第二十四話 閑
<第二十四話 閑>
――黒の国。
千年王国の中央に位置するその国は、軍事大国の白の国と並ぶ大国として知れ渡っていた。国面積は広いのだが、その大半は殺伐とした荒野となっている。
そして魔術の使用を許可している数少ない国のひとつであり、神官や魔導士が集まり修行をする場所としても知られている。兵力や軍機は皆無だったが、魔術を駆使してこれまでの戦争を勝ち残ってきた。ただ、白の国とは未だに冷戦状態が続いている。
魔術が栄えている証として、黒の国を統べる王であるサタンは第一級の魔導師である。国民はサタンの姿を見たことはなく、謎に包まれた王として君臨していた。そのサタンは国王と国家護衛団の団長を兼任しており、彼率いる『ノワール魔導衆』も国民にとっては謎の存在であった。国王を取り囲む魔導衆のメンバーがたった九人しかいないという事も所以の一つである。
「……でっ? あたしを呼んだ理由っていうのは何なの?」
苛立たしげにリリスが言った。胸元で腕を組み、眉をきつく寄せている。もとからキツめの顔立ちがさらに強面になっていた。
リリスはこの夜更けに呼び出され、いつもメンバーが集まる広間にいたのだった。彼女の前には中年の男がひっそりと佇んでいる。紺色の燕尾服を纏い、濃い髭を貯えている妖しげな風貌の男だった。
男は年齢の割には若く紳士的な声で言う。
「ふん。どうせ最近、サタン様にお呼び出しされていないのだろう。何のための側近か分からぬな――リリス」
「なっ、何よ! アンタに関係ないでしょ、ルシファー! あのお人は今、忙しいのよ!」
「ほう、サタン様はお忙しい時に側近を呼ばない珍しい国王という事であるか」
その皮肉にリリスは悔しそうに唇を噛んだ。ルシファーという男は“こういう男”だった。魔導衆の中でも一番の年配者であり、知識も教養もある紳士的な男性だ。それゆえに若くして国王の側近を務めるリリスによく嫌味や皮肉を言ってくる。
はっきり言って、リリスは敬愛するサタンに近づきたいがために側近の座を無理やり得たようなものだ。まだ歳若い自分が側近の器量があるとは悔しいが思えない。サタンに一番歳が近く、政治や魔術全てに長けているルシファーの方が側近に向いている。
「あ……あたしがサタン様に必要とされていないと思ってるんでしょ」
プイ、と余所を向いて乱暴に言った。するとすぐに笑い交りの返事が返ってくる。
「あの方は何も必要としていない。私も、リリスも。」
「――っ! あ、あたしは……っ」
「ふん。必要とされたいのならもっとまともな働きをしたらどうだ? この前――白の国の師団長のひとりを負傷させたと聞いたが、それくらいでサタン様の役に立ったとぬか喜びしているのではあるまいな? その時、リリスはその師団長を殺してくるべきだったのだ」
ルシファーの言葉に、もはやリリスは反論出来なくなっていた。
“あのとき”、佐々波に魔女の麻薬を浴びせられたことだけで充分だと思ってしまったのだ。フタバに投げられたリンゴのせいで髪が汚れたと、いうだけで退却してしまった自分の愚かさに今更ながら呆れ返る。
「あ、あたしだってちゃんとサタン様のお為になろうと必死なのよ! でっ!? さっさと用件を言ったらどうなのよ!」
甲高く耳に障る声で怒鳴るリリスに、ルシファーは眉をひそめた。泰然として礼儀をわきまえた態度を良しとする彼は、かねてからリリスの高飛車な素行を卑しく思っている。
ルシファーは笑みすら浮かべて、ゆっくりと話し始めた。
「白の教団が動き始めたようだ――今夜中か、明日の早朝。この屋敷にやって来るだろう」
「あっそ! “あの子”に視てもらったのね。どーせまた偵察か何かでしょ。前だってそうだったじゃない。ローズがちょっとからかったら退却しちゃったみたいだけど」
相変わらずルシファーから視線を外したままリリスが答える。ルシファーは口角を上げて妖しげな笑みを浮かべた。
「いや、今回は違うらしい。詳しい目的は分からんが、大人数を引き連れて来るそうだ」
パッ、とリリスの顔が上を向き、猫に似た金色に光る瞳がルシファーを捉えた。
「大人数? どういうこと? まさかアイツら、本格的に戦争始めようっていうの?」
「おそらく。宣戦布告のつもりだろうな。白の国は翠の国と戦争中だと聞いたが――もう勝敗は決まっているだろうし、時期的にもそろそろ大規模な神権戦争を勃発させてもよい時期だ」
言いながらルシファーは立派な髭を摩る。顔には高尚な笑みが浮かんでいた。リリスもツインテールにした細かいウェーブの黒髪を弄りながら、形容しがたく表情を歪めている。
会話が途切れるとルシファーはリリスに背を向けた。一面、黒に塗られた広間の床を靴の音を木霊させ歩く。
「私はこの事を知らせたかっただけだ。サタン様はレヴィアタンから直接聞いて、すでにその事は知っている。“一応側近”のリリスにも伝えておこうと思ってな。」
そのままルシファーは広間を出て行った。黒く大きなアンティーク風の両開きの扉が閉まる。淡い紅色の照明が灯るシャンデリアの明かりに、リリスの悔しそうな顔がぼんやりと浮かび上がった。リリスは赤く熟れた若々しい唇をギリリと噛む。ここにローズがいれば八つ当たりできたものを――こんな時に限って、あの妬ましい程に純真で無邪気な幻獣の少女はいない。
(あたしがサタン様の側近にふさわしくないなんて……そんなの、あたしが一番分かってるわよ!)
分かっているのに、それをあの男――ルシファーに嫌味混じりで言われるのが気に入らないのだ。悔しいがルシファーの年配ゆえの博識さや有能さは、サタンに信頼を寄せられている。それをルシファー自身も自覚していて、あえてリリスに皮肉を言ってくる。それが悔しくてたまらないのだ。
嫌な気分を早く忘れたい。リリスはさっさと自室に戻ろうと広間の中で歩みを進める。ルシファーが出て行った扉に手を掛けたところで、ちょうどその扉が開けられた。突然のことで固まるリリスの前――扉の開いた隙間から顔を覗かせたのはひとりの少女だった。
ローズよりも年上で、リリスよりもやや年下といった容姿の少女だ。思ったよりリリスが至近距離にいたので彼女も驚いたようだ。肩まで伸びた黒髪のセミロングが揺れる。至って普通の大人しそうな少女だが、その右目には黒い眼帯が禍々しい存在感を放っていた。
「あ、ごめん……急に開けて」
少女は頼りなさげに言った。それを聞いてリリスが乱暴に言い放つ。
「な、何しに来たのよ、レヴィ!?」
「リリスがここにいるって、ルシファー様から聞いて。その……サタン様に“わたしが視たこと”を報告しに行って来たの。そのことをリリスにも伝えておいた方がいいって……」
リリスは心底嫌そうに口を尖らせた。
「その事ならついさっきルシファーから聞いたわよ! ふんっ。良かったわねぇ。サタン様のお役に立てて! あんたはいいわよねぇ、その“邪眼”を使えば簡単に敵の動きを探れて、簡単に敵を殺せるんだがら! レヴィ、あんたはなんの努力をしなくたって、あんたは何も意識しなくたって、ただ敵と目を合わせればいいんだもの!」
「――リリス。そんな、わたしは――」
レヴィと呼ばれた少女、レヴィアタンは胸の前で手を握って揉みしだいている。何か言いたげに口を動かすが、リリスの様子があまりに苛烈なので何も言えないでいた。
『ノワール魔導衆』のひとりであるレヴィアタンは、相手を見つめれば呪いをかけることの出来る“邪眼”を宿す少女である。通常、魔導衆のメンバーはリリスの麻薬を始めとした魔術を駆使するのだが、レヴィアタンの邪眼は魔術の中でも『無意識に発動される魔術』の類だった。
邪眼を宿す右目で他人の瞳を捉えれば、レヴィの意思に関係なくたちまちその者は死に至る。死に至らなくともさまざまな呪いをかけることが出来るのだ。たとえ味方でもその右目で見つめてしまえば呪いをかけてしまう――それゆえにレヴィは右目に眼帯をして、必要な時にだけその封印を解くのだ。
また、その邪眼は遠くの情景を透視する千里眼の能力も持つ。レヴィが念じれば簡単に透視出来るとあって、白の国の内部情報を知るための価値ある能力だ。レヴィの右目のおかげで彼ら魔導衆は戦況を有利に進めることが出来る。それゆえに彼女の能力はメンバーから一目置かれており、それがリリスのプライドを逆撫でするのだ。
「リリス、どうしよう。その、もうすぐ白の教団の人たちが来るから――わたしたちはどうしたらいい? サタン様はリリスに指示を仰げっておっしゃっていたの。」
レヴィに向けた背をピクリと揺らしてリリスは反応した。サタン様が自分の指示を聞けとレヴィに言った――という事は、少なからず自分は信用されているのだ。荒れていた気持ちが収まっていくのを感じる。
先ほどまでとは打って変って上機嫌にリリスは答える。
「あんたは出なくていいわよ。どうせ邪眼しか能がないんだから、実戦ではなんの役にも立たないし! そうね、教団の連中は大人数で来るって言ってもただの宣戦布告みたいだし、立派な武装はしてこないと思うから――……、そうねぇ、明日にでもベルフェゴールを呼んでおいて。あいつの能力なら一人で充分でしょ。きっとサタン様も姿を現わされると思うから」
レヴィは情けない表情のまま頷くと、足早に広間を出て行く。その後ろ姿を、リリスは唇を噛みながら見送っていたのだった。
< 2 >
「はあ……」
大理石の廊下をとぼとぼと歩くレヴィアタンはため息をこぼす。遠くの情景が透視できる便利な“邪眼”を持ち、サタンから頼られているレヴィ。リリスに嫉妬されることはよくあるのだが、今日の嫉妬は一段とひどいものだった気がする。
(リリスってば言い方キツイんだから……。はあ、疲れた……)
屋敷のらせん階段を上り始める。時刻は真夜中で、窓から月明かりひとつ見えない。屋敷内に照らされたわずかなランプだけがぼんやりと灯っていた。
レヴィは黒の国の幹部とは思えないほどに“普通の”少女だ。邪眼の魔術さえなければ、ノワール魔導衆のメンバーになどなっていなかったであろう。それにレヴィが魔導衆に迎えられたのには“ある特別な理由”がある。他言はしないが――レヴィは、自分が魔導衆のメンバーであることに嫌悪感を抱き続けてきたのだ。
(ベルフェゴールのところに行ってリリスの伝言伝えなきゃ……)
虚ろな眼差しのままレヴィはフラフラと廊下を歩んでいく。その右目の黒い眼帯が、蝋燭の不気味な明かりによって禍々しく浮かびあがっていた。
< 3 >
一晩経った白の教団では、一見いつもと変わらぬ日常のなかにも微妙な緊張感が漂っていた。それは団員たちの中で“ある噂”がささやかれているからである。
(今日は教団中がソワソワしてるなあ……なんかあったのかな)
フタバはどこか上の空でそう考えていた。フタバは早朝から佐々波に雑用仕事を任されている。中庭の雪かきの仕事だ。いつもは佐々波が一人で行うか、フタバが手伝って二人で行うかなのだが――今日の佐々波は他の任務があるらしかった。いつまで経っても途絶える気配のない粉雪を頭からかぶりながら、フタバは雪かきの作業を中断する。中庭に面している本部の廊下の窓から中を伺う。行き交う団員たちはやはりどこかおかしい。声を潜め、真剣な面持ちでコソコソと会話しているのだ。
団員の行き来が激しい廊下を中庭からぼんやりと見つめていると、その中にある人物を見つけた。
「あっ……? さっ、桜月さんっ!」
窓の向こうの廊下を横切っていくのは第二師団長の九十九 桜月だ。女性がほとんどいないこの教団の中で、桜月の長い黒髪が靡く様子はひどく目立つのですぐに発見できた。
フタバが声をあげてもその声は桜月に届くことはなかった。フタバは窓を隔てた中庭にいるのだから仕方のないことなのだが……。そのまま桜月は廊下を進み、玄関ホールのほうへ行ってしまった。擦れ違う団員たちが慌てて会釈している。
フタバは思わず中庭を駆けていた。中庭と本部内を繋ぐ渡り廊下を通り、本部内へと足を踏み入れる。遥か先に桜月の後ろ姿が見えた。
(そうだ、教団の様子が変なこと、桜月さんに聞いてみよ!他に聞ける人いないしな!)
急いで桜月を追おうとしたとき、近くを往来している団員たちの会話が耳に飛び込んできたのだった。
「ど、どうしたんだろ。九十九第二師団長。な、なんか今日おっかないな……」
「ああ。いつもなら挨拶すれば笑って返事してくれるのによ」
「きっとアレだよな。アレ――ほら、聞いただろ? ついに黒の国に宣戦布告するらしいぜ。今朝、もうすぐにでも黒の国へ武装して向かうらしい。俺ら第四師団には命令されてないけどよ。どうやら第一師団、第三師団、第八師団の連中が命じられてるらしい」
フタバはハッとして足を止めた。
「や、やっぱ本当なんだなその噂。つーか最初の戦闘に向かうのが俺たち第四師団じゃなくてマジ安心したぜ……。な、なんたって俺たち第四師団は市川師団長だからな。そんな重大な任務失敗したら何言われるか分かったもんじゃないよ……」
「まあな。――それにしても教団の雰囲気もヤバくなってきたな。ついに黒の国との冷戦状態が無くなるっつーんだから仕方ないかもしれねぇけどさ」
団員達はそのままフタバから遠ざかっていく。フタバは去っていく彼らの背をじっと見つめていた。口は驚きのせいでポッカリとだらしなく開いたままだ。
(黒の国との戦争が始まるってこと?)
その場でむずむずと身動きして、フタバは思い出したように走り出した。桜月の後を追う。どういう事態になっているのか、一刻も早く詳しく聞きたかった。そして姉のまどかに伝えなければ。戦争など始まってしまえば、元の世界に帰れなくなってしまうかもしれない。それに――戦争に巻き込まれてしまったら、最悪の場合――……。
そこまで考えを巡らせたとき、フタバの視界には、玄関ホールを横切り団長室の方面へ歩いていく桜月が見えた。縹に会いに行くのか。フタバは気付かれないように後をついて行く。こういうところはフタバとまどかの姉弟で似ているものである。
団長室の荘厳な扉がそびえる廊下を曲がったところで、ピタリと桜月がその歩みを止めた。
「お久しぶりですね、フタバ君。」
「――……ッ!」
バレてる。フタバに背を向けたままの桜月だが、確かにフタバの存在に気付いている。フタバは申し訳なさげに廊下の陰から姿を現した。同時に桜月もこちらを振り向く。いつもの微笑みとは違う、真剣な眼差しの桜月の表情とぶつかった。
「あ、あの、え〜っと、桜月さん、その、オレ……」
「そんな顔しなくて大丈夫ですよ。何か私に用事があったのでしょう?」
「あー……、うん。まあ。」
正直にそう答えると桜月がようやくニッコリと笑った。それに安心したフタバは自ら話を始める。団員たちが噂していたことだ――黒の国への宣戦布告が行われ戦争に突入する、と――その詳細を聞きたいのだと、素直に打ち明けた。
すると案外あっさりと桜月はそのことについて答える。
「もうフタバ君の耳に入ったんですね。ええ、黒の国との冷戦状態は、ついに直接戦争へと発展してしまうわけです。つい先ほど、佐々波さんと陽炎さんと草音ちゃんが率いる師団が本部を発ちましたよ」
「そ、そうなんだ……」
フタバはその話を、どこか夢うつつに聞いていた。
「安心して下さい。フタバ君とまどかさんは私たちが守りますから。本部が狙われる可能性もいずれ出てくるでしょう。そのときはお二人にきちんと避難先を用意します」
「そ、それはいいんだけどさ……その、桜月さんとか、佐々波さんとか、みんなは……戦争に行くんでしょ? その――やっぱり――死んじゃったりする危険とか、あるの?」
フタバは恐る恐るそう尋ねる。その質問に桜月は目を見張ったが、すぐに穏やかな表情に戻った。しかし穏やかの中にも深刻さを隠しているような、複雑な顔だった。
「死ぬ危険ですか。そうですね、私達は国家護衛職に携わる者ですから、王室を守るために常に死とは隣り合わせですよ。王室と“神”を守って死ねるなら立派な殉死です。」
淡々と、説明的な口調でそう告げられる。
「そ、そーなんだ。で、でも、なんか……桜月さんはあんまり任務に行かないから安心だね。ほっ、ほら、いつも任務に行かされてるのって佐々波さんや陽炎さん達じゃん?」
「えっ?」
緊張感の漂う空気を打開したくて、どもりながらフタバが放った言葉は桜月をひどく驚かせた。フタバの言葉に目を見開いた桜月の顔を見て、言った本人のフタバが逆に面食らう。“何かオレ変なこと言った?”と慌てるフタバの前で、桜月は微笑んでいた。その笑みは顔に張り付いているかのような違和感があり、恐怖すら感じるものだった。まるで笑顔を演出しているようだった。
無理やり作っているかのような桜月の微笑みを前に狼狽するフタバ。ふいに桜月が口を開いた。
「そうですね。――縹さんは、私を任務に出すことが嫌なようですから」
やはり彼は微笑んでいる。フタバは自分の発言が桜月にとっては禁句だったことをようやく悟った。
「ど、どーいうこと?」
すると、今まで曇っていた桜月の表情がパッと明朗さを増してフタバの瞳に映った。どこか晴れ晴れとしたような――どこか開き直ったような、そんな面持ちだった。そんな桜月の顔をじっと見ていると、桜月はすばやく答える。
「私は縹さんに必要とされていないという事なのでしょう」
フタバは目を見張った。なぜ桜月がそんなにも清々しい顔でそう言うのか――幼いフタバには理解しがたいものだった。
二人の間には妙な空気が流れていた。肌に感じない風の音が聞こえるほど静かで、フタバは喉が乾いていくのを感じた。 雪が降っている。任務に赴いた佐々波の代わりに雪かきをしてやらねば。そう考えるのだが、恐いほど静かに微笑んでいる桜月を前にして、フタバは身じろぐことすら出来ないでいるのだった。
<第二十四話「閑」・終>