第十話 幽・2
十話目にしてようやく話に進展が。
ちなみに今回は井上姉弟が空気です。
鍛錬場は緊迫の空気に満ちていた。
そのドームの中央に置かれた少し場違いな椅子には、縹、佐々波、桜月の三人が座っている。三人が黙って見ているのは、目の前で行われている入団試験だ。
「うわあ!」
またひとつ、受験生の悲鳴が響く。受験生はみぞおちに食らった一撃で、鍛錬場特有の柔らかな床に転げ落ちた。
「女とて甘く見ぬ事です――出直して下さいませ」
陽炎の静かな、それでいて烈しい声が言った。
受験生は逃げるようにして鍛錬場から出て行く。陽炎はその背を見送りながら、手にしている鍛錬用の槍を静かに下ろした。
「いやー、やっぱ陽炎さんの太刀は速いっすねー。速さでは教団一じゃないっすか?」
場違いなほどの飄々とした声で佐々波が椅子に座ったまま声をかける。陽炎は控えめに頭を下げた。
入団試験の受験内容は、実技試験である。
試験官のひとりと刀を交え、その様子を他の試験官が観察するという簡単なもの。
今回、受験生の相手を担うのは陽炎だ。女性のほうが受験生を緊張させないだろう――という佐々波の提案だった。
しかしこれまで数十人の受験生が陽炎に立ち向かったが、誰ひとりとして満足に陽炎と戦うことすら出来ていない。
女といえども、陽炎は第三師団長なのだ。動きにくいだろう着物を纏いながらも脅威の速さの槍の太刀を誇る彼女を、仲間ながらに恐ろしいと縹たち三人はひそかに思っていた。
「今回の入団試験は骨なしの奴ばっかですかね、団長」
佐々波の言葉に、縹は重く頷くしかなかった。
「――次の奴を呼べ、佐々波くん」
「はいはいっと」
淡々と、入団試験は続いていく。
そして“彼”が鍛錬場に現れたのは、百人もの受験生を相手にした入団試験も終わりに差しかかろうとしていた――夕方のことだった。
<第十話:幽・2>
入団試験の様子を小窓から覗くフタバとまどかは、小声もそこそこに興奮していた。
「凄いわねフタバくんっ! 陽炎さん、着物なのにあんなに早く槍を振り回して男達を倒しちゃうなんて!」
まどかが爪先立ちをしながら言う。隣でも空き箱のうえに乗ったフタバが、同じように興奮を隠せないでいた。
試験官である佐々波たちの姿は、フタバ達からだと後ろ姿しか見えない。それを良いことに、二人は小窓から顔を出さんばかりの勢いで身体を乗り出していた。
「あの舞妓さんみたいな格好の女の人すごいね、姉ちゃん! あ、また男の人が入ってきた」
フタバが言った通り、鍛錬場に新たな受験者が入ってくる。
広い鍛錬場だ。扉と正反対の場所にある小窓にいるフタバたちからは、受験生の顔はよく見えない。
しかしこれまでの受験者たちと同じく、着物を着ている長身の男――ということは分かった。
「こちらへどーぞー」
佐々波が間抜けた声で新たな受験者のその青年に声をかける。
青年はゆっくりと鍛錬場の中央に歩み寄る。その動きに、佐々波たちはゾッとした――というのは、青年は長身で細い体をユラリユラリと揺らめかせながら、おぼつかない足元で歩くのだ。そして佐々波たちの側に来た男は、青白い肌に、肩までぞんざいに伸ばした黒髪。常世を眺めているかのような細い目――それらはまるで、幽霊のようだったのだ。
「……桜月」
椅子に座ったまま凝視していた佐々波が、男から目を離さずに囁く。
「何ですか……佐々波さん」
「あの男――名前は? どこから来た奴だ」
桜月が手元の机に置いておいた受験者の名簿を手に取った。
「名前は『早乙女 炎』。出身地は不明になっています。年齢は25歳」
炎という名前にしては気味の悪すぎる男だと三人は思った。
佐々波が、黙ったままの縹に向かって珍しく真剣に言う。
「団長、あいつ様子が変っすよね?」
「黙って見てろ」
「…はいはーい」
口を結んだ佐々波の前、早乙女という男が陽炎の前に立った。隈をつくり、薄く開いた細い目が陽炎をじっと見つめる。彼は、言葉の無意味さを語るかのように黙っていた。
背筋を走る冷たい空気に、陽炎は僅かに肩を寄せる。
(何だこの男……妙な雰囲気だ……しかし卓之介様の前――手を抜くわけにはいかぬ!)
男の纏う霊のような空気に怖じることなく、陽炎はグッと愛用の槍を握る。
佐々波が試験開始の合図を出した。それを横目で確認すると、陽炎はもう一度、きつく槍の柄を握った。
「参ります。お覚悟なさりませ!」
剣を出すわけでもない、立ったままの早乙女に槍を向けると声高々に言う。
――すると、今まで意識がないかの如く佇んでいた男が、ユラリと緩慢な動作で着物の懐に手を差し入れた。
(短刀でも出すのか……?)
陽炎は槍の切っ先を早乙女に向けたまま、その様子を凝視する。この入団試験に臨む際の武器は自由である。早乙女は最初、手ぶらだった。武器を懐から取り出すのかと思っていた陽炎だったが――。
早乙女はゆっくりと、懐から手を引き抜く。
その手には、一枚の札が。黒い墨で文字が羅列しているお札だ。
そんなものを取り出して何をするのか――離れた場所にいる縹たちも訝しげに早乙女を見ている。
その時だ。
早乙女が動いた。――正しくは、早乙女の血色の悪い、紫色の唇が動いたのだ。
経文を唱えるかのように、ブツブツと札に向かい呟いている。気味の悪い光景だ。陽炎は攻撃を仕掛けることも出来ず、その様子を唖然と見ることしか出来ないでいた。
「――あ、あれは…っ?」
遠くの桜月がすばやく異変に気が付く。
早乙女が手に持つお札から、黒いモヤのようなものが立ち昇っているのだ。それは早乙女が“何か”をブツブツと呟くたびに増え、陽炎の周りに煙のように立ち込める。
「縹さん、何かおかしいですよ」
そう訴える桜月だったが、縹は依然として陽炎と早乙女の様子を眺めているだけで、何も口にしようとはしなかった。
入団試験中のアクシデントには極力、縹たちは関わってはいけないのだ。陽炎と、受験者だけの問題なのである。
「陽炎さん……」
心配そうに見つめる桜月の視線の先では、陽炎の周りを覆っているモヤが既に陽炎の姿を見えなくするまでに彼女の身体を包んでいた。
黒くなる視界。陽炎は舌打ちをして辺りの様子を慎重に伺う。
(この黒い煙は一体…? あの男、何をしようとしている?)
このモヤの渦から脱出しなければ。
そう思い身体を動かしたときだった。
「あっ!」
急に立ち込めるモヤが陽炎の身体を襲うかのように迫ってきたのだ。意思をもつかのように、黒いモヤは陽炎の全身を覆い、彼女の動きを止める。
ただのモヤではない――そう分かっても遅かった。黒い“それ”に身体を締め付けられる陽炎は、肺が圧迫され、呼吸が薄くなるのを感じた。
「ぐう……っ」
やがてそのモヤは顔面にまで及び、陽炎の口と鼻をも塞ぐ。完全に呼吸が絶たれた。
(ま、まずい! このままでは……!)
身を捻ることも出来ず、瞬きすら満足にいかない。黒いモヤに覆われているため、縹たちから自分の様子は見えないだろう……。
「美しい女性が苦しむ姿は――たまりませんな。」
モヤの向こうから、低く、ざらついた声がする。早乙女の声だ。あの男には陽炎の様子が見えているのだろうか。
(あの男! わたしを殺そうとしている……!)
限界が近付いてきていた。呼吸が絶たれて数分もすれば死に至る。入団試験で受験者に殺されるなど、冗談じゃない。しかし陽炎には抗う術はない。
いよいよ意識が遠のいてくる。最期を覚悟した陽炎は、心の奥で想い人の名を呼んだ。
(た、卓之す…け…さ――ま――)
その時だった。
「陽炎さん!」
激しく視界が開ける。一瞬、何が起こったのか分からなかった。
ようやく虚ろな目の焦点が合ったとき、目の前には桜月がいて、その心配げな瞳には床に伏し荒く呼吸を繰り返す自分の姿が映っていた。
黒いモヤは消えていた。
「陽炎さん、大丈夫ですか?」
「つ、九十九殿……、私は…?」
「黒い煙みたいなものに囲まれてて、私達からは何があったかは……」
ようやく、陽炎は死に至りかけていた自分を桜月が助けてくれたのだと理解した。しばらく呼吸が止まっていたので、ひどく身体が重く、頭が痛む。それでも視線を辺りに移すと、椅子に座ったままの縹と佐々波――そして何事もなかったかのように佇む早乙女の姿があった。
「早乙女さんが妙な札から出した煙に陽炎さんが覆われて……。煙の中から陽炎さんが出てこなかったので、まさかと思って……」
だんだんと回復してきた身体を、陽炎はゆっくりと上半身だけ床から起こす。
「かたじけのうございます、九十九殿……」
本来ならば試験中に陽炎以外の試験官は、実技試験に立ち入ってはいけない掟なのを、桜月は掟を破ってまで助けに駆けつけてくれたのだ。しかしもし桜月が助けに来ていなければ――と考えると恐ろしい。
浅く呼吸を繰り返しながら、陽炎は側に佇む早乙女を見上げた。
相も変わらず、同じ人間を見ているとは思えない瞳をしている。入団試験にて、試験官を殺そうとしたその男――。
陽炎は身に残る最期を覚悟した瞬間を思い出し、悔しさで拳を握った。
<第十話 「幽」・終>