第十八話 弟
「フタバくんが“黒の国”に行くですって!? どういう事なのっ!?」
まどかの第一声がそれだった。『白の教団』本部の玄関ホール。団員達が仕事に駆け回るなか、まどかとフタバはこの場に呼ばれたのである。呼んだのは桜月だ。それは、吹雪が去った昼下がりのことだった。
「理由なら縹さんに聞いたほうがいいと思います。……その、縹さんの独断でして。フタバくんを偵察に連れて行く、と。」
困り顔で説明する桜月に、まどかは声を荒げて言う。
「なんですかそれー! なんでフタバくんが!?」
「ええ、なぜでしょう……。私にも分からないんです。なにせあの縹さんの考えですから」
桜月とまどかは同時に押し黙った。まどかはまだ何か言いたそうに口を魚のように開閉していたが、言いたいことが言葉に出ないらしく――沈黙を守っている。
そんな二人の隣で、話題の当事者であるフタバがようやく口を開く。
「あのー……」
まどかと桜月が同時にフタバを見下ろした。
「団長さんの命令ならオレ、行くけど……」
「なんですってえ! フタバくん、正気なの!」
「う、うん。だって命令だし。」
姉は冗談じゃない! と声を荒げるばかりだった。そうなると手に負えないまどかだ。その性格を理解しているのだろうか――桜月が穏やかな口調で姉弟の間に割って入る。
「フタバ君、嫌なら断っていいんですよ。縹さんには私から行っておきますから」
しかしフタバは首を振った。その瞳は幼いながらにも真っ直ぐな意思を秘めている。フタバは考えていた。脳裏から離れないのは、今朝の早乙女の言葉。“君は父上と似ている”というあの言葉だった。
(もっとこの教団に関われば、父さんの事が分かるかもしれない……)
フタバも幼いなりに考えたのだった。死んだと聞かされた父――もし生きているのなら……。
「ごめん姉ちゃん。危ない事しないから、オレ行くよ。」
自分を守ってくれると言った姉には申し訳ないが、早乙女が示唆した父の謎。それを少しでも知りたいのだ。チラリとまどかの方を見上げると、案の定、まどかの顔は憤りと沈痛の混ざった表情になっている。黙ってフタバを見下ろすまどかは、珍しい事にそれ以上何も言わなかった。
<第十八話:弟>
「良かったんですか? フタバ君を行かせてしまって」
控えめに桜月が聞いた。
玄関ホールに残ったのはまどかと桜月だけになった。二人は最初の位置のまま少しも動かず、フタバが去った後もその場に立っていた。フタバは団服に着替えるため別室に移動しているのである。
吹き抜けになっている高い天井から、吹雪の後の晴天の光が神秘的に注いでいる。“フタバの任務への連行”という思いがけない決定にも予想外に静かなまどかを、桜月はいぶかしんでいるようだった。
「……私、思ったんです。」
真っ直ぐ前を見て佇むまどかがふと言った。どこか夢見るような、漠然とした声色だった。
「フタバくんももう十一歳なんだから、自分の意思で行動させた方がいいですよねえ。分かってるつもりなんですけど……」
桜月は黙って耳を傾けている。
「でも、フタバくんが小さな時に両親が死んじゃったから、ずっと私が親代わりだったんです。だから……今でもなんか、常にフタバくんには目の届くところにいて欲しいって思っちゃって。……もうフタバくんもそんな歳でもないのに。」
そう言うまどかの顔は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようだった。桜月はじっくり間を置き、言葉を選んで答えた。
「でも――フタバ君は、とても恵まれていると思います」
まどかは視線だけを桜月に移した。桜月が続ける。
「両親がいなくなってもそんなに心配してくれる肉親がいるなんて、フタバくんが羨ましいです。それってとても幸せな事ですよ」
「そうですかあ〜? お父さんとお母さんがいるのが普通ですもん。」
そこでふと桜月が口を閉ざした。訝しんだまどかが先を促すと、重そうな口を開く桜月。
「団員は肉親がいない方が多いんです。特に師団長なんかは。」
「え、なんでですかあ?」
まどかの質問にはすぐに答えず、桜月はたっぷりと時間を置いた。二、三分後経ったあと、まどかの顔を真っ直ぐ見据えた桜月の顔は、いつもの優しげな柔らかい表情とは打って変わって真剣なものになっていた。真剣さのなかにも厳しさが潜んでいる――そんな面持ちだった。
桜月は低めのアルトで言った。
「――“こんなところ”に入団した人達が、普通の生活を送ってきたと思いますか?」
< 2 >
団服の袖に腕を通しながらフタバが思ったのは、まどかの事だった。玄関ホールにてまどかと別れるとき、怒っているような、悲しんでいるような表情。あんなまどかの顔を見るのは初めてだった。
(姉ちゃん、怒ってんのかな……)
それでも、縹の命令に言われるがまま従い、どうにかして父の事が聞ければ――。いつまでも姉にばかり頼ってはいられないのだ。
フタバは自室にて団服に着替え終わったところだった。桜月に渡された団服は一番小さいサイズらしいが、それでも小学生のフタバにしてみればぶかぶかである。
ロングコート状の団服は腰周りをベルトで締めるようになっていた。ベルトを締めてもかなり余裕がある。肌の露出がゼロに近い団服は室内では暑い気もしたが、一年中冬の白の国ではこれくらいの防寒がちょうどいいのだろうか。
着替え終わって数分後にフタバとまどかの自室に現れたのは市川椿だった。フタバを呼びに来たらしかった。そのままフタバは市川、陽炎と共に本部を経つことになった。まどかの事が未だに気がかりなフタバの表情は暗い。
「団長はんも何考えてるんやろな〜? なあ弟クン。ただでさえコッソリ行わないとあかん偵察の任務に居候を連れて行け、なんてなあ?」
「……うん」
フタバの返事は至極曖昧なものだった。
市川とフタバ、そして陽炎の三人は黒の国への偵察のため、本部を出発したところだった。まだ昼下がりだったが、黒の国に着く頃には夜らしい。三人は徒歩で街へと向かっている。白の国で一番大きな街からは馬車で黒の国へ向かうのだと市川は説明した。
「市川殿、黒の国へ着いた際にも、井上殿はわたし達の側に?」
フタバと市川の後ろを歩く陽炎が言った。彼女は相変わらず団服ではなく白い牡丹柄の着物を纏っている。
市川は振り向かずに答えた。
「んー、そうやろなあ。黒の国の様子を弟クンに見せるのが団長はんの目的なんやと思うで」
「……心得ました。」
三人はそのまま、教団と城の敷地を囲む森に歩みを進める。フタバはこの森に知らず嫌悪感を抱いていた。桜月と一緒にいたとき、他国の兵から襲われた場所でもあるし、リリスに傷を負われた佐々波を抱えて立ち往生してしまった場所でもある。鬱蒼と茂る木々に覆われた薄暗い森中は昼間でも気味が悪い。
無言で歩いていると、フタバはふと陽炎が手に持つ長い棒に視線をとまらせた。陽炎が大事そうに持っているその棒は、先端の部分が布で隠されている不思議なものだった。彼女の背丈の同じほどの長い棒だ。
「陽炎さん、それ、なに?」
陽炎は変わらずの無表情でフタバのほうを見ると、言葉を迷いながら紡いだ。
「これは……その――」
その迷う様子に気付いた市川が出し抜けに言った。
「陽炎はん、“神器”のことなら弟クンも知ってるで。俺が教えてあげたんや。“神”のことも一緒にな。」
陽炎は明らかに戸惑っているようだった。
「市川殿……“神”のことも話してしまわれたのですか?」
「ええやーん。どうせいつか知るんやろうし」
なっ、と市川に奇妙な微笑みを向けられるフタバだったが何も答えなかった。そうしていると陽炎がゆっくりと話し始める。同時に棒の先端に宛がわれた布を取り払った。豪華に装飾された槍が現れた。
「これはわたしが“神”により与えられた神器でございます。」
赤を基調とされたその槍の先端部分は烈しい絢爛さを持っていた。一見美しい見た目だが、どこか深い慟哭が垣間見えるような――そんな絢爛さだった。どこか陽炎と似ている。
「この槍は、『朱槍・紅偲び』と申します」
「紅偲び?」
「はい。普段は別の槍を使うのですが……。今日は神器のこれを持ってきたのです」
そう言うと陽炎は再び刃の部分に布を戻した。神器だから隠しているのか、とフタバは納得する。三人は再び歩き始めた。森を進むにつれ暗さは増していった。時々さざめく木々の葉の音が薄暗い空間に妙に響く。寒さも増してきて、フタバは身震いをした。
そんなフタバとは対照的に、相変わらず涼しい顔をしている市川が口を開く。
「陽炎はんは教団一の太刀の速さを誇るんやでー。陽炎はんの朱槍相手じゃあ、俺の『妖刀・黒姫』も太刀打ちでけへんのや。なあ、陽炎はん?」
市川に顔を向けられた陽炎は驚いたように肩を震わせた。陽炎はなぜか途端にしどろもどろになり、言葉を必死で選んでいるようだった。それはフタバの目にも明らかだった。
「え――その――そのような――……。い、市川殿には敵いませぬ」
「何言うてんねん。陽炎はんは第三師団長やん。俺は第四師団長やもん。階級的にも陽炎はんの方が上やわ」
なっ、と市川に笑顔を向けられたフタバは機械的に頷く。
陽炎が少し後ろを歩きながら恥ずかしそうに顔を伏せていた。それがフタバの瞳には不思議に映る。陽炎という女性は厭世的な雰囲気の女性だ。感情を露にしない、妖艶な美女。縹の前くらいでしか感情を露にしないと思っていたのだが、市川の前でも“なにか”に戸惑っているようだ。
「お、街が見えてきたで。あそこからは馬車や」
声を高くして市川が言った。前を見据えると木々の隙間から街が見えた。この景色を見たのは二度目だ。佐々波とまどかと共に買出しに来たときと同じ街である。街道も見えるが、夕方に差しかかろうとしている時刻のため人はいないようだ。一度目に来たときの市場の活気はない。
三人はそのまま街を目指し歩みを進めていった。
< 3 >
馬車から見る風景というのは、フタバにとって初めてのものだった。車や電車と違い、ガタガタと揺れる馬車は居心地が良いと言えない。
三人は街で馬車と従者を借りた。これで三つ国を越えた先の黒の国に向かうのだという。市川とフタバは教団の団服を着ているので、今回は歩いて他国に行くのは避けるらしい。偵察が目的なのでなるべく内密に行うのだ。
白の国の王室護衛団だと気付かれたら面倒が起こるだろうことはフタバにも容易に想像できる。
「馬車は初めてなん?」
出し抜けに市川がフタバに言った。二人は隣に座っていた。その正面に陽炎が座っている。三人はそれなりに立派な馬車の車内で向き合って席を占めていた。
「初めても何も……。オレと姉ちゃんがいた世界に馬車なんてないよ。昔はあったと思うけど……」
「へえ? 面白そうやな。弟クンたちの世界も」
「この世界よりも機械がいっぱいあるんだ。ここはオレ達にしてみれば昔っぽい。着物とか着てるし、車も電話もないし……」
市川は興味深げに頷きながら聞いていた。
それきり、車内は沈黙に包まれた。陽炎はもともと静かな女性だし、市川もよく喋ると思えば急に黙りこむ青年である。フタバは静寂が苦手だったのでなんとか話題を振ろうとしたが、結局何も話を切り出すことは出来なかった。
仕方なく窓の外の移りゆく景色を眺めることにする。街をしばらく走ると、馬車はやがて殺風景な草原に差し掛かった。白の国の国境に近いのか――寒さは和らいでいるようである。変わらない風景に飽きてしまったフタバを襲ったのは眠気だった。我慢する必要もないと思ったので、フタバは素直に眠気に身を委ね瞳を閉ざした。
< 3 >
フタバの仮眠は数時間に及んだ。目を覚ましたとき、馬車の小窓から見えるのは暗闇だけだった。視線だけを車内に巡らせると、眠る前と変わらない体勢のままの陽炎と市川の姿があった。
「お、弟クン。起きたん」
「市川さん……もう夜?」
「とーっくに日は沈んだで」
言われてもう一度視線を窓の外に戻す。暗くて景色が見えない。かろうじて家々が並んでいるのが分かったが、どの家も明かりひとつ点いていなかった。人の気配は全くない。無人の街なのだろうか――。
「市川さん、ここどこ? まだ白の国?」
不安げな声で聞くフタバ。
市川は狡猾さを覗かせた笑みを浮かべると、もったいぶる様にしばらく時を稼いでから答えた。
「――ここは黒の国やで。」
<第十八話「弟」・終>