていた幼い少年が、親の謎を知ろうと自ら行動しようとしている――。いつまでも自分を頼ってくれていれば良いのに、どんどん成長していくフタバ。いつの間にか一人歩き出来るようになってしまった弟を、複雑な気持ちで想うまどかであった。
(フタバくん……やっぱり君は、東條喜一の息子なのね……)
窓の外には曇り空が広がり、白の国に影を落としている。眉を寄せて口元を結んだ情けない表情の己の顔が窓ガラスに映っていた。
< 2 >
「ようやく来たか。あまり時間が無いのだ。待たせないでくれたまえ」
「ご、ごめんなさい……」
中庭へ出たフタバはすぐに早乙女と合流した。一面銀世界に佇む早乙女。真っ白い雪に溶け込むような青白い顔色と、奇妙なほどの長身――そして常世を見つめている様にくすんだ瞳が、雪景色の中、不気味に浮かび上がっていた。
早乙女に近づいていいのか分からず、中庭に繋がる連絡通路で立ち止まっているフタバ。すると早乙女の方からフタバに近づいてきた。雪を踏みしめる音が静かに木霊する。彼は血色が悪い紫色の唇を開いた。
「姉上とは無事に話がついたかね」
「う、うん」
「……その様子だと和解しないまま飛び出してきたのだろう」
見事に言い当てられたフタバはバツが悪そうに唇を噛む。
フタバの脳裏にはまどかの憤慨した表情が未だにこびり付いていた。これまで姉弟喧嘩などしたことが無かった――それだから、今回のまどかとの行き違いはひどくフタバを悩ませていたのだった。まどかに嫌われてしまったかもしれない。そう考えると心臓を鷲掴みにされたような気分になったが、今更後戻りなど出来ない。
そんなフタバの様子を察したのか、早乙女がフタバの肩に団服を羽織わせた。
「悩んでいるなら戻りたまえ井上フタバくん。黒の国へ向かった師団達の戦闘を見てしまえば後戻りが出来なくなる。戦争とはそういうものだ。戦争の惨劇を目にしてしまえば己も戦争に巻き込まれたも同然。それは一生己に付き纏う」
肩に掛けられた団服はフタバの身体を温めた。白いその団服は戦争に関わる国のものではないかのように神聖だった。
早乙女が地を這うような低い声で続ける。
「君はまだ十一歳だ。本来なら姉上と安全な場所にいるのが正しいのだろう――団長殿もそういう処置を考えている。“この計画”は私個人の考えたものだ。それでも君は共に来るかね?」
フタバは早乙女に渡されていた神器『邂逅』を握り締めた。
「オ、オレ行くよ。だってそうしなきゃ父さんの謎が分からないままだもん!」
口角を上げて早乙女が笑う。しかし、“笑う”と形容するには生易しすぎるような、ゾッとする笑みだった。しかしフタバはそんな事を気にすることはなくただ真っ直ぐ早乙女の瞳を凝視していた。
「それでは早速、黒の国へ向かうとしよう。既に向かっている師団達は間もなく到着する頃だろうから急ぎたまえ」
< 3 >
一方その頃、数時間前に白の国を発った第一師団、第三師団、第八師団は黒の国に到着していた。百人ほどにもなる団員たちが隊伍を組んで歩む姿は、まさしく戦争に向かう軍隊であった。
黒の国は相変わらず殺伐としている。大国であるにも関わらず市場や大きな建物は見当たらない。怪しげな洋館や廃屋が山奥に佇んでいるだけである。ノワール魔導衆の魔導師で長たる“サタン”という男が国王を兼任しているらしい。ノワール魔導衆の洋館の周りには更地が広がっていた。国王が座す屋敷とは思えない。白の国の城とは大違いだ。
軍馬にて先頭を率いる佐々波乱歩はため息を零しながら呟く。その瞳は延々と続く荒野の先を見つめていた。
「ついに黒の国に宣戦布告かー。このまま冷戦が続いて自然消滅~ってなわけにはいかなかったなー」
「そ、そうですね、佐々波さん。私も、もしかしたらこのまま黒の国とは戦争なんてしないんじゃないかと思っていました……」
そう沈んだ声で答えたのは第八師団長の月本草音だった。軍馬に乗ったまま俯いて佐々波の後ろにつき従っている。草音が頼りなさげな口調で呟くのはいつものことだったが、それに対して陽炎がぴしゃりと言った。
「草音。黒の国との関係は年々悪化していたのを承知していたでしょう。よもやあの冷戦のまま終わるはずがない。それに卓之介様とて、冷戦状態の関係のままでいこうなどといつまでも甘んじておられるわけがない」
「は、はい……そうですよね姐さん。すみません……」
「謝らずともよい」
陽炎の声は鋭く、草音はいつにも増して肩を畏縮させることとなった。眼鏡の内からおそるおそる陽炎のほうを窺うと、陽炎は視線を地面に落としていた。服装はいつもと変わらず、白地に牡丹柄の着物だ。さすがに軍馬に跨ることは出来ないらしく、脚を揃えて横乗りになっている。
どんな任務の時でも戦地に赴く時でも、陽炎は団服を着ようとはしない。着物など、槍使いである陽炎にとっては動きにくいであろうに。なぜ団服を着ないのだろう。草音はいつもそう疑問を抱いていた。それでも陽炎は太刀筋に関しては教団一の速さを誇るので尊敬するばかりだ。
「何? 陽炎さん何か機嫌悪いの? なんか今日怖いくらい静かだよね?」
前を行く佐々波が草音にこっそり話しかける。草音は肯定も否定も出来ず曖昧に頷いておいた。
「まーた団長と何かあったのかねー?」
草音は答えなかった。
一行はノワール魔導衆の館を目指して荒れ果てた更地を進軍し続ける。その間にも黒の国の街をいくつか通り過ぎて来たが、気味悪いほど人影が無い。はたして本当に国民が暮らしているのだろうか。そんな疑問すら浮かばせる。佐々波たち師団長は何度が黒の国へ着たことがあるのだが、団員でここまで来た者はいない。今日引き連れてきた団員たちも初めて見る黒の国の光景に戸惑いを隠せないようだった。
やがて更地の地域を抜け、彼ら一行の進軍を邪魔するかのように巨大な岩肌が立ちはだかった。この崖道を進んでいけばノワール魔導衆の館に辿り着くのである。佐々波たち三人の師団長は軍馬から降りた。崖道は整備されていないので馬が歩くには危険なのだ。団員に注意を促しながら身長に崖道を進んでいく。昼間なのに太陽は照っていない。余計に歩きにくかった。
しばらく進むと岩肌で狭まっていた視界が開け、代わりに真っ黒な塔が姿を現した。
「佐々波第一師団長。あ、あの塔が……?」
「ああ」
背後の団員に返答すると佐々波は後ろを振り向いた。彼に続き崖道を歩いていた団員たちが歩を止める。佐々波の背後に聳える不気味な塔。それが放つ威圧感に動けないで居るようだった。佐々波はそんな団員たちに渇を入れるかのように力強く言い放つ。
「みんなよぉっく見とけよ。あの黒い塔、あれがノワール魔導衆の館だ。ここから先は奴らの敷地だ。どんな魔術が仕掛けられてくるか分かんないぞ!」
長きに渡って冷戦状態だった白の国と黒の国。千年王国の二大大国である二つの国で今まさに最大規模の神権戦争が始まろうとしている。ついに宣戦布告のときが訪れたのだった。
<第二十六話 「黎」:終>
サブタイトルの「黎」は「黎明」から。
夜明けや物事の始まりという意味。
戦争が始まる直前を表すサブタイトルにしてみました。