第十二話 月
「ちっ……どいつもこいつも秩序ばかり気にしやがって」
会議室から戻り、ドサリ、と縹は自室のベッドに腰を下ろした。団服を乱暴に脱ぎ捨てると、逞しく鍛え上げられた筋肉が月の光に浮かび上がる。寝間着の着物を身につけると、ベッドの上に座り窓の外に視線を投げた。
団長室とは別に設けられているこの自室は、本部の最上階にある。家具くらいしかない質素なこの部屋からは、白の国がよく見下ろせた。
(早乙女の使う魔術をうまく利用すれば『黒の国』に対抗できる……奴の入団は必要なんだ)
自分にもそう言い聞かせる。
その時、扉を控えめにノックする音が響いた。
「縹さん、私です」
「……桜月か?」
入室を促すと、開いた扉の隙間から神妙な表情をした桜月が顔を出した。彼も着替えを済ましたようで、薄紫色の細身の着流しに身を包んでいる。
後ろ手に扉を閉めた桜月が、意味深な笑顔を浮かべた。
「こんばんは。お話があるんですけど、いいですか?」
「…………」
縹が眉間に皺を寄せると、桜月はいつも通り、目を細めて微笑んだ。
<第十二話:月>
桜月が縹の部屋を訪問したちょうどその時。
縹の部屋の隣――佐々波の自室にも、訪問者がいたのだった。
目の前のテーブルに置かれたコーヒーカップを、フタバは困惑気味に凝視する。香ばしい匂いと温かそうに立ち上る湯気。それに手をつけないフタバに、隣に座る佐々波は笑いかけた。
「あ、そっか。お前まだ十一歳なんだっけ。コーヒーなんか飲めないか」
悪い悪い、というもコーヒーを片付けない佐々波。どうしたものかと困るフタバの横で佐々波が手を伸ばしたかと思うと、フタバの前に置かれたコーヒーカップを手にとり、一気に飲み干した。
「俺、けっこうコーヒー淹れるの上手いと思うんだよねー。毎日何回も団長に淹れてやってっからさ」
「……ふーん」
「で、お前、何しに来たの? 普通、団員は師団長の部屋があるこの階に来ちゃいけないんだぜー」
フタバはうつむいて黙り込んだ。まだコーヒーの匂いが残っている。それを心地よく吸い込むと、口を開いた。
「……佐々波さんも、着物きるんだね。この国の人ってみんな着物なの?」
佐々波の纏う濃藍の着流しを指してフタバが言う。
かねてからの疑問を聞いてみた。フタバとまどかのいた世界にも着物はあった。まさかこの千年王国にも着物があるなど、不思議で仕方ない。
「ああ、白の国の国民はみんな着物だぜ。そーいう文化なの。俺たちは団服があるからプライベートでしか着ないけどな」
「オレと姉ちゃんのいた世界にも、着物ってあったんだ」
「へえ?」
さして疑問を抱かず、佐々波はフタバに本来の相談をするように促した。
フタバは重い口を開く。
「えーと――佐々波さん……えっと。オレ、気になってることがあるんだけど」
「へえ〜?」
「この教団の事なんだけど……」
佐々波はフタバの話を促すように、短く相槌を打って耳を傾ける。軽々しく見えるが、堅実な青年なのだとフタバは改めて認識をした。
フタバがゆっくりと話し始める。
「ずっと、気になってたんだ。桜月さんは『白の教団』は正義の軍隊じゃないって言ってたから。その……オレ達、ここにいて大丈夫なのかなって……」
なるほどね、と佐々波は面白そうに笑った。真剣に気になっていたフタバはからかわれていると勘違いし、少し顔を歪める。
佐々波が言った。
「どーせ桜月のことだから難しく言ったんだろ。ただ俺たちは王室を守る軍隊ってだけ。結構いい仕事してんのよー?」
「でも――王様を守るためなら、街の人も殺すんでしょ?」
「あー……」
その沈黙に、フタバは確信を抱いて肩をすくめた。
民間人すら殺す機関にいることがフタバの心配だったのだ。何よりも、姉であるまどかの事が大好きなフタバは、この教団で事件に巻き込まれ、まどかと引き離されることだけは避けたいのである。
「でも、民間人を殺すなんて戦争の時とか、反乱のときとかだけだぜ? 本来ならそれもいけないんだろうけど」
努めて明るく言う佐々波に、フタバの気持ちも少し和らぐようだった。
「それにお前たち姉弟はここでしか生活できないだろ? 嫌かもしんないけど、ちょっと我慢してくれよ。国王サマがお前らを呼んだ理由を言ってくれるまで」
「別に嫌ってわけじゃないけど……」
桜月や佐々波をはじめ、団員たちは仲良くしてくれる(縹は別だが)。不満という不満はないのだが、これから先の身の危険を危惧しての相談なのだ。
「ま、お前ら姉弟のことは俺らが守ってやるから。ちゃんと無傷で元の世界に返してやるよ」
な? と佐々波はバシバシとフタバの背を叩いた。半ば無理やり納得させられたフタバは戸惑い気味に頷いた。
相談も曖昧ながら解決したところで、フタバは佐々波の部屋を見渡す。
師団長の自室というだけあり、フタバとまどかのいる部屋より広く、家具も充実していた。意外ときちんと整頓してある、居心地のいい部屋だ。
二人が座っているソファの向かい側にある本棚には大量の本が収納されている。そのひとつひとつに目を移すと、それはすべて医学関係の本ばかりだった。
「佐々波さん、お医者さんなの?」
だしぬけな質問に、佐々波は一瞬目を丸くさせた。――が、すぐに笑って返した。
「昔の話な。入団する前は医者を目指してたんだ。ほら、給料高いし老後も安心でしょ? こー見えても学院館では主席だったし」
「へえ……?」
“しゅせき”ってなんだろう? と思いながらもフタバは相槌をうつ。
「入団は桜月と同期だったんだけど、最初はあいつ驚いてたなー俺様の博識さに! ああ見えても桜月は学院館とかに通ってなかったらしくて、十歳まで字も書けなかったらしいぜ」
「そ、そうなんだ。桜月さん、昔から頭良さそうなのに」
「んー……あいつ入団前、いろいろあったらしいからなあ」
眉をひそめる佐々波に、フタバはそれ以上質問をすることが出来なかった。
時刻は真夜中を回っている。フタバは足早に佐々波の部屋を出て行った。
< 2 >
「綺麗な月ですね」
縹の部屋のソファに座った桜月は、さきほどからベッドに座る縹をちらりとも見ようとしない。ただ窓の外に浮かぶ月を見つめるだけだった。
その様子を縹は訝しげに凝視していた。薄紫色の着流しは、桜月によく似合っていると思った。彼の背に垂れる黒髪はまるで 水ではなく風が流れる渓流であるかのようにさらさらだった。
「お前、何しに来たんだ……」
「縹さんとお話するために決まってます」
「それは分かるけどよ……」
縹は普段、もはや特技とも言える自分勝手さと悪利きする口ぶりで周りの部下と接するのだが、桜月だけにはなぜか敵わないのだ。それは自覚している。桜月はただの穏やかな青年ではない。女性的な外見に隠された内面は、長年の付き合いである縹ですら理解できない部分がある。ゆえになかなか桜月の言動の意図を掴めないのだ。
「懐かしいなあ。昔、色街にいた時――ほら、館の外に出れないでしょ? だから仕事がない時はよく、物置の格子越しに月を眺めてたんですよ。最近忙しいし雪空ばかりで、こうして月を眺めるなんて久しぶりです」
縹は戸惑いながらも耳を傾けていた。
「この女性用の藤色の着流し――色街を去る前に、館の花魁から貰ったものなんです。なんだか捨てられなくて。ますます女性っぽいなんて言われちゃいますよね」
「……。」
「――この、髪も。もう腰まで伸びてて、洗うのが大変なんです」
淡々と話す桜月に、縹はじっと話を聞くだけだった。桜月が己のことを話すことは滅多にない。よく聞いておこうと思った。
「みんなに聞かれるんですよね。髪を切らないのかって。女性に間違われたくないなら切った方がいいって」
「……俺もそう思うが」
「――あなたがそれを言うんですか?」
意味深な笑顔を作った桜月は、緩慢な動きでソファから腰を上げた。外の月を軽く見上げると、すぐに振り返って縹の側から離れ、扉のノブに手をかける。
「私が髪を切らない理由、あなたが誰よりも知ってると思っていましたが」
ぐ、と縹は自分の息が詰まるのを感じた。
「桜月、お前、まだ――」
「……おやすみなさい、縹さん。いい夢を」
扉が静かに閉まった。途端に静寂が訪れる。足音にさえ罪悪感を覚えるほど静かだった。
ほんの数分の会話だった。しかしそれでも、桜月が何を言いたいのか、縹には痛いほどに分かってしまった。桜月は“昔”のことを話していた。彼が忌まわしいはずの過去の話をする時は、必ず“なにか”を思ってだ。
(あいつ……まだ“あのこと”に執着してやがんのか)
月光が責めるように鋭く縹を射す。桜月があんな事を言うものだから、縹自身も過去の出来事を嫌でも思い出してしまう。
過去の記憶を消したくて、ベッドにもぐり込んだ。思い出したくない。
あの頃は、周りの者みんなが苦しんでいた気がする。――いや、みんなが苦しんでいるのは、今も同じだろうか……。
<第十二話 「月」・終>