外伝・縹卓之介編 誓
◆注意書き◆
この「外伝・縹卓之介編」は本編の時間枠からはずれ、過去のお話になります。
外伝、とありますがこの話を読んで頂いたほうが今度の展開をより楽しめると思いますので、一読をおススメします。
(今後の展開で外伝の内容に沿ったセリフなどが多数登場しますので)
でも読まなくてもストーリー的に支障はないので、飛ばしてもらっても構いませぬよ。
この外伝は全4話で終了します。
お付き合い頂けましたら幸いです。
何でもしたいと思った
こんな俺の居場所になってくれた
あんたのためになら。
何でもしようと誓った
こんな俺でも
あんたの居場所になれるなら。
<外伝・縹卓之介編:誓>
赤の国。
千年王国の中でも南方に位置する小国で、気候は穏やかで温かく、農業が盛んな国である――と言えば聞こえはいいが、簡単に言ってしまえば田舎の国なのだ。
「こら! 今度はどこに行く気だヴィクドール!」
「待ちなさいヴィル! もういい加減にしなさい!」
農地に佇む寂れた家から、今日も今日とて男女の怒声が響いている。それを無視し、家の扉を荒々しく開けて出てきたのは一家の息子だった。彼こそが両親の悩みの種、ツェルター家の次男のヴィクドール・ツェルターである。
「うっせえな! こんな田舎にいても楽しくねーんだよ!」
ヴィクドールはそう吐き捨てるように言うと畑の中でも気にせず歩を進めて家から去っていく。
両親は二人で揃って重いため息をついた。
「全くあの不良息子が……。兄のアルベルトは医者になって立派に働いているというのに……」
「まだ十九歳とはいえ、そろそろ農業を継いでほしいものだわ」
荒れた態度を表す息子とは正反対に、家の周りは豊かな自然に包まれている。
生い茂る緑の草葉が日差しを吸い込むように全身を伸ばし、微風にゆれている様子は、強い生命力の象徴そのものだ。
離れていく息子の背中を見つめながら、両親は遠い目をするのだった。
< 2 >
「ちっ、農業なんかやってられるか。俺はさっさとこんな田舎の小国から出て行って、剣を学びたいんだよ」
ヴィクドールはこの赤の国で生まれ、十九年間育てられてきた。親譲りの黒髪が彩る顔には鋭い狡猾な瞳が光っている。見るからに目つきの悪い悪ガキだ。
農家を営む家。そして五つ年上の兄は優秀な長男で、医者としては働いている。
ヴィクドールは兄のアルベルトが嫌いだった。両親の期待を裏切ることなく、医者として活躍し、家を離れても送金を欠かさない親孝行な兄。
――それに比べて自分はどうだ。
頭の良さは兄に劣っているとは思わないが、性格が“これ”だ。家族から疎まれるのは当たり前で、その疎外感からさらにヴィクドールが捻くれる。見事な悪循環だ。
農地が広がる道を歩く。この辺りはずっと畑が続いている。さすが田舎の国だ。感心している場合ではない。
ふてくされ気味に歩いていると、背後から声がかかった。
「おーいヴィル!」
ぴた、と止まる足。
その声を聞いた途端、ヴィクドールの眉の皺が更に深くなる。
不機嫌極まりない、といった表情で後ろを振り向くと、こちらに向かって駆けてくる長身の青年が見えた。
ヴィクドールに近付きながら青年が言う。
「お前、またこんな昼間からフラフラ出歩いているのか。父さん達の畑の手伝いはしているのか?」
「兄貴には関係ねーだろ。俺は家を継ぐ気ねぇよ」
「まだそんな事を言っているのか……」
青年というのはまさしくヴィクドールの兄、アルベルトだった。ヴィクドールとは違い、柔らかな亜麻色の髪を持ち、柔らかく微笑む好青年。ヴィクドールと兄弟とは思えないほどの優しい面持ちだ。
医師用の作業衣を翻しながら弟の目の前に歩を進める。
「ヴィル。長男の僕が家の農業を継がないのは悪いと思っている。だが、僕は医者として家の財難を助けたい。だからお前には父さん達の助けになってほしいんだ」
アルベルトが穏やかな口調で促すも、ヴィクドールの厳しい表情は変わらない。
「うっせーな。何言われても俺は家業を継ぐ気はねぇよ。そのうちこんな国出て行ってやる。――それより兄貴、仕事中じゃねえのかよ。こんな所でサボっていていいのか?」
作業衣を指しながらそう言うと、アルベルトは穏やかに笑む。この柔らかな笑顔がヴィクドールの癪に障るのだ。
「これからうちの近くの家に検診に行くところだ。……それよりヴィル、農業を継ぐのを頑なに拒むなら――“いい話”があるぞ」
「……いい話?」
「ああ。この国から出て行きたいと思っているなら悪い話じゃないと思うんだ」
ヴィクドールは無言のまま兄の話に耳を傾ける。真面目な兄が自分に告げる提案。信憑性も確かだろう。
「ここからかなり遠いが――最北端に、『白の国』があるのは知っているだろう?」
「……知ってるに決まってんだろ。ついこの間、また神権戦争に勝って“神”を国に君臨させたんだろ」
「こら。神のことを簡単に口にしちゃいけない」
そう咎めるもヴィクドールは知らぬふりを決め込んでいる。アルベルトは呆れながらも話を続ける。
「その白の国に、『白の教団』という王室護衛団があるらしい。戦争なんかで戦っている軍隊だ。そこの入団試験が不定期に行われているらしい」
「……ふーん。」
相変わらず興味を示さないヴィクドール。
「お前、その教団に入団する気で剣を学んだらどうだ? 白の国に行ってさ。剣を学んで、強くなったら入団試験を受けてみるといい。ヴィルならすぐに強くなれるだろうし、王室護衛団なら給料もたくさん貰えるだろうし、父さん達だって助けてやれる」
兄の言葉に、僅かに表情が揺らぐ。ついにヴィクドールが興味を示したようだった。
『白の国』――黒の国と並ぶ大国だ。もちろん知っている。軍事大国で、和流文化だと聞いた。行ってみたいと思ってはいたが、いかんせん、この赤の国は南方の国。最北端の白の国へ行くための資金も時間もない。
「入団っつってもなー。剣を学べるのはいいけどよ、“教団”って……なんか…宗教っぽくて気持ち悪ぃよ。それに王室を守るなんてめんどくせーし。」
アルベルトはすかさず反論する。
「そんな事はない。王室護衛団なんて立派な仕事だ。父さん達だって賛成してくれるだろうし、剣まで学べてお前に向いている。こんな田舎の国から出て行けるんだ。ヴィルにとって素晴らしい話だと思うが?」
ヴィクドールは少し俯きながら考えを巡らせていた。
大国で剣が学べる――王室護衛団――軍隊。確かに自分にとって素晴らしい話だ。さほど仲の良いわけではない兄のアルベルトがなぜこんないい話をしてくれるのも少し疑問だが……。
「資金は僕が出すよ。思い切って白の国に行ってきたらどうだ? 僕の知り合いも向こうにいるから、白の教団のことに関しては手助けしてくれるだろう」
ヴィクドールはしばらく時間を稼いだ後、兄の顔をまっすぐに見て頷いた。
< 3 >
馬車に揺られて五日。
ヴィクドールは白の国へと到着していた。夕陽に照らされる街の辺り一面には雪景色が広がっていて、その白さに心が洗われるようだった。雪というものをヴィクドールは文献の挿絵だけでしか見たことなかった。
そして予想以上の寒さ。着込んできたつもりだが、それでも長時間の寒さは凌げそうにない。
(もう夕方だし、今日は兄貴が用意してくれた宿で泊まるか……。明日になったら『白の教団』とやらの情報でも集めればいいか)
ヴィクドールは兄に教えてもらった宿に向かい、歩き始める。
地図を見ただけでもこの国は大国だと分かる。彼が今いるこの街は小さな街だが、赤の国の農村に比べたらそれなりの都市だ。
(……白の国の国民は不思議な服を着ているな。それに建物も変だし)
夕方で人もまばらな街を歩きながら思った。
布一枚で身体を覆い、足首まで裾が伸びている。男も女も同じような形の長着だ。
文献ですら見たことのない服。母国から出たことのないヴィクドールは、“着物”という概念をまだ知らなかったのである。
そして白の国の特徴である和流文化と洋式文化の混合。着物を着ている国民が出入りしている街の建物はどれもみんな洋式だった。
ヴィクドールはレンガ造りの建物なら母国でも見たことがあるので、それに疑問は抱かなかったのだが。
(俺が他国民ってことすぐに分かっちまうな)
やがて兄に教えられた宿に到着した。この国は日が暮れるのが早い。もう夕陽は落ちかけている。早く部屋で休みたい、とヴィクドールは建物を見上げたのだが――。
「あ? んだよコレ」
思わず独り言をもらしてしまう。
地図を見ながら来たので場所は確かなはずなのだが、“これ”はどう見ても宿なんかではない。ヴィクドールがたどり着いたのは、街の大通りから少し離れた住宅街。人の気配はない。くたびれた民家が立ち並ぶところを見ると、貧民窟なのだろうか。
そして地図に記された目的地は、その貧民街の一角にある、崩れかけの小さな建物。壁には蔦が這い、外壁のレンガは多くが朽ちてしまっている。
(ここが宿なわけねーだろ……。人もいねーし。兄貴のやつ、地図の印間違えたのか?)
怪しげな建物だがとりあえず入ってみよう。そう思い壊れかけの扉を開けた。錆び付いた音が鳴り、真っ暗な闇が現れる。内部に明かりは無いようだ。常世の闇が広がっている。
眉をひそめながらも、扉のなかへと足を踏み入れる。
――その時だった。
「…………っ!?」
後ろから伸びてきた手によって、口元が布で塞がれる。背後から羽交い絞めにされ、ヴィクドールは驚きに身じろぐ事すら出来ない。
(だ、誰だ!?)
後ろから口を塞がれているというこの状況――ヴィクドールが建物に入っていくのを見計らって、何者かが続いて入ってきたということだ。
辺りは暗く、人物の影すら分からない。おまけに強い力で羽交い絞めにされているので後ろを振り向けない。
焦りを見せるヴィクドールの背後で、彼よりも上背のある大男が粘ついた声で言った。
「赤の国のヴィクドール・ツェルターだな?」
男はヴィクドールに答えを促すために、ヴィクドールの口を抑えつけていた布を取り払う。
「……そうだが、お前は誰だ?」
「まさか本当にのこのこ来るなんてな。意外と兄貴を信用してるんだな、お前」
「はっ? 兄貴だって?」
声を荒げたヴィクドールの顎を大男は無理やり掴むと、彼の顔を上げさせて自分と目が合うようにさせる。思い切り顔を上向きにされたため、ヴィクドールが呻き声をあげた。男と視線が交わったヴィクドールは嫌悪感を露にさせる。顔中が古傷だらけの面相の悪い中年男。どう見ても一般人ではない。
男は低く、地を這うような濁声で言う。
「お前の兄貴、アルベルト・ツェルターは“俺たち”の仲間だ。表の顔は立派な医者だがな。本当は恐ろしい鬼畜野郎なんだぜ?」
口を開いたままのヴィクドールを見下ろし、かすかな笑みすら浮かべながら男は続ける。
「お前ら家族の前では好青年を演じていたようだがな。奴は俺たちとつるんで麻薬を売って荒稼ぎしてんだよ。ハッハッ! 奴が医者なんて仕事やってくれてるおかげで、簡単に麻薬が手に入って助かってるぜ」
「麻薬だって? 兄貴が……!?」
ヴィクドールはアルベルトの顔を脳裏に浮かべた。優秀で気に喰わない兄――あの穏やかな微笑みが偽りだったというのか。
自分は兄がもともと嫌いだし、正直悪人だったとしてもどうでもいい。だが、両親は悲しむだろう。あの立派な兄がまさか柄の悪い仲間とつるみ、仕事の裏で麻薬を扱っていたなど。
「まさか、兄貴が俺をこの白の国に来させてくれたのも、何か企んでのことか?」
ヴィクドールは努めて落ち着いた素振りを見せる。
「ハハッ。当たり前だろ! あの鬼畜なアルベルトが良心で弟に資金まで持たせて、他国に行かせてやると思うか? お前には俺たちのグループに強力してもらおうと思ってな。クスリ漬けにしてやるよ。そんで、よーく稼いでもらうぜ」
ようやく全てを理解する。兄はグループの仲間に自分を引き入れようとこの国へ来させたのだ。『白の教団』の入団を目指せ、というのはただの繕い言だったということか……。
なんにしても、ひとまずこの状況を打破しなくては。
兄が牛耳る麻薬のグループに加入させられ、麻薬漬けになる気はない。
(このオッサン、力は強いが、幸いにここは真っ暗だ……何とかして逃げ切れるかもしれねぇ)
逃げる方法はないか――。
ヴィクドールが必死で考えを働かせているとき、再び大男の手によって口元に布が宛がわれた。何事かと思う前に刺激臭が鼻を刺す。布になんらかの薬が塗られていたのだ。それを理解したときにはもう遅く、ヴィクドールの意識は眠るように落ちていった……。
< 4 >
「――気が付いたかい?」
優しげな男の声で再び瞼を上げたとき、そこは気を失う前の暗闇ではなかった。
ひどく頭が痛い。視線を動かすことすら億劫だ。ヴィクドールは必死の思いで視線を辺りに巡らせると、こじんまりとした室内がランプのオレンジ色に染めあがっていた。
(……あ? ……どこだここ……。俺たしか変なオッサンに捕まって……)
身体はベッドに埋もれている。温かい。安心感を感じながら視線を動かすと、すぐ横に一人の男がランプに照らされていた。
「あっ、あんた……!」
咄嗟に先ほど対峙した大男かと思って身構える――が、見るからに違う男だった。眼鏡を掛け、柔らかく微笑む博識そうな男だ。歳は二十代半ばくらいだろうか。男は瞳を細めて笑う。
「怯えなくていい。私はさっきの男ではないよ。どこにも怪我はないね?」
「おっ、怯えてなんかねーよ!」
「それだけ元気なら怪我はないようだね。」
勢いで起き上がったヴィクドールを男はそう言って笑った。穏やかに微笑み、温かな声で笑うその様子は、どこか兄のアルベルトに似ていると思った。
そこでヴィクドールは先ほどまでの事を思い出す。
「アンタ誰だ? 俺、さっきまで貧民窟で変な男に捕まって――」
男は笑顔を崩さずに答えた。
「あの辺りは治安が悪いからね。部下と見回りをしていたら君があの建物に入っていくのが見えたんだ。あの建物は“私たち”がいま追っている麻薬グループのものなんだよ。服装からして君は他国から来たんだろう? そんな君が建物に入っていくものだから気になって追いかけたんだ。――そうしたら中で捕まって気絶している君と、グループのメンバーの一人がいてね。君を助けてここに連れて来たってわけさ」
ヴィクドールは男から視線をはずして眉をひそめた。彼からすれば“助けられた”というのがカッコ悪いのだ。
「明日、君の国まで送っていってあげるよ」
「……クソ兄貴のいる国になんて帰らねぇよ。俺はこのまま白の国にいる。剣を学びたいんだ。兄貴に騙されたのも、そういう理由なんだ」
「へえ、君は剣を学びたいんだね」
男はずり落ちてくる眼鏡を直しながら満足げに頷く。
「それならいい場所がある。この国には『白の教団』っていう王室護衛団があってね。そこなら身分も出身も関係ない。剣を学んで入団を目指したらどうかな?」
「…………。」
その話ならもう知っている。
最初は兄の知り合いとやらの手を借り、その教団への入団を目指すつもりだったが、今となってはそんな事も出来ない。独学で剣を学び入団試験に臨めるほど試験は甘くないだろう。
ヴィクドールは相変わらず男のほうを見ずに言った。
「頼りにしていた教団関係の知り合いも虚像だった。俺には剣を学べる宛もねぇし、適当に働きながら貧民窟ででも暮らしていく。」
迷いを見せずにそう言うと、男はしばらく何か考える素振りを見せた。室内に静寂が訪れる。ランプが優しげな光を室内にもたらし、二人の男を包んでいた。
やがて男が口を開いた。
「そういう事情なら――…、そうだね。私が面倒を見てあげるよ」
「……はっ?」
「この部屋の隣は空き部屋だし、そこを使わせてもらえるように頼んでみる。それに私のもとでなら教団への入団も簡単になると思うよ」
そこまで男が言ったとき、ヴィクドールは無理やりその言葉を遮る。
「待て。アンタ何者? アンタのもとでなら入団しやすくなるってどういう意味だよ?」
男はにっこりと笑う。ヴィクドールが大嫌いな、兄と似ている雰囲気で。
「私は東條喜一。『白の教団』の第九師団長なんだ。ちなみにここは教団の本部だよ。幹部の部屋がある一角だ。」
「……第九師団長!?」
驚きを隠せないままのヴィクドールに向かって、東條は続ける。
「君の名前と年齢を教えてくれないかな。今日から面倒見てあげるやんちゃな野良犬の名前くらい知っておきたいんだけどね?」
「……ヴィクドール・ツェルター。十九歳。」
「へえ。その名前だと南方の出身だね。うーんどうしようか。この国で生活していくなら名前を変えないとね」
ヴィクドールはハッとして肩を震わせた。
聞いたことがある――他国に住処を移す際には、その国の名前に改名しなければならない、と。東條が言ったことに一瞬戸惑ったが、名前を変えれば赤の国で暮らしていたときの身元は分からなくなる。そして新しい自分になれるのだ。白の国の国民としての、新しい自分に。
ヴィクドールが改名を拒絶する理由はなかった。
「名前なんて別になんでもいーよ。アンタが決めてくれ」
「うーん、どうしようかな。そうだねぇ――…」
しばらく時間をかけて考えるのかと思いきや、東條はすぐに言った。
「よし! ヴィクドール君、きみの名前は今から『卓之介』だ。縹 卓之介。どうだ、いい名前じゃないか」
「……“縹 卓之介”?」
「ああそうだ。今日からその名で生活していくんだ。私が剣術を教えてあげよう。そしていつか入団試験に合格して、一緒に教団で働くんだ」
東條が提示した名前は、驚くほど自然にヴィクドールの頭に染みわたっていった。何の違和感も感じない。生まれながらにしてその名前だったかのような感覚だった。
小さく頷き、新しい名を受け入れたヴィクドールの様子を、東條は笑顔で見ていた。
「今日から私と君は兄弟みたいなものだよ。悪ガキな君を更正していってあげないとなぁ。じゃあとりあえず、世話になるお礼を私に言ってみて」
お礼? とヴィクドールは表情を固くさせる。お礼なんて、ここ最近言った覚えがない。いつでも我がまま、唯我独尊に生きてきたから、他人にお礼なんて言ったことがないのだ。
口元をきつく結び、鋭い目つきのまま固まるヴィクドールを見て東條は苦笑を漏らす。
「ほらっ、お礼は? そういう事が集団社会では大事なんだよ!」
「……これから世話してくれるそーで……あ、ありがとうございます……」
ぶっきらぼうに言う。しかしそれでも東條は嬉しそうに笑っていた。初めて口に出した“お礼”も、言うのを強制されることも、不思議と嫌だと思わなかった。
ヴィクドール自身、他人から強制されたことに素直に従っている自分に驚く。こんなこと今まで無かった。しかし――。
「よろしくね縹 卓之介くん。これからは私がこの国での君の家族だよ」
東條にならお礼を言ってもいい気がした。従うのも悪くない気がした。兄と似ている優しい笑顔。本当に新しい兄が出来たみたいだった。
ベッドから見える窓の外では雪が降っている。橙色に染まる室内、青白く光る外の雪。こんなに景色を美しいと感じたのも初めてだった。
こうしてヴィクドールは『縹 卓之介』として白の国の住民となったのだった。
<外伝・縹 卓之介編「誓」・終>
◆あとがき◆
ヴィクドールという名前はドイツ名です。