第二十話 想
夜の名残りを射抜くような朝の光が、本部の庭に差し込んでいた。早朝――珍しく曇り空ではなく、快晴が広がっている。
寒椿が咲き乱れる中庭には二人の少女がいた。
ベンチに腰をおろし、片方の少女が暗く淀んだ表情で俯いている。眼鏡とおかっぱ髪が特徴の文学的な少女だ。本来はロングコート状である団服の裾を切りミニスカートに改造している。真面目そうな外見だが、短い裾から伸びるすらりとした白い美脚が朝の光に輝いていた。十代のわりには豊満な胸にも彼女の顔とのギャップを感じさせる。
「姐さん……もう朝なのにまだ帰ってこない。あああ、どうしよう。心配です。姐さんに何かあったらわたし……」
彼女は両手を胸の前で揉みしだきながら、心配げに言った。眼鏡のサイズが若干大きいらしく、ずり落ちてくるのを定期的に直している。
彼女の言葉に、もうひとりの少女が答えた。
「大丈夫だよー! まったく、草音ちゃんは心配性なんだから。あの陽炎さんだよ? 無事に決まってるじゃん。それに椿くんも一緒なんでしょ?」
その少女が言うとおり、眼鏡の少女の名は草音といった。草音はささやくような声で答える。
「そうだけど、ひよりちゃん……。姐さんと市川さん……。ううん、何でもない……」
“ひより”と呼ばれたもうひとりの少女は非常に小柄で、本当に幼い少女だった。草音の胸下くらいまでの身長しかなく、纏っている団服が見るからにぶかぶかだ。色素の薄い髪を高い位置でツインテールにしていて、明るく笑う様子は満開に咲く大輪の花のようだった。
心配げな顔を崩さない草音に、ひよりは元気付けるように言う。
「椿くんのことは言わない! 陽炎さんの問題なんだから。ねっ!」
「うん……そうなんですけど……」
「もー! 草音ちゃんは消極的過ぎぃ!」
そのときだった。
僅かに雪が残った土擦れの音がしたのだ。草音とひよりは同時に振り向く。二人が座るベンチの後ろ――小さな噴水のところに小さな少年が立っている。中庭に人がいると思わなかったのか、少年は明らかに困惑していた。しばらく三人は見つめあい空白の時間が流れたが、やがてひよりが絞り出すような声で言う。
「――きみ、誰?」
少年は答えた。
「えっ、えっ。い、井上フタバ……です。」
<第二十話:想>
朝の寒さは少し和らぎ、心地のよい日差しが中庭に注いでいた。本部の中からは団員たちの声が飛び交っている。
フタバは言われるままベンチに座った。ひよりと草音の真ん中である。出会ったばかりの年上の少女二人に挟まれて座るのはどうも落ち着かない。そんなフタバを他所に、ひよりが満面の笑みで言った。
「あたし、春野ひより! こう見えても第六師団長なんだ!」
「へ、へえ……?」
フタバは驚きに目を丸くする。たいして自分と身長も変わらない幼い少女が師団長とは。
「きみってアレでしょ? 少し前から教団に居候することになったっていう男の子。」
「うん。あと姉ちゃんがいるんだ」
その答えにひよりは頷きながら言った。
「知ってるよ! さっちゃんが言ってたもん」
「“さっちゃん”?」
「知らない? 第二師団長の桜月さんの事だよ!」
笑顔で言うひよりに、もはやフタバは頷くだけだった。見えずとも男である桜月を“さっちゃん”と呼ぶとはいかがなものかと思うが、口にはしなかった。
話題に困っているフタバを察したのか、今まで沈黙を守っていた草音が口を開く。
「わたしは月本草音と申します。その……一応、第八師団長です。あの……君はもしかして、今まで姐さんと共に黒の国へ行ってきたのですか? そういう話を聞いたので……」
「“あねさん”?」
「あ……陽炎さんの事です。ご存知ですか? あの……第三師団長の。」
フタバは頷いた。それを見て安心したように草音が口元をほころばせる。フタバは草音の質問に素直に答えた。
「うん。えーと、市川さんと陽炎さんとなぜかオレで行ってきたんだ」
とたんに草音が心配げな表情に戻る。
「ああ、そうなんですか……。姐さん、大丈夫でした? その、市川さんと――」
「だーから草音ちゃんっ! 椿くんのことは言わないの!」
ひよりの怒声が飛んで、草音は口を噤む。フタバには二人の話す内容がさっぱり理解出来なかった。
中庭は気持ちのいい陽気に包まれていた。太陽が優しく差し伸べた手のような、小春日和の柔らかな朝の光。最近は雪が降らないので過ごしやすい日が続いている。そこでふと、心地よく時間の流れを感じていたフタバの脳裏に疑問が浮かぶ。
「あのさあ、そっちの、春野さんって……」
「ひより! 春野ひよりだよ!」
「オレと同じくらいの歳なのに師団長って凄いんだねー。強いってことでしょ?」
しばしの沈黙。
ひよりと草音が同時に固まったのだった。何か悪いことを口にしたのかと戸惑うフタバ――笑顔のまま表情を凍らせる。たっぷりと間を置いたひよりが、不機嫌極まりないといった顔でフタバを睨み、言った。
「あたし、君と同じくらい低年齢に見える?」
その声は怒っていても可愛らしい響きがある。
フタバは戸惑いを隠せないながらもそれに頷くと、途端にひよりが顔を泣きそうに歪めた。
「もー! みんなであたしをバカにして! あたし十七歳だもん!」
「ええ!? 十七歳!? そ、そうなの?」
「“そうなの?”じゃないよー! うわーん、草音ちゃあん!」
そう言いながら草音に抱きつくひより。本気で悲しんでいるようだった。フタバが慌てて謝るも聞こえていないようだ。まさか自分より六歳も年上だったとは――口元が引きつるばかりである。やがて落ち着いてきたらしいひよりが、少し泣き声が混ざった声色で言った。
「はあ〜。あたしいつも幼く見られちゃうんだよね。背も全然伸びないしー……髪の毛もツインテールじゃなきゃ似合わないんだもん」
「ひよりちゃん、そんな事ないですよ……」
控えめな口調で慰める草音にも、ひよりは強く言った。
「いいの草音ちゃんっ! どうせあたしチビだから! 年齢相応に見られたことなんて、東條さんにしか――…」
はっ、とひよりが思いついたように目を見開く。言葉を途切れさせたひよりに疑問の視線を向けるフタバと草音。するとひよりが厳しい顔になって、フタバの瞳を真正面から見て言う。
「君の名前、井上フタバくんだったよね?」
真剣な眼差しに、フタバはたじろぎながらも機械的に頷いた。ひよりが難しい顔をしてその事実を吟味する。やがて記憶の欠片を手繰るように、思い出すように呟いていった。
「そういえば、東條さんから聞いたことある――。うん、確かに言ってた! 息子さんの名前、
『ふたば』だって言ってた。男の子の名前で『ふたば』って珍しい名前だな、って思ったもん!」
再び沈黙が流れた。風が起こす草木のざわめきが鮮明に感じられる静けさである。
フタバはひよりの話を怪しげに聞いていた。父親は顔も見ぬうちに死んでいるし、名字も東條などではない――井上だ。それにこの世界に父親がいたら自分の存在はどうなる。とにかくフタバのなかで、ひよりの話は勘違いにしか聞こえなかった。
しかし気にはなるので、フタバは呆れ気味に言った。
「その東條さんって人、オレの父さんなんかじゃないよ。オレの父さんはもう死んでるんだ。“みよじ”も違うしー」
「むうっ。あたしの勘は確かだよ! 東條喜一さんだよ? ほんとに知らない?」
「……東條“喜一”っ?」
フタバは眉が山を描くほどに目を丸くさせた。『喜一』――その名前は聞いたことがある。まどかから、両親の話を聞いているときに。
(父さんの名前は喜一だ。やっぱり東條さんっていうのが、オレの父さん?)
混乱を隠せずに、慌てた口調でフタバが言う。
「で、でもオレの父さんはずっと昔に死んだんだ。死んだ人が、この世界で生きてるわけない。普通に生きている東條さんが、オレの父さんのはずないよっ」
それを聞いた草音がすかさず口を開く。訴えるような、必死な声色だった。
「いえ、いえ、違うんです……。東條さんも、東條さんも……ずっと昔に亡くなったんです……!」
三人は顔を見合わせた。フタバ達の世界にいた『井上喜一』、千年王国にいた『東條喜一』。ともに死亡している二人の人物は同一人物なのだろうか?
< 2 >
のどかな中庭に残されたのはひよりと草音だけとなった。先ほどから何人かの団員が中庭を横切っているが、ここに留まり、明るい日差しを浴びられているのは二人だけである。
フタバが去ったあと、一番それを気にしていたのは草音だった。彼女は心配げに両手を揉みしだきながら眉を下げ、苦しげな表情をしている。癖とも言える草音の行動だ。
「ああ……東條さんの事を話してしまって良かったのでしょうか……。団長さんに許可も取らずに……」
「縹さんの許可なんていらないよ。だいじょーぶ! フタバくんも何か思う事があるみたいだし、お姉ちゃんに相談でもするんじゃない?」
ひよりの返事に納得したようで、草音は表情を和らげた。心配性なのが草音の困るところでもあるが、他人の意見を受けるとすぐに心配は収まるのだった。
東條の話も落ち着いたその時――中庭の向こうにそびえる荘厳な門から入ってくる人物に、二人はすぐに視線をとまらせた。
「陽炎さん!」
「姐さん!」
二人は同時に叫ぶ。その声に門を入ってきた人物――陽炎がうろんげな瞳を中庭のほうに向けた。彼女の顔は明らかに疲労が混じっていて、暗い影が差している。
草音が真っ先に陽炎のもとに駆け寄った。ミニスカートに改造された団服の裾が翻る。
「姐さん、無事でお帰りくださって良かったです……! わたし、心配していたんです。昨日の夕方にここを発って、今朝まで帰ってこない話でしたから……。しかも、黒の国の偵察なんて任務……!」
陽炎は影を帯びながらも色あせない妖艶さで微笑んだ。
「ありがとう草音。わたしは大丈夫です。市川殿もおりましたから」
「はい、聞いています……。」
途端に草音が俯き、淀んだ空気が二人の間に訪れた。ひよりは少し離れたところからその様子を見ていた。ひよりは分かっているのだ。“この話”の時には、陽炎と草音の間に関与しないほうがいいという事を。見た目は幼くても冷静な判断力を持つのが春野ひよりという少女なのである。
悲しげに瞳を伏せる草音の心情をすべて悟ったかのように、陽炎は微笑みさえ浮かべて言う。
「――草音。市川殿のことは、わたしに気兼ねしなくてもよい。わたしには卓之介さまがおります故。わたしは卓之介さまだけに愛して頂こうと決めているのです」
「姐さん……! そんな事……。わたしは市川さんの事は別に……」
陽炎が言葉を遮った。
「よい。そう言わなくとも分かっています。草音は入団した時から市川殿のことを素直に想っておるのでしょう? わたしは違う――…わたしは卓之介さまにしか、愛される可能性がないのですから」
「姐さん……」
「市川殿はよい人でございます。他の方は市川殿のことを良く思っていないようですが」
草音はそれ以上何も言えなかった。というのも、陽炎が草音の顔を見ながらもその本心はどこか遠くを見つめていたからである。彼女の瞳はただ目の前の景色を写しとるだけの澄んだガラス玉のようだ。憂いを含んだ翳りのあるその瞳は、皮肉にも陽炎の厭世的な美しさを一層深めているのだった。
<第二十話「想」・終>