第二十五話 綾
団長室へと消えた桜月に取り残されたフタバは、茫然と廊下に立ちすくんでいた。肌を刺すような寒さを感じるものの、動くことが出来ずにいる。フタバの脳裏には桜月の言葉が消えることなく浮かんでいた――『私は縹さんに必要とされていないという事なのでしょう』――そう彼は言っていた。あれはどういう意味だったのだろう?
混乱したまま踵を返したフタバは、振り向いた途端にある人物の視線とぶつかった。
「久しいな、井上フタバ君。」
「あっ!」
驚きのあまり声を上げたフタバの視線の先には、いつから背後にいたのだろう、早乙女 炎が佇んでいたのだった。早乙女炎――井上姉弟が覗き見した入団試験において謎の術を、使い縹や佐々波たち試験官を当惑させた人物である。
<第二十五話:綾>
隈に縁取られた不健康そうな瞳がじっとフタバを見下ろしている。整えもせず伸ばされている黒髪が、こけていて病的に白い早乙女の輪郭を縁取っていた。以前の紺色の着流しは身につけておらず、支給されたのだろう団服を着込んでいる。ボンヤリとその場に佇む長身のその姿は気味悪いことこの上ない。
この人苦手なんだよな……と内心思いながらフタバは重い口を開いた。
「久しぶりだね……いや、久しぶりデスネ……早乙女さん……」
「ようやく私の顔を覚えたかね」
「はあ、まあ。」
悪い意味で特徴的な早乙女の容姿は、嫌でも記憶から消されないだけなのだ。
フタバはこの青年に恐怖感を覚えていた。入団試験で見せた、白の国では禁止されている魔術を使ったときから始まり、フタバとまどかの父親――東條喜一のこともなぜか彼は知っていたのだ。つい先日入団してきたばかりだというのに。その上、フタバは父の東條と似ていると言っていた。今は亡き東條の生前まで知っている口ぶりだったのだ。
早乙女というこの男は、どこまで父や自分のことを知っているのだろう? そう考えただけでもフタバは心臓が畏縮する思いだった。早乙女の、虚ろで冥府を見ているかのような黒い瞳に捉えられると、自分の全てが暴かれてしまっている気がする。
「君はもう聞いたかね。黒の国との戦争が始まることを」
地を這うような不気味な声で早乙女が言った。フタバは頷く。
「ふむ、それならば話は早い。早速私に着いてきたまえ。もうすでに第一師団長殿たちは教団を発っている。いささか急いで行かねばならない」
「……は?」
「君と私で黒の国へ赴こうと言っているのだ。もちろん――任務に発った師団長殿たちや、団長殿には内密でな」
「……はー!?」
フタバは信じられないような思いで目を見張り、早乙女の顔を凝視した。あの団長の許可も得ずこの男と黒の国へ行くなど、バレた時のことしか想像できず恐ろしい。これから戦争が始まるという危険極まりない敵国に、こんな妖しげな男と行くなんて。
「ぜっ、絶対嫌だからな! オレは! あ、あんたと黒の国に行くなんて……っ、もし団長にバレたら……っ」
「――この計画は君のためなのだよ」
フタバの言葉を遮るように、早乙女がすばやく言った。
「オレのため?」
「さよう。私は思うのだ。君は戦争の第一線にいるべきだと。戦闘能力はまだ無いにしても――今後の君のために、出来るだけ第一線の苛烈な戦いをその瞳に焼き付けておくべきだ」
唖然とするフタバを見降ろし、早乙女は続ける。
「君はいずれ、嫌でも戦争に駆り出される事となるだろう。これはあの団長殿ですら予想はしていない、私にしか分からない事だがな。」
「なんであんたがそんなこと分かるんだよ?」
「私の能力ゆえ……それだけ言っておこう。それはともかくだ。いずれ刀を持つ君のために、今から戦争の様子を見ておいた方が良いと私は言っているのだ。君が刀を持つ運命は避けられないだろう――君が――あの東條喜一殿の息子である限り。」
東條喜一。それは亡き父の名だ。その名前が再び早乙女の口から発せられたことに、フタバはひどく衝撃を受けて狼狽させられることとなった。父のことなど知らないはずの早乙女が、父のことを知っている。
フタバは以前から思っていたのだ――早乙女は団長の縹や姉のまどか以上に父のことを知っているのではないかと。それゆえに父の話題を早乙女に出されるとフタバは弱い。もっと父の事を知りたいと思う気持ちが強く滲み出てくるのだった。
「オレが、父さんの息子である限り、刀を持つ運命だって事……?」
「さよう。さあ、往くぞ井上フタバ君。時間がない。」
言いながら早乙女は左手に持っていた“あるもの”をフタバの前に掲げた。それはフタバの背ほどもある大きなもので、白い布に隠されていた。訝しげにそれを見るフタバの前で早乙女は布を取り払う。現れたのは巨大な鉾だった。両刃の剣には、『白の教団』の団章である翼を広げた鷹が彫られている。柄の部分の模様や装飾品は豪奢なもので、立派な鉾だった。教団のものだとは分かったが、一体これは。
表情に疑問を浮かべたフタバをちらりと見て、早乙女はかすかに嗤いながら言った。
「これは君の父上である東條喜一殿が十年前に使用していた神器――『時鉾・邂逅』だ」
< 2 >
ようやく太陽が暖かい日差しを照らし出してきた。まもなく昼にさしかかるだろう。白の国から離れていくにつれて寒さは和らいできていた。
『白の教団』の第一師団、第三師団、第八師団は団長の縹からの命令を受け、黒の国を目指して早朝に本部を発った。千年王国の最北端に位置する白の国から大陸の中央の黒の国まで向かうには、途中で「翠の国」と「黄の国」を通らなければならない。
一行はいま翠の国を横断しているところだった。翠の国は白の国が持つ神権を奪うためについ最近まで戦争を起こしていたのだが、白の教団によって鎮圧されたばかりである。それゆえに教団の一行である彼らが街中を横断すると、翠の国の国民たちは家の中に飛び込むようにして逃げていく。
「な……なんかわたし達……翠の国のみなさんに怖がられているようですね……」
第八師団長である月本 草音が呟くように言った。
馬の蹄の音が住民が退けて静かになった街に響いている。彼らは馬を使って移動しているのだ。師団長のみの少人数なら馬車を使うのだが、今回は三師団での任務なので移動人数は約百人。時間が掛かるリスクを背負い、全員が馬での移動となった。
三師団のそれぞれの師団長を筆頭に数百人が馬で行軍する様子は、まさに宣戦布告といったただならぬ雰囲気を漂わせている。
草音の呟きに、隣を馬で移動していた第三師団長の陽炎が答える。
「――つい先日まで翠の国はわたくし共と戦争をしていた。焼け野原となった街もある……恨まれていて当然だ、草音。戦争とはそういうものだ。それに教団が“そういった事”で怖がられるのは今に始まったことではない。白の国の国民にすら恐れられておる。」
草音は陽炎のほうを見た。いつもと同じく、大輪の花が描かれた白い着物を纏っている陽炎。馬に乗っているため裾が乱れているが、その見た目の美しさは損なわれてはいない。対照的に陽炎の表情は厳しくなっていた。真っ赤な艶やかな唇をきつく結び、前を見据える瞳のうえでは眉が寄せられている。
(姐さん……緊張しているのかしら……)
声に出さず草音は思った。ずり落ちてきた眼鏡を直す。
草音と陽炎の前を馬で先導しているのは第一師団長の佐々波 乱歩だ。今回の任務の総指揮者である。病み上がりの彼だが、いつもと同じ調子で飄々としながら言う。
「いやー、それにしてもいい天気ぃ! 白の国じゃあずっと雪だもんなー、他国に来ただけでずいぶん暖かいし。ね、草音ちゃん」
「えっ、あ、そ、そうですね……佐々波さん……。」
草音の曖昧な返答に思わず佐々波は苦笑する。彼の言う通り、翠の国は快晴だった。まもなく昼になる時刻、街を白く染める柔らかい朝の光は清々しい。白の国では感じられない穏やかな風が吹いている。
翠の国は自然の豊かな国なので、街の中にいても至るところに木々が植えられ、花が咲き乱れている。白の国との一番の大きな違いは様々な花が咲いているということだろう。白の国は寒気しか訪れないので、咲く花といえば寒椿くらいである。自然に咲く彩り豊かな花々など皆無なので、久しぶりに見る花は佐々波たちの目を楽しませた。
「こういう花って、任務で他国に行くときにしか見られないもんな。しかもその任務も戦争とか鎮圧とか血生臭いものばっかだし。なんかそういう機会にしか花を見られないって、俺たち悲しい身の上だよねー」
佐々波の言葉に、陽炎は本部の庭に植えられている寒椿のことを思い出していた。紅く色づき花びらを落とす寒椿の花。
白の国に唯一咲くその花と同じ名の人物を一人だけ知っている――市川椿――第四師団長であり、狡猾な狐のような、陽炎と同年齢の男。冗談を言う明るい部分もあるが、あの人を食ったような言動は周りの団員から密かに忌み嫌われていることを陽炎は知っていた。しかし陽炎の記憶のなかの市川は違うのだ。数年前の彼はもっと――……。
陽炎は項垂れていた頭をハッとして上げた。
(わたしは今……何を?)
何を思い出そうとしていた? 数年前の市川のことなど、もう思い出す必要はないのに。陽炎が眉根を寄せた。胸が締め付けられるようだった。もう思い出したくない――未来だけ見ていたい――婚約者である縹の事だけ考えていたい――いや、縹のことしか考えなくては。他の男などこの先必要ないのだから――すぐに裏切る他の男などいらない。
(卓之介様がわたしを愛してくだされば……それだけで……)
悲痛の表情を浮かべる陽炎の横顔を、草音は何も言わず見守っていた。
< 3 >
「これはこれは、第四師団長殿」
本部の中庭に佇んでいた早乙女は、突然の訪問者に親しげな声を上げた。雪を踏みしめながら早乙女に近づいてきたのは第四師団長の市川椿だった。糸目の瞳をさらに細めて笑っている。爬虫類のような笑みだった。
「初めましてやな、早乙女炎クン。入団試験で陽炎はんを虐めてえっらい騒ぎになったんやて? へえ、見たところアンタ俺より年上やな。どーでもええけど」
「錚々(そうそう)たる師団長殿がただの一団員である私に何かご用件でも?」
「ふーん。この期に及んで知らん顔かい。どうせ“気付いて”たんやろ、俺が来る事」
ニヤリと笑う市川。瞳の奥に冥い闇をたたえたその笑みは普段見せない表情だった。市川の思惑を察し、早乙女も不気味に口角を上げた。やや猫背な早乙女の癖のせいで、ぞんざいに伸ばされた髪が頬と口元を隠している。それが余計に得体のしれない気味悪さを演出していた。
「やはり“私と一緒”なのですね……市川師団長殿」
「アンタと一緒にせえへんといてや。俺はアンタほど性根腐ってへんで?」
ニッコリと笑う市川だが、その目元はちっとも笑っていない。
「俺が今日この場でアンタに会おうって決めたんは井上フタバの事や。アンタ、あの弟クン連れてこれから黒の国に行くんやってな? 弟クンは今どこにいるん?」
「井上フタバ君なら自室ですよ。どうやら彼の姉上に事情を説明しているようですね」
「へー。でも団長はんには内緒なんやろ? バレたら怒られるでー」
「そこは上手くやるつもりですよ。どうとでも出来る。」
早乙女は市川から視線を外して、中庭に植えられた寒椿に目をやった。雪の白の中にいっそう映える真っ赤な寒椿。銀世界に包まれている中庭で、その花だけが浮いている存在にも思えた。
市川はなおも早乙女の方をじっと見つめていた。
「ほんと性格悪いんやなアンタ」
「それは市川師団長殿では? まだ教団に隠しているのでしょう。私とあなたの“共通の秘密”を」
「アンタはえらく大胆やったなぁ。入団試験でいきなり魔術をお披露目するなんて俺には考え付かんわ。俺は別に隠してるつもりやないけど。どうせそのうちバレるやろ。黒の国との戦争が始まるっちゅー話やからな」
己の“秘密”を知った瞬間の縹の様子を想像して、市川はクックッと笑った。あの無愛想な団長が驚き狼狽する様子を見てみたいと思うのは悪趣味だろうか。
楽観的な市川の調子を見て、早乙女もつられるようにして妖しげな笑みを浮かべている。そしてその青紫色の薄い唇が言った。
「黒の国――魔術が栄え、千年王国中心部に位置する大国――謎に包まれた国王サタン――そして国家護衛団『ノワール魔導衆』――“懐かしい”ですね、市川師団長殿。あなたがまだ魔術の使い方を覚えているかは存じませんが」
市川は楽しげに笑ってそれに応えた。
<第二十五話「綾」・終>
「綾」とは物の表面に現れたさまざまな形や模様のことで、転じて「表面的には見えないが、たどると見えてくる社会や世の中の入り組んだ仕組み」の事をいいます。
表面上では隠してるけど何やら妖しげな市川(+早乙女)のこと。それにしても市川の登場が久しぶりすぎる。