第十四話 兆
その日、相変わらず団長室は煙草の煙に満ちていた。
「団長は〜ん、入団試験もう三日前に終わってしもうたんやって? なんで俺も呼んでくれなかったん?」
その声は聞く者の耳に嫌でも残るような声色だった。
上司にも敬語を使わないその軽がるしい独特の口調。それを発する青年は、団長室の来客用のソファに身体を埋めている。本来は貴賓客が座るためのソファに図々しく身を置いているのだ。
「……てめえは第四師団長だろ。試験官は第三師団長までって決まってんだよ」
いつもの団長用のデスクに座っている縹が、これ以上ないほど眉を顰めて青年を睨みつける。世界も縮こまりそうな威圧感を放つその眼光を向けられても、ソファの青年はなんとも思っていないように笑い続ける。
「んなケチ臭い〜。佐々波さんの話やと凄い受験者がいたんやって? 魔術を使う早乙女なんとかって奴やろ? 俺も見たかったわ〜」
「…………。」
ケラケラと高めの声で笑うその青年。
縹は正直言って彼のことをよく思っていない。唯我独尊な縹にとって、自分に敬語を使わないのも頭にくるし、常に人をからかっているような言動が気に入らないのだ。
「つーか市川。てめえはなんでこの部屋にいんだよ。自分の政務はどうしたんだ」
青年・市川はニッコリと笑って応えた。しかし純粋な笑みなどではない。見た者の心を一息に握りつぶす、真っ赤な笑顔だった。
「政務は終わったで?」
「……そーかよ」
「団長はんっておもろいなあ」
糸目の瞳をさらに細めて笑う市川。縦長の輪郭に細い糸目、短い茶髪は、さながら狐のような顔つきだった。そしてその性格も。
「あれ、佐々波はんは? いつも団長はんにコキ使われてこの部屋におるやん」
ソファの背もたれに掛けていた団服を身につけながら聞く市川。その団服の胸部分には鷹の紋章が刺繍されている。師団長の証だ。市川は第四師団長なのである。
縹は質問に答えるも、その声には明らかに嫌悪さが混じっている。
「佐々波くんは例の……井上姉弟と買出しだ。」
途端に市川は顔色を輝かせた。
「井上姉弟! あの国王から呼ばれて異世界から来たって二人やろ!? ええなー。会ってみたいわー」
縹は答えなかった。答えたくもなかった。市川や、桜月の様なタイプは苦手だ。何を考えているか分からない上に、口が上手い。団長の自分さえ口では勝てないのだ。
早く部屋から出てけ、と視線で市川に訴えると、ようやく市川が動いた。ソファから腰を上げて笑っている。
「国王が動いたっちゅー事は……分かっとるんやろ? 団長はんも」
「――なんの事だ」
「モチロン、黒の国のこと。気を付けんと噛まれるで? 黒の国の、蛇に。」
縹は思わず煙管を吸う動きを止めた。きつく市川を睨む。彼は笑っていた。嫌な笑顔だ。
「じゃっ。俺は退散しますわ。団長はんに怒られないうちに」
早足で扉に向かい、あっという間に部屋を辞した市川。本当に何をしに来たのだろう。
(ちっ……市川の奴、魔術を使う早乙女に興味を示してやがる……面倒になっちまったな)
煙管の柄で後頭部を掻く。同時に小さくため息を吐いた。
ガタンと音を立ててデスクから立ち上がり、窓辺に近寄る。閉め切ったカーテンを開くと、 部屋を瞬時に飽和してしまうほどの 朝の光が飛び込んできた。冷たい空気を吸い、煙草の煙と共に吐く。
窓の向こう、教団と城を囲う森が広がっていた。その森の向こう、街の市場に今ごろ佐々波とフタバ達がいるはずだ。
<第十四話:兆>
「はあ……っ、も、もう駄目……」
森に差し掛かったところで、まどかが崩れるようにして地面に倒れた。
背負っていた佐々波の身体を隣に横たえると、まどかは荒く呼吸を繰り返す。
「さすがに男の人をおんぶして歩くのはもう限界……」
「ね、姉ちゃん……」
フタバが心配そうにまどかを見つめる。身体が小さく、力も無い自分がなにも力になれないのが悔しい。
まだ森に入ったばかりで、教団に着くためには長い森を抜けなければいけない。仲間に助けを求める手段もない。二人で佐々波を教団に連れて行くしかないのだ。幸い、まだ昼前の時刻だ。時間はたっぷりあるのだが……。
(オレと姉ちゃんだけで佐々波さんを運ぶなんて――)
せめて自分がもっと上背があり、力もあったら、女性である姉にこんな重労働を任せることなど無かったのに。小学生のフタバには何も出来ない。
地面に横たわる佐々波の顔を横目で見ると、相変わらず真っ青で死人のような顔をしていた。血を吐いたせいで口元と団服の胸元が汚れている。呼吸もひどく浅い。早くしなければリリスの麻薬が体中に回ってしまう。
(もう姉ちゃんも限界だ――どうすればいいんだろう……)
俯いて、拳を土と共に握る。
そのとき、視線のしたで佐々波の瞼がピクリと動いた。ハッとフタバは顔を上げる。
「うっ……」
「佐々波さんっ!」
姉弟同時に声を合わせた。まどかに至っては佐々波の肩を激しく揺さぶっている。毒が身体に回る! とフタバが慌てて止める。
佐々波の瞼がゆっくりと開く。淀んだ瞳が現れた。
「――お前ら……?」
「良かったあ! 私、死んじゃったかと思って! 私を庇って死んじゃったらどうしようかと!」
「……ああ……“あの女”の麻薬で……」
はは、と佐々波は力の無い乾いた笑みを浮かべた。身体も少しは動くようで、額に流れる脂汗を手で拭っている。
ここが朝の森の中だと気付いた佐々波は、ここまで自分を運んできてくれたのが二人だと知る。そして教団までは距離があることも同時に気付く。これ以上、井上姉弟が自分を運ぶのは無理だろう。
佐々波は苦笑を崩さず、腰の刀に手を掛けた。
(二人の前だけど仕方ないか……。後で団長に怒られちまうけど)
心配そうに見下ろすまどかとフタバに彼は真剣な顔で告げる。
「悪いけど……この刀、抜いてくんない?」
「えっ?」
「こっちの……少し短い……二本の刀、両方……」
息も絶え絶えに言う佐々波の様子に、慌ててまどかが二本の刀を抜く。短めのその刀は案外重く、ずしりと重さが伝わってくる。そしてまどかとフタバはその刀を抜いた途端、驚きに目を丸くした。
「この刀――緑色?」
フタバが溢した言葉通り、その二本の刀は淡い緑色の光に包まれていた。桜月が所持していた、桃色の光を纏う刀と同じだった。
「佐々波さん、これ……」
「い、いいから――」
佐々波はフタバから刀を両手で受け取ると、まどかに手伝ってもらいながら上半身を起こす。そして二本の刀を交差させるように持つと、小さく、言葉を紡ぎ始めたのだ。
「――吹け、対刀・『鳳翼天翔』!」
瞬間、彼は地面に思いっきり二本の刀を刺した。
困惑するフタバとまどかの前で、刀を包む緑色の光が空へと昇り、煙のように消えていった……。
< 2 >
「ん?」
団長室からの帰り、本部の廊下を暇そうに歩いていた市川がふと立ち止まる。
窓の外で、なにか光ったような気がしたのだ。長い廊下には隙間無く窓が並んでいる。そのひとつに近寄ると、 外を白く染める柔らかい朝の光が教団の中庭に注いでいた。薄く積もった雪が幻想的だ。
「なんや〜?」
確かになにか光った気がしたのだが……。
目を凝らしていると、やがて教団の敷地を囲うように広がる森の上に、光の筋が輝いた。
緑色の光の帯が空に瞬くと、一瞬にして消えた。
(あの緑色の光、佐々波はんの“鳳翼天翔”やないか? あんな所で何してんねんあの人?)
ふと縹の言葉を思い出す。
『佐々波くんは……例の、井上姉弟と買出しだ。』と言っていた。ということは森の中で井上姉弟も一緒のはずだ。
何かおかしいと市川はもともと細い瞳をさらに細めていぶかしんだ。
(森の中で“鳳翼天翔”を抜刀するなんて何かあったんか?)
しばらくその場で考えを巡らす市川だったが、異変を感じてしまった以上、放っておくわけにもいかない。再び団長室に戻り縹の意見を仰ごう、と踵を返したときだった。
「あ、市川さん!」
背後からの声は桜月だった。振り返ると、桜月はどこか急いでいる様子で息を切らして走ってきた。いつもは背で綺麗に纏まっている長い黒髪も、今はいささか乱れている。
「あー、桜月はん。どうしたん急いで?」
「佐々波さんの鳳翼天翔の光が森のほうから……。心配になって、様子を見に行こうと思っていたところなんです。今朝、フタバくん達も一緒に教団を出て行ったので……」
それならちょうど、と市川も自分も行く旨を示した。縹から外出の許可は取っていないらしいが、桜月も一緒なので大丈夫だろうと自己解決する。
そのまま市川と桜月は連れ立って教団を出て行く。師団長が二人して出て行くのを、周りの団員たちは不思議そうに見つめているのだった。
<第十四話 「兆」・終>