婚約
扉が開く音が響き、クロムが一人で入ってきた。そして、もじもじしながら私の前に立った。
「リリア様、僕と婚約してくれないでしょうか。」
私は、この言葉に驚いた。お付き合いから始めましょうという言葉が出てくると思っていたが、出てきたのがまさかの婚約という単語だったのだ。クロムはまっすぐと欲や邪念などない透き通った瞳で私を見つめている。そこから彼の真剣さが伝わってきた。
『お気持ちはありがたいのですが、ご両親に相談なさってから決断した方が良いのではないでしょうか。ましてや平民の私などクロム様に釣り合いません。』
「わかりました。両親に相談してからにします。ちなみにですが、姉の許可は取れました。」
それは丸聞こえだったから知ってる。クロムは部屋から出ていき、一難が去った。それから、入れ違いでトレイシアが入ってきた。
「あら、どうかしたのリリア。」
『お前、知っててそれやってるだろ。』
「ふふふっ、クロムは優しくて良い子よ。しかし、貴族の世界で生きていくには優しすぎるから心配なの。貴方になら安心して任せられるわ。」
私はわかりやすく頭を抱えた。なぜまだ二回しか会ったことがない人間をそうも信用できるのかは私にはわからない。
「なぜ私をそこまで信用しているのか不思議っていう顔をしているわね。私はね、天秤魔法が得意なの。だから物事や会話の内容が真実なのか偽りなのかがすぐにわかってしまうのよ。貴方は私に一度たりとも嘘をつかなかった。それだけで信用に足りるのよ。」
『そうか。』
この話を終わらせ、違う話をした。
会話を続けていると食事の用意ができたらしく、食堂に向かった。食堂にはトレイシアの母とクロムだけでこの屋敷の主の姿が無かった。トレイシアの母が私に話しかけた。
「主人は王都への出張中で不在なのです。申し訳ありません。」
『いえいえ、とんでもないです。』
この会話の後、隣にいたトレイシアが席に着くように促した。そして、使用人たちが次々に料理を運んできた。どれも家では見たことがない料理ばかりであった。
「いつもこんなに豪華ではないのよ。今日はリリアが来ているから特別よ。」
『すまない。気を使わせてしまって。私ならパンと水で十分だ。』
「あら、そんなこと言わないで。客人をもてなすことも貴族の仕事なのよ。」
トレイシアが嬉しそうに話した。
皆がテーブルに肘をつき手を組み祈り始めた。とりあえず私も似たような姿勢を取ってその場をやり過ごした。トレイシアの母の合図を皮切りに食事が始まった。まずは目の前の真っ白なスープを一口飲んだ。ほのかに甘みがあり、ナッツ類に似た香ばしい香りが鼻を抜けた。おいしい。私の口角が少し緩んだ。次に私が目を付けたのは、皿に取り分けられた肉と緑黄色野菜の炒め物であった。肉と野菜を一緒に口へ入れた。肉は鶏肉であり、皮がパリッと中はしっとりしており、肉のうま味の後に野菜の優しい甘味がふと顔を出す。野菜の歯ごたえもあり絶品であった。その次にソーセージ・・・ 気づくと会話もせず夢中になって食事をしてしまった。最後にデザートが運ばれてきて私は冷静さを取り戻した。
「料理が満足いただけたようで何よりです。」
『すみません。大変絶品で夢中になってしまいました。』
トレイシアの母はニコニコしていた。
「では少し固いお話があるのですがよろしいでしょうか。」
『はい。』
「クロムからリリア様との婚約の件は聞いております。」
私は、トレイシアの母に一切の笑顔がないことから確実に怒られると感じた。
「わたくしはリリア様であれば問題ないと考えております。」
思わず、なんでやねん と正統派突っ込みが出そうになった。というより文頭の“な”までは出た。
「クロムは未成年なので、婚約には親の同意が必要です。なので、ここにわたくしのサインとクロムのサインがしてあります。ですので、あとはリリア様とリリア様のご両親のどちらかのサインだけになっております。」
トレイシアの母が婚約書の名前の欄を指して私に話した。
「わたくしは、むしろリリア様がクロムの伴侶になって欲しいと思っています。」
『奥様、私は平民ですよ。釣り合うわけがありません。』
「それについては気にすることはありませんわ。フローリア家とはアトア地方の管理を任せているほど深い仲なのです。それ故にフローリア家の娘がオルフェス家へ嫁ぐことは何ら不思議ではありません。後、義母さまと呼んでくださって良いのですよ。」
流石トレイシアの母親だけのことはある。ガンガン押してくる。
「私もリリアが家族になることは大賛成よ。」
私の味方などこの屋敷には一人もいなかった。私はテーブルの上に置いてあるペンを握らず、カーテンの閉まった窓を見つめ、遠くを眺めているふりをした。
「僕じゃダメでしょうか。」
半泣きのクロムが私を見つめてそう言った。流石にこれを無視できず、私はサインしてしまった。
翌朝、空を駆ける馬車に乗り帰宅した。馬車を降りると白髪のおじさん紳士が私へ婚約書の入った筒を渡した。
「リリア様、お忘れになりませんようにお願い致します。」
『はい。大丈夫です。』
馬車が飛び立った後、私は家に入り、母にこの筒を渡した。母が筒から婚約書を取り出して読むなり、怒鳴り声が家中に響いた。なにやら私が貴族の息子を誑かして婚約したと勘違いしたようだった。必死で説明するも聞く耳持たずであり、すぐに乗合馬車で丸一日かけてオルフェス家の屋敷へと向かった。
屋敷に着くと使用人に客間へ案内された。その数分後にトレイシアの母とクロムがやってきて形式的な挨拶を交わした。
母が自身の頭を下げると同時に、片方の手で私の頭を無理やり下げさせた。
『申し訳ありませんでした。娘がオルフェス家のご息子を誑かしてしまったようで。この婚約は破棄してもらって構いません。』
「頭を上げてください。そんな誑かすなど滅相もございませんわ。むしろクロムから言い寄ったのですから。それにリリア様には、わたくしと娘の命を救っていただいた御恩があります。加えて、人間としても優れてらっしゃると考えております。これはわたくしだけでなく、オルフェス家としての意向ですわ。」
この発言に母は目の色を変え秒でサインした。これにて私とクロムの婚約が確定してしまった。